1 「…私は一体、誰の人生と一緒に生きていたんでしょうね」
宮崎の実家の誠文堂文具店で店番をしている武本里枝(りえ/以下、里枝)が、ペンの色を揃えながら、抑え切れず涙を流す。
里枝 |
そんな時、大雨の中、スケッチブックを買いに来た男が店の停電の際にブレーカーを上げてくれて、その後も、寡黙な男は画材を買いに来るようになった。
里枝は離婚し、母と息子・悠人(ゆうと)との3人暮らし。
悠人 |
悠人が外に遊びに出ると、文具店に来た男が、スケッチブックで絵を描いている。
大祐 |
男の名は谷口大祐(だいすけ/以下、大祐)と言い、最近、この町で林業に従事し始めたばかりである。
その大佑について、役所では、伊香保温泉の老舗旅館の次男坊が、どうして林業するのかと噂している。
雨の日、大祐が店に来て、自分のスケッチした絵を里枝に見せる。
「もし良かったら、友達になってくれませんか?」
驚いた里枝は、離婚して息子がいることを伝えると、大祐は恐縮するが、里枝は大祐の名刺を受け取り、自分も手書きの名刺を渡す。
「いつでも、絵、見せに来てください」
親しくなった二人は食事をしながら、悠人の弟が2歳で亡くなった時の話をする。(悠人の弟の死がトップ画像の里枝の涙の原因であることが判然とする)
治療のやり方を巡り夫と対立したことが原因で離婚し、できる限りをことをしてあげられなかった苦しさで涙する里枝の手を握る大祐。
その子の名を聞いて、「リョウ君、リョウ君」と声をかけた。
二人は親密な関係となり、大祐が車の中で里枝にキスしようとすると、フロントガラスに映った自分の顔を見て、怯(おび)えるようなパニックを起こす様子を目の当たりにした里枝は、「大丈夫、大丈夫」と大祐を優しく抱き締める。
まもなく、再婚した二人の間に娘・花が産まれ、妹ができた悠人は中学生になっていた。
朝の4人家族の仲睦まじい団らんの様子。
「山へ行っていい?」と悠人が聞き、子煩悩な大祐は、登校中の悠人を林業の現場へ連れて行く。
ところが、大祐は伐採中に転び、倒木の下敷きになり逝去してしまうのだ。
現場に居合わせ、衝撃を受けた悠人は、自転車で坂を上り、「父さんの木」を見上げ続ける。
父の死を目の当たりにする悠人 |
自宅での一周忌の日、大祐の兄・恭一が訪ねて来た。
「最後までいろんな人に迷惑をかけて…何でもっとまともな生き方ができなかったんでしょうね。こんなとこで、木の下敷きになって死ぬなんて、最後まで親不孝ですよ」
谷口恭一(右)、初枝と里枝(左) |
仏壇で恭一が線香をあげ、遺影を見ると、唐突に「大祐ではない」と言うや、里枝と押し問答になる。
「じゃ、この人…誰なんですか?」と里枝と恭一。
その後、里枝は7年前の離婚調停の際に世話になった弁護士の城戸章良(きどあきら/以下、城戸)に依頼し、生命保険の名義を「X」として受け取り、大祐の戸籍上の死亡を取り消すなどの手続きの指示を受けた。
城戸 |
城戸はDNA鑑定のために、里枝から大祐の毛髪や使っていた歯ブラシを受け取り、置いてあったスケッチブックを開く。
「いい絵ですね。少年が、そのまま大人になったみたいな」
「ほんとに、この絵のとおりの人だったんです」
ページをめくると、大祐の目をグチャグチャに描いた自画像が目に留まる。
「夫は、犯罪に関わってるんでしょうか」
城戸は人権派の弁護士として、堅実な仕事をしており、妻・香織(かおり)と4歳の息子・颯太(そうた)との3人で暮らしている。
香織の両親を招いて食事をしていると、義父が生活保護の話から在日の話が出て、三世で帰化している夫を気遣う香織。
「あ、もちろん、章良君は全然別だよ」と義父。
「…もう三代経ったら、日本人よ」と義母。
香織(左) |
もう一人子供が欲しいと言う香織は、父の援助で一戸建てに引っ越すことを提案する。
気乗りしない城戸。
その後、城戸は、伊香保温泉の恭一の旅館を訪ねた。
弟の大祐の顔写真を確認し、恭一から大阪に住んでいたところまでは確認できていると知らされる。
恭一は、大祐が入れ替わった男Xに殺されたと思っており、生命保険を受け取った里枝も調べるべきだと城戸に進言する。
その足で、地元のスナックで働いている、大祐の元恋人・美涼(みすず)を訪ねて、大祐を名乗った男の写真を見せ、問い合わせたがあっさり否定される。
「この人が大祐に成り済ましていたんですか?」(美涼) |
大祐は突然、消息を絶ち、その後は音信不通のままであると知らされる。
里枝は城戸からの電話で、現在分かっている情報を聞かされることになる。
「DNA鑑定の結果、Xさんは谷口大祐ではないことが確定しました…これで、事実上の婚姻関係はなくなり、里枝さんは未亡人でもなくなります…里枝さん、大丈夫ですか?」
「…私は一体、誰の人生と一緒に生きていたんでしょうね」
不安に苛まれる里枝。
事務所の同僚弁護士の中北から、2013年大阪で「年金不正受給事件」における戸籍交換を仲介した小見浦憲男(おみうらのりお)の事件を知らされた城戸は、大祐が大阪にいた頃とも重なり、早速、大阪刑務所に服役している小見浦を訪ねた。
中北(左) |
小見浦は、城戸と対面するなり、在日だろうと言い当て、事件と関係ないことを一方的に話す。
そして、Xの写真を見せると伊香保温泉の次男坊と戸籍交換したと認めるが、肝心の誰と交換したのかについては、はぐらかして答えなかった。
小見浦憲男 |
「交換やなくて、身元のロンダリングですよ。汚い金と同じで、過去を洗い流したい人は、いっぱいいるんです。先生かて、在日が嫌で、交換したいと思ったことあるでしょ?」
それだけだった。
後日、小見浦からハガキが届き、そこに「曽根崎義彦」という名が記されていた。
坂道を先に歩く悠人に追いついた里枝。
「どうしたの?」
「父さんの木、覚えてる?」
里枝は、家族の名が付けられた、それぞれの木を指差す。
「今年の命日も、父さんのお墓、作ってあげなかったね…僕、また名字変るの?生まれた時は米田で、母さん離婚して武本になって、で、父さんの谷口。僕、次、誰になればいいの?」
不満を漏らす悠人に、里枝は「父さんね、本当は谷口大祐っていう名前じゃなかったの」と、初めて真相を伝えた。
「え…じゃぁ、誰だったの?」
里枝は今調べていて、まだ分からないので、お墓も作れないと説明する。
「僕の、谷口悠人って名前は、何なの?」
「谷口っていうのは、あたしたちが知らない人の名前」
一方、城戸のフェイスブックの告知で知った「極点の芸術 死刑囚が描く」の展示会場を訪れた美涼は、自ら作った大祐の成り済ましのフェイスブックを城戸に見せる。
「本人が見たら、絶対に連絡してくるはずだから」
城戸は展示を見ていると、Xが描いた絵に似た作品を発見する。
パンフレットから、作者の顔写真でXと酷似していることを確認する。
Xこと小林謙吉はギャンブル依存症で、仕事先の工務店の社長夫婦と小6の息子の一家3人を惨殺した強盗殺人犯である事実が判明した。
一審で死刑が確定し、2003年に死刑執行されていて、年齢も親と子ほど離れている。
つまり、Xは小林謙吉の息子の原誠(はらまこと)であり、離婚して母親の姓を名乗り、前橋市の児童養護施設で育ったということ。
そして、プロボクサーとしても名が残っているという事実を調べ上げる城戸。
しかし、ハガキに記されていた曾根崎とは結び付かず、再び小見浦を訪ね、「伊香保温泉の家族から逃げて、大阪にいた谷口大祐と、死刑囚の息子としての人生を歩んでいた原誠の戸籍交換」について、直截に聞き質していく。
相変わらず詭弁(きべん)を弄(ろう)する小見浦に、曾根崎のことを聞き出そうとすると、城戸を口汚く罵る始末だった。
「アホ丸出しですね。生きてて恥ずかしくないんですか。先生は、朝鮮人のくせに、私を見下しているでしょ。私のこと、ただの詐欺師やと思うて、何を言うても、信じないんです。私を差別主義者と思いながら、自分の方が差別しているんです」
笑って受け流して聞いている振りをしていた城戸が、烈火の如く怒るのだ。
「差別も何も、実際はあんたは、詐欺罪で服役してるでしょ!」
「アハハハハ!先生の一番アホなとこ、教えてあげましょか…私が小見浦憲男っちゅう男やて、どうして分かるんです?…私だけ、どうして、戸籍変えてないと思うんですか?アホやなぁ。アホな先生に、最後に一つだけ教えてあげますわ」
帰路、城戸が細い路地を歩いていると、脇道に赤い野球帽を被った少年・誠が立っていた。
幻視である。
ここで、先の小見浦の声がリフレインする。
「先生が熱心に正体知りたがってる男はな、つまらんヤツですよ…人殺しの子なんて、所詮そんなもんですよ」
回想シーン。
誠が工務店の友達のところへ、野球の誘いにやって来たが返事はなかった。
その時、事務所から返り血を浴びた少年の父が出て来て包丁を捨て、「おう、誠」と言って、血だらけの札を押し付けられるが、誠の手が震えて落としてしまう。
少年は恐る恐る、血だらけの男が横たわる凄惨な現場を目撃し、奥に腹を刺されて息絶えている友達の姿を視認するのだ。
生涯にわたるケアが求められるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の初発点と化していく |
この苛酷な体験の記憶がトラウマとなって、大人になってもフラッシュバックを起こし、誠を苦しめるのである。
城戸は原誠が所属していたボクシングジムを訪ね、会長の小菅とトレーナーの柳沢に話を聞く。
「誠が来たのは、2001年の春ですよ」と小菅。
「初めの印象は、なんか気味悪かったですよ。暗いっていうか、怖いっていうか、正直苦手でしたね」と柳沢。
小菅会長(中央)と柳沢(左) |
ボクシングのことは何も知らずに来たが、運動神経もよく、すぐ上達しプロテストに合格し、順調に試合を勝ち上がって行き、注目を浴び始めていた。
「ご存じでしたか?原誠さんのお父さんのこと」
「ま、びっくりはしましたけど、親は親、子は子だし…」と会長。
「分かったのは、誠が新人王決定戦に出る前で、あいつ、辞退したいって言ったんですね。俺も相談されて。それで、何でだって、会長が聞いたんです。そしたら、親父さんのこと話し始めて」
回想シーン。
誠と小菅がジムの練習場で話し合う。
「そんな明るい場所に、俺、立ってもいいのかなって」
「そりゃ、お前、お前の純粋な実力で勝ち取ったんだろ?」
「正直、勝ち負けとかは、どうでもいいんです。俺がボクシング始めたのも、自分を殴るためだから。朝起きて、鏡見るじゃないですか。したらね、そこに親父いるんですよ。俺、そっくりなんです。自分の体に親父いるって思うと…体かきむしって、はぎ取りたくなる。だから、俺、ボクシングで、この体虐めてるんです。この体…もう、それだけなんです」
「じゃあ、お前、あれか?自分が苦しんだら、殺された人が生き返るのか?…生き返るのかって、聞いてんだよ!じゃあ、俺が、殴ってやるよ」
タオルを手に巻き、誠を殴る会長に、柳沢が止めに入る。
「新人王になりたくて、なりたくて堪(たま)らない奴のこと、考えたこと、あんのか!」
柳沢が誠に、親身に語りかける。
「会長さぁ。お前の強さ、買ってんだよ」
「すいません」
「今のお前の家族はさ、俺たちだろ?」
そう言って、柳沢が誠の頭を撫でる。
誠はバイト先で一緒に働く茜のアパートで結ばれようとするが、鏡に映った自分の顔を見て過呼吸となり、抱こうとする茜を振り払ってしまう。
服を掴んで出て行った誠は、真夜中の道を自転車で疾走する。
「本日8時15分、小林謙吉さんの死刑が執行されました」と連絡が入り、父親の遺体の引き取りについて問われた誠は、「結構です。父の物は何一つ引き取るつもりはありません。今後、このことで連絡して欲しくもありません」と答える。
猛スピードで自転車を走らせる誠の後ろ姿。
柳沢ととランニング中に、突然、誠は道路上に倒れて横たわり、荒い息の中、咽(むせ)び泣きながら藻掻(もが)くのだ。
現在。
「その後すぐ、あいつ事故起こしたんです…ビルから落ちたんです…本人は“うっかりしてて”とか言ってましたけど、うっかり落ちないでしょ」
一瞬、考え込む城戸。
「会長さんは?」
「会長もショックでね。今はもうすっかり元気ですけど、随分、長いこと鬱だったんですよ。さっき、席外したでしょ。しんどいんですよ。思い出すと多分」
柳沢は城戸に、誠の最期が自殺かどうかと訊ね、そうではなかったと知ると、ホッとして誠の家族写真をしみじみ見つめながら呟く。
「あいつと今、話したいこと、いっぱいありますよ」
誠の悲哀だけが浮き彫りにされていくのである。
2 「こうまでしないと、生き治せない人がいるんです!」
城戸は自宅で資料を整理しながら、外国人排斥のデモの映像が映し出されたヘイトスピーチを取り上げた報道番組を見ている。
息子の颯太(そうた)が遊んで投げ、ぬいぐるみがワインにぶつかり、書類を濡らしてしまうと、逆鱗に触れた城戸が、大声で怒鳴りつける。
「なにやってんだ!」 |
颯太が泣いて、香織に抱きつく。
「最近なんか、別の人みたい。囚われ過ぎじゃない?人捜し。そういうの、あんまり家庭に持ち込まないで欲しいな。その人の人生が、あなたの何だっていうの?」
「分からない。ただ、なんか気が紛れるんだよ。なぜか。他人の人生追い駆けていると」
「死刑囚の一人息子よ。私には理解ができない」
「自分でも分からない。現実逃避かな」
「悪趣味ね。私のせい?私から逃げたいの?」
「まさか」
「とにかく早く終わらせて。いつものあなたに戻って」
城戸の弁護士事務所に里枝と恭一が呼ばれ、一連の調査報告をした。
「結論から言うと、あなたの夫だった方は、何の罪も犯していない、善良な人間です」
「人の戸籍、無理やり奪っといて、何の罪もない?どうせ、うちの遺産目当てだろ。だいたい、何でよりによって、死刑囚の息子なんかと」
「弟さんも同じだったんじゃないですか?せっかくこの世界に生まれてきたのに、こんな人生は嫌だ、どんな境遇でもいいから、今の自分を捨てて、新しい自分になりたい。谷口さんもそう思ってたんじゃないですか?」
「名前変えようが何しようが、死刑囚の息子は、死刑囚の息子でしょ」
城戸は思い切りファイルをテーブルに叩きつけた。
「二度目の人生を原さんは、精一杯生きようとしたはずです。こうまでしないと、生き直せない人がいるんです!」
恭一が気まずそうに呟く。
「大祐はもう、生きてないかもな」
家に帰った里枝は、悠人の部屋で帰りを待っていた。
名字を谷本に戻さなければならないと悠人に話す。
「僕さ。父さんが死んで、悲しいってのはさ、もうないんだよね。けどなんか…寂しいね。父さんに聞いてもらいたいこと、毎日いっぱいあるのに…」
「そうだね。悠人、父さんのこと、好きだったもんね…好きだったものね」
里枝が泣いている悠人の肩を抱き締め、頭を撫でる。
その頃、美涼が店でフェイスブックを見ていると、大祐のアカウントに「ただちに、このなりすましの偽アカウントを削除して下さい。対応がなされない場合はしかるべき方法で、法的に対処いたします」との警告のメッセージが入っているのに気づく。
警告元は「Sonezaki Yoshihiko」。
この情報から、本物の谷口大祐が見つかった。
事務所で、城戸は中北に説明する。
「小見浦は、本当のことを教えてくれてたんだ。原誠は二回名前を変えてた。原誠はまず、曾根崎義彦の戸籍を手に入れて、その後に、谷口大祐とまた、名前を交換した…過去が消せないなら、分からなくなるまで、上から書くんだ」
「その後に、谷口大祐とまた、名前を交換した」 |
城戸は美涼を連れ、名古屋にいる大祐に会いに行った。
美涼一人が待ち合わせの喫茶店に入り、大祐と対面する。
谷口大祐 |
「バカだなあ」と言って、涙ながらに大祐を叩く。
頷く大祐の頬からも涙が零れ落ちる。
美涼が振り向くと、外から見ていた城戸の姿はなかった。
城戸と里枝は、原誠が事故死した現場に花を手向け、手を合わせる。
里枝は調査報告を受け取り、城戸に感謝を伝える。
「原誠さんにとって、里枝さんと過ごした3年9カ月は、人生の全てだったような気がします。短い時間かも知れませんが、彼は本当に幸せだったと思います」
「そうですね。こうやって、分かってみるとですけど、本当のことを知る必要はなかったのかも知れないって、思えてきました。だって、この町で彼と出会って、好きになって一緒になって、花が生まれて…それは、はっきりとした事実ですから」
報告書を読んだ悠人に、里枝が「大丈夫?」と聞く。
「父さんが、どうしてあんなに優しかったのか、分かった」
「どうして?」
「自分が父親にしてもらいたかったことを、僕にしてたんだと思う」
「そうだね。でも、それだけじゃなくて、やっぱり悠人のこと、好きだったからだよ」
「花ちゃんには言うの?」
「どう思う?」
「僕が話すよ。いつか僕が、花ちゃんに教えてあげる。どんなお父さんだったか」
城戸は帰路、大きな木の間に、原誠の幻影を見る。
自宅に戻り、息子と熱帯魚に餌を与え、リラックスした時間を過ごしていた。
香織が飲み会から帰り、城戸は颯太と香織の会話を優しい眼差しで見つめる。
「どうしたの?」
「人探しの件ね、終わったよ」
「そう、よかったわね…あ、そうだ。戸建ての件、お父さんに断っておいた。手狭になったら、その時に考えるって」
水族館のレストランで、家族でランチをしている際、香織が席を立ったところで、颯太に渡された香織の携帯に着信した、昨夜会っていた男からのメッセージを偶然目にしてしまう。
「“昨日の夜はありがとう…今もまだ余韻の中にいます”」
城戸はすぐにメッセージを払って、戻って来た香織にスマホを渡し、気づかぬ振りをする。
ラスト。
とあるバーで、見知らぬ男と語り合う城戸。
「樹齢はどのくらいなんですか?」
「大体、50年くらいで切ってしまうみたいですね。で、家とかの材料になってから、また50年持つんだそうです。山で50年。人間と一緒に、あと50年」
「なるほどねぇ。ってことは、自分で植えたものは、切れないんですね」
「なんか、いい話だなぁ、と思って」
「受け継がれていく感じが?」
「そうそう。親が植えて息子が切る、みたいな」
「ああ、お子さん?もう大きいんですか?」
「4歳と13歳です」
「2人」
「県外からって言ってましたけど」
「はい。もともとは群馬なんですよ。伊香保温泉って…」
「ああ、はい、あの有名なとこ」
「実家が旅館やってて…でも、実家は兄が継いだんで、僕は出たんですけど」
「僕だったら、離れないなぁ。だって毎日、温泉入れるでしょ?ハハハハ」
「まあ、もともと家族とも仲が悪かったしね。それで、今の奥さんとも出会えたし」
「好きに生きるのが、一番ですよね。自分の人生は、自分だけのものですから」
「そうですねぇ。この人生は、もう手放したくないですね…あ、僕、そろそろ」城戸が席を立つと、客が挨拶をする。
「なんか、初対面なのに、こんな長々と…」
「いや、ほんと楽しかったです」
「あ、名詞だけでも…」
城戸は壁のマグリットの絵を見ると、3人の後ろ姿が重なる構図。
「鈴木といいます」
「あ、すいません。僕、名詞切らしてて」
「いや、全然」
「僕は…」
ラストカットである。
3 束の間の至福を経て昇天する男が物語を揺動させていく
ほぼ完璧な映画。
粗筋で書いた通りの物語だから、殆ど批評の余地がなかった。
成り済ましで生きていく外になかった原誠の悲哀が物語を貫流していて、骨身にこたえるばかりだった。
「自分の体に親父いるって思うと…体かきむしって、はぎ取りたくなる。だから、俺、ボクシングで、この体虐めてるんです」 |
しばしばパニック障害(強い恐怖心の発現が脳の延髄の機能に異常を起こす)を誘起するほどに、悲哀を引き摺って生きる原誠の人生行路の理不尽さに思いを馳せる時、彼と共存した妻子の悲哀もまた、観る者に言い知れぬ余情を催す。
特に、3年9か月もの時間を彼と共に過ごした里枝と、義父の死を目の当たりにした悠人の短い会話は深く胸を打つ。
「僕さ。父さんが死んで、悲しいってのはさ、もうないんだよね。けど何か、寂しいね。父さんに聞いてもらいたいこと、毎日いっぱいあるのに…」
「そうだね。悠人、父さんのこと、好きだったからね…好きだったものね」
同様に、夫を喪ったのみならず、谷口大祐の存在を否定され、藻掻(もが)き苦しむ里枝の悲哀を誘発し、城戸から調査報告を受け取った際の、以下の里枝の止めの言葉に収斂されていくので、観る者に救いをもたらす力になっていた。
「原誠さんにとって、里枝さんと過ごした3年9カ月は、人生の全てだったような気がします。短い時間かも知れませんが、彼は本当に幸せだったと思います」
「そうですね。こうやって、分かってみるとですけど、本当のことを知る必要はなかったのかも知れないって思ってきました。だって、この町で彼と出会って、好きになって一緒になって、花が産まれて、それははっきりとした事実ですから」
その通りなのである。
母子にとって、観念的には原誠でも谷口大祐でもどうでもいいのだ。
寡黙だが、仕事熱心で、優しく子煩悩な男であったことが全てだったのである。
ところが、人権弁護士としての誠心さから故か、谷口大祐の正体を強い思い入れを持って調査する主人公の心情の遷移が、映像総体を支配する物語として構成されているので、彼の心情の遷移を解読することが求められる。
これはラストシーンで回収される、ルネ・マグリットの「複製禁止」という絵画の提示で明かされていたが、あまりに完璧な構図に息を呑んだほど。
このラストシーンには重要な伏線がある。
妻・香織の携帯に着信したLINEを目にした城戸が妻の不倫を知り、それを見なかったことにして妻の明るい声を受け、変わらぬ日常を繋いでいく。
これが、物語の風景と異質な気配をもたらすラストシーンにワープされていくのだ。
谷口大祐に成り済ました城戸が、初対面の男性に対して、成り済ました者の人生を吐露するのである。
そこで吐露されたのは谷口大祐の人生ばかりではなかった。
谷口大祐に成り済ました原誠が得た「手放したくない」人生のインサートこそ、至要(しよう)たる何かだった。
「4歳と13歳」の子がいて、「親が植えて息子が切る」、「今の奥さんとも出会えたし」という印象的な言葉が随所に添えられていたことでも分かるように、「こうまでしない(戸籍交換のこと)と、生き直せない」人生を生き切って天に昇った原誠が辿り着いた、その束の間の〈生〉の至福が語られていたのである。
「こうまでしないと、生き直せない人がいるんです!」 |
これは、同様に差別に苦しんできた城戸が原誠の悲哀の人生に同化し、「こうまでしないと、生き直せな」かった彼の魂魄(こんぱく)が憑依(ひょうい)していたと考えることができる。
妻に不倫されても責めることをしなかった城戸にとって、その自我に累加されたストレスの束を吐き出すには、今や、より辛い人生を生き切った原誠に同化することで時間を繋ぐしかなかったのだろう。
だから、原誠に成り済ます。
そして、原誠が戸籍交換した谷口大祐にも成り済ます。
「もともと家族とも仲が悪かったしね。それで、今の奥さんとも出会えたし」(二人に成り済ますものの、コアは原誠)
谷口大祐もまた、折り合いがつかずに実兄から排除された人生を生きてきた若者だった。
もとより、弁護士人生を繋ぐクレバーな男には、妻の不倫の原因が、宮崎行きを繰り返すことで家庭を蔑ろにしたばかりか、その妻から不倫をも疑われていた自らの落ち度を認知できなかったとは思えない。
「最近なんか、別の人みたい」と言われ、不倫を疑われてしまう |
この二人の若者に成り済ますことは、城戸にとって、それ以外にないストレスコーピング(ストレスへの上手な対処)だったというわけである。
因みに、ルネ・マグリットの「複製禁止」のラストの構図には、同じような格好をする絵画を見る城戸がいて、絵画には谷口大祐と原誠が映し出されている。
特定他者に成り済ました3人の男に共通するのは差別と排除の対象となった履歴であるが、その悲哀が膨れ上がって集結する原誠が物語を揺動させ、今、絵画を見る男の格好のストレスコーピングに化けて閉じていったのだ。
―― ここで私は勘考する。
人は皆、考える。
「自分は何者であるのか」と。
その答えを明瞭に言い切れる人は、どれほどいるだろうか。
人間は複合的なのだ。
ミシェル・セールが言うように、「確固たる自分」などないのである。
誰にも影響されることなく、「確固たる自分」をアプリオリに構築されていたとしたら、〈生〉の意味を問う必要もないのである。
【ミシェル・セール/「確固たる自分などない」と主張するフランスの哲学者。だから人間は、死ぬまで「自分が何者なのか」と問い続け、煩悶することになる。それが人間だからである/画像はウィキ】 |
自我の確立運動の渦中で、多様な状況や関係性を通して様々な要素が絡み合って形成され、私たちが「個性」と呼称するものが胚胎(はいたい)していくダイナミズムの不思議。
この不思議の形成過程によって、「本当の自分」と信じる表象を手に入れたとしても、その表象に結ばれる行程それ自身に絡む要素の複合性が推進力と化しているので、「本当の自分」の根幹を成す何かは非常に曖昧なものであり、その信頼性の希薄さだけが生き残されていくに違いない。
人間のこの複合的形成行程こそ、私たちの個々の人格の曖昧性の芯にあるのではないか。
物語の主人公の心情の遷移に表現されたものが、私たち人間の複合的形成行程の在りようの偽らざる様態なのではないか。
累加された悲哀が辿り着いた束の間の至福を経て昇天する原誠が動かす物語が、主人公の心情の遷移を決定づけたのである。
そう思わせる映画だった。
「考える葦」である人間存在の輝きは、人間の複合的形成行程の在りようの様態それ自身だったのである。
ロダン「考える人」/国立西洋美術館(上野公園)で撮影 |
以下、物語の人物相関図。
人物相関図 |
【石川慶監督の長編映画では、「愚行録」・「蜜蜂と遠雷」を観ていて投稿もしているが、全て良い。特に「愚行録」の満島ひかりが鮮烈な印象を残し、忘れられない映画になっていた。「蜜蜂と遠雷」は松岡茉優が群を抜いてよかった。また、脚本を書いた向井康介の作品を多く観ているが、私には初期の「リアリズムの宿」がベスト。このオフビート・コメディを観て病みつきになってしまったほど】
「愚行録」より |
「蜜蜂と遠雷」より |
「リアリズムの宿」より |
(2023年6月)
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