2023年6月21日水曜日

ルーム('15)   「途轍もない特異性」が抱え込む破壊力が溶けていく  レニー・エイブラハムソン

 


1  「ママは7年間監禁されてるの…“世界”は広いのよ。信じられないくらい広い。“へや”は狭くて臭い」

  

 

 

「昔々、僕が下りてくる前、ママは毎日泣いて、TVばかりを見てゾンビになった。そして天国の僕が天窓から下りてきた。ママを中からドカンドカン蹴ったんだ。僕が目をぱっちり開けて、じゅうたんに出てきたら、ママがヘソの緒を切って、“はじめまして、ジャック”」(ジャックのモノローグ。以下、モノローグ) 

ジョイとジャック


朝目覚めたジャックは、母親のジョイに朝の挨拶する。

 

「ママ、5歳になった」

「もう、お兄ちゃんね」

 

髪を伸ばし放題でやせ細り、女の子のように見えるジャックは、いつものように、“へや”の中のあらゆるモノにも挨拶をする。

 

「おはよう、スタンド。植木鉢も…おはよう、クローゼット、じゅうたん…」 

ランプに挨拶するジャック



その後、ジョイはジャックにビタミン剤を飲ませ、歯磨きを指導し、共に、腕立て伏せなどストレッチを行い、体を鍛える。 

ジャックのストレッチ


“へや”にはベッドもバスルームもキッチンもテレビもあり、最低限の生活はできるが、問題は息苦しいほどの“へや”の狭さと臭さ。 


そして、何より問題なのは、二人はこの“へや”に監禁され、ジョイは7年間、ジャックは生まれてから5年間、一歩も外に出られない状態であることだ。 



今日はジャックの5歳の誕生日祝いに、一緒にケーキを作る。

 

焼き上がったケーキに不満を訴えるジャック。

 

「本物の誕生日ケーキには、火のついたロウソクが」

「ロウソクがなくてもケーキよ」

「“日曜日の差し入れ”にロウソクを頼んでよ」

「ごめんね。面倒な物は、あいつに頼めないの」


「オールド・ニックは、何でも魔法で出す…6歳になったら、本物のロウソクを頼んで」

 

オールド・ニックとは、17歳のジョイを誘拐、監禁した男である。

 

ジョイはヒステリックになったジャックを宥(なだ)め、一緒に風呂に入り、『モンテ・クリスト伯』をベッドで読んで聞かせる。 


「“…そして島を買い取ると、自分を伯爵だと名乗り、悪党への復讐を誓いました”」

 

「あと一つ、お話を」とねだるジャックを、時間だからとクローゼットの布団に寝かせ、歌を歌ってあげるジョイ。

 

真っ暗なクローゼットで寝ていると、オールド・ニックの声が聞こえてきて、隙間からズボンを脱ぐのが見える。

 

「1…2…3…」と数えるジャック。

 

「“へや”の外は宇宙空間。TVの惑星があるんだ。それと天国。植木は本物。木は違う。クモは本物。一回だけ蚊に血を吸われた。リスと犬はTVの中にしかいない。でもラッキーは別だよ。僕がいつか飼う。モンスターは大きすぎる。海もそう。TVの中の人は、ペタンコで色つき。僕とママは本物。オールド・ニックは本物なのかな?半分、本物かも」 (モノローグ)  


「48…49…」

 

ジョイは眠りに落ちたジャックをクローゼットからベッドに移す。

 

監禁生活の中で、苛立ちを募らせるジョイは、ジャックが仲良くしようとしたネズミを排除し、空想の世界のラッキーという犬の存在を否定し、ジョイを泣かせてしまう。

 

二人は天窓や壁に向かって大声を出し、フラストレーションを発散するのである。

 

オールド・ニックから届いたプレゼントのラジコンで遊ぶジョイは、夜になって、またやって来た際に、クローゼットの中から二人の会話を盗み聞く。

 

ジャックの栄養が不足していると、ビタミン剤を要求するジョイ。 


「半年前から失業してる。それなのに…」

オールド・ニック

「どうするつもり?職探しは?」

「仕事がないんだ!」

 

激昂したニックは、クローゼットに匿われているジャックに声をかけが、ジョイがベッドに誘って、接触を回避する。

 

寝静まったところで、オールド・ニックの顔を見にクローゼットから出て来たジョイに気づき、「よう、小僧」と声をかけてくる。

 

「その子に触らないで!」と叫ぶジョイの体に覆いかぶさり、首を絞めるのだ。

 

「今度、俺につかみかかったら、ブッ殺してやる。誰の子か忘れるな」 


そう脅して、オールド・ニックは出ていった。

 

「出てきて、ごめんなさい…もうしません」と泣くジャックを抱き締めるママ。

 

電気が切られ、寒さの中、ジャックは『不思議の国のアリス』を読んでいる。

 

ジョイが追い払ったネズミの話をする。

 

「壁がこうあるでしょ。私たちは内側で、ネズミは外側」

「宇宙空間?」


「地球よ。宇宙よりずっと近い」

「外側見えないよ」

「分からないと思って、作り話をしてたけど、もう賢くなったから、分かるはずよ。オールド・ニックの食べ物は?」

「魔法でTVから」

「魔法じゃない。TVで見てる人や物は本物なの。本当の世界…私たちみたいな顔の人は本物。本物みたいな物は、すべて本当にあるのよ。海も木もネコも犬も本物」


「TVに入りきらない」

「“世界”は広いから、みんな入りきるのよ…天窓からは、上しか見えないの」

 

ジャックを抱き上げ、天窓に落ちた葉を見せる。 


「でも、これはウソの反対よ。5歳の子には正直に言う。もう大きいから“世界”のことを理解して。このままじゃダメなの。ママを助けて…ママも“へや”に来たの。アリスみたいに。ママの名前はジョイ。あなたのジイジやバァバとおうちに住んでた」

「“おうち”って何?」

「ママは17歳だった。学校の帰り…男が来て…オールド・ニックよ。本当の名前は知らない。“犬が病気だ”って…ママをだますためのウソよ。あいつに誘拐された」

「ほかの話がいい」

「あいつはママを納屋へ。ここよ。“へや”は納屋なの。鍵の暗証番号は、あいつしか知らない。ママは7年間監禁されてるの…“世界”は広いのよ。信じられないくらい広い。“へや”は狭くて臭い」


「…“世界”なんか嫌いだ。僕、信じない!」

 

ジャックは涙ながらに、外の世界を拒絶する。

 

ジョイは抜け殻のように、ベッドで横になったままで、ジャックは一人食事を摂り、遊んでいるが、そのうち、オールド・ニックからプレゼントされたラジコンを壊し、投げ捨ててしまう。

 

ジャックがテレビを見ながら、「オールド・ニックを蹴飛ばしてやる」と言うと、ジョイは自分の体験を話す。

 

「よく聞いて。ママも前にやったことあるの。トイレのフタを持ってドアの陰に隠れてた。前は重いフタがあったのよ。それで、あいつの頭を殴った。でも失敗。あいつに手首をねじられたの。だから今も痛い」


「寝ているときに殺そう」

「そうしたいけど、外に出られず飢え死によ」

「バァバたちが助けてくれる」

「ここを知らないの。地図にも出てない」

 

ジョイは一つだけ方法があると言って、ジャックが高熱を出したと騙し、病院へ連れ出された際に、医者に助けを求めるメモを渡すという作戦を準備する。 



しかし、訪れたオールド・ニックは、翌日、何か薬を持って来ると帰り、計画は失敗に終わった。 



それでもジョイは諦めず、ジャックが死に、カーペットに死体が包(くる)まれた状態でトラックで運ばれ、一時停車した際に逃げ出すという計画を立て、ジャックに繰り返し死体のフリをして、脱出する練習をさせるのだ。 


「トラック、転がる、ジャンプ、走る」とジャックは復唱する。 


「最初の一時停止で飛び降りるの。トラックが止まるわ。誰か見たら叫ぶのよ。“ママは、ジョイ・ニューサムです”って」

 

抗生剤を持って来たオールド・ニックに、ジャックが死んだことを告げ、耐えられないから、今すぐに木のある場所に運ぶように泣きながら懇願する。 

様子を見るオールド・ニック


オールド・ニックは言われた通り、ジャックをトラックの荷台に乗せ、走り始める。


  

ジャックは頭の中で、ジョイの言葉を反芻している。

 

「トラック、転がる、ジャンプ、走る、誰か」

 

ジョイの言葉を思い浮かべ、ジャックは巻かれたカーペットから出て、初めてガラス越しではない本物の青い空と対面するのである。 



トラックの荷台に体を起こし、停止した際に荷台から飛び降りて走るが、オールド・ニックに気づかれて追われることになった。 


犬を連れた男性と衝突して倒れたジョイは、大丈夫かと声をかけられるが、オールド・ニックに乱暴に引き摺(ず)られ、助けを求める。 

ジャックを「お嬢ちゃん」と間違えている


不信に思った男性が、「警察を呼ぶぞ!」と声をかけると、ニックはジャックを捨て、車で逃走して去って行った。

 

警察に保護されたジャックは、パトカーで住所やママの名前を聞かれるが答えられない。

 

しかし、住んでいた場所が天窓がある納屋であること、3回目の停止で飛び降りたと聞き出したクレバーな女性警官は、位置情報を特定し、衛星写真で赤いトラックのある家を探すよう無線で指示する。 



犯人の自宅にパトカーが集結し、ジャックは車の窓を叩き、「ママ、ママ!」と叫ぶ。

 

暗闇の中から、ジョイが走って近づいて来る。

 

二人は無事解放され、ジョイは泣きながらジャックを抱き締めるのである。 

病院に運ばれる

 

 

2  「何もかもすべてが変わったわ。とってもかわいい子で、私は、この子を守ろうと決めたの」

 

 

 

二人は病院のベッドで眠り込み、朝目覚めたジャックは、外光の眩しさや、ベットシーツ、床の感触に戸惑う。 


高層の窓から下を見下ろして恐怖するジャックは、眠っているジョイを起こす。 


「ここは違う惑星?」

「同じよ。場所が違うだけ」

 

鏡に映った二人。

 

「私たちよ」

「あいつに見つかる?」


「いいえ。二度と会わないわ」

 

医師が入ってくると、怯(おび)えるジャック。

 

朝食のパンケーキと果物を出されるが、食べようとしない。

 

「太陽から目を守ってくれる」

 

そう言って、医師がサングラスを二人分渡す。

 

「それと日焼け止め、主にジャックに。これは大事だ」

「マスクが必要なの?」

「空中の雑菌に慣れてない。鎮痛剤が出てるよ」

 

ジョイは医師に感謝しつつ、早く帰りたいと申し出る。

 

「あなたたちは、大変な経験をしてきた。ジャックには負担が大きい」


「普通に育ったわ」

「子供はプラスチックのように、柔軟だからね」

 

ジィジとバァバが待ち切れず、病室を訪れた。

 

ジィジと抱擁するジョイ。 


蹲(うずくま)るジャックに、バァバが声をかける。

 

「ジャック、娘を救ってくれたのね」


 

3人が抱擁する様子を覗き見るジャック。

 

「“世界”に来て37時間で、パンケーキと階段を見た。鳥、窓、何百台もの車…ジィジとバァバも。でも2人は一緒に住んでない。バァバはレオと住んでる。ジィジの家は遠い所。ここでは顔も大きさも匂いも違う人たちが、一緒にしゃべる…いろんなことがドンドン起きて止まらない。“世界”は明るさや暑さがずっと同じじゃなくて、見えない菌がフワフワしてる」(モノローグ) 



自宅に着くと、近所の住人たちが歓声を上げ、メディアが近づいてくるのを、ジョイはジャックを抱いて走って家に入る。 


野次馬とメディアを避け、自宅で過ごすジョイとジャック。

 

食事の際、ジィジがジャックを避けていると感じたジョイは、「この子を見て」と要求するが、「すまない。見られないよ」と拒絶される。 

中央がレオ



ジョイは傷つき、「行こう」と言って、ジャックを無理やり連れて部屋に戻る。

 

リレーチームに所属していた17歳の頃の写真をジャックに見せ、「彼女たちには何も起きなかった」と吐露し、奪われた人生に苦しむジョイ。 



その後、弁護士がマスコミ対策を話し合う必要があると進言する。

 

「まだ、そんな話をする状況じゃないわ」とバァバ。


「これからお金が必要になります。“プライム・タイム”だけで、かなりの出演料が入る」と弁護士。

 

一方、ジャックはバァバに声をかけられても、ジョイを通してしか反応できなかったが、レオの寛容で温かい働きかけもあり、徐々に2人に心を開いていく。 

レオの優しさがジャックを包み込む


自宅に戻って10日目にして、精神科医による絵画療法でも、明るい兆しが見られるジャックと切れ、ジョイは無気力にベッドに横になり、ジャックがスマホの動画を見ていることに怒り出してしまう。 

絵画療法



スマホを取り上げ、強引にレゴで遊ばせようとするのだ。

 

「普通に遊ばせたいの」

「この子は、ちゃんとやってる」

「私、変よ。ハッピーなはずなのに」

「休養が必要よ」

「いやよ。休養なんか要らない。医者はそんなこと言わない。勝手に決めないで!」


「やめて!ラチが明かないわ」

「ごめん」

「口先だけ?」

「そうよ!ママは私の頭の中を知らない」

「じゃあ、話して。知りたいの」

「どんな目で私を見てるの?」

「愛する娘として見てる」


「私がいなくても、楽しくやってたクセに」

「あんまりよ。人生を破壊されたのは自分だけ?」

「そう思ってる」

「ジャックを奪われたら?」

「よして」

「この子に優しくして!」

 

2人の激しいやり取りに、ジャックは耳を塞いでしまう。 


「子育てに口を出さないで。優しくなくて悪かったわね。ママが“人には優しく”って言うから、あいつの犬を助けようとしたのよ!」

 

なおも激しく母親をなじり、捲(まく)し立てるジョイは、立ち上がって自分の部屋に戻る。

 

「来ないでジャック。弁護士と話すわ。耐えられない」

 

その後、ジョイは自宅でのテレビ取材に応じるが、リポーターの容赦ない質問が浴びせられる。

 

「…死んで楽になろうと思ったことは?」

「答えづらい」と言って、ジョイは涙を拭うのだ。

 

「誰もあなたに強さを求めてない。泣いていいのよ」とリポーターは優しく寄り添う姿勢を示すが、あくまで好奇的関心のニーズに応えるメディアの取材に徹している。

 

「ジャックが産まれて、精神的に変った?」


「何もかもすべてが変わったわ。とってもかわいい子で、私は、この子を守ろうと決めたの」
 


ここだけは、きっぱり言い返した。

 

ジャックは階段から、インタビューの様子を見ている。

 

「ジャックが大きくなったら、父親のことを話す?」


「彼の子じゃない」


「つまり、ほかにも男性がいたの?」


「まさか。違うわ。“父親”とは子供を愛する人のことよ」


「その解釈は正しいと思うけど、生物学的な関係が…」

「無関係よ。ジャックの親は私1人だけ」 



ここで、スタッフがそれぞれに顔を見合わせ、傍らで聞いているバァバは涙を拭う。

 

「犯人に、赤ん坊を外へ出すように」


「外へ?」

「病院の前に置いて、保護してもらうとか」

「なぜ、そんなことを?」

「自由にするためよ。親にとっては、つらい決断だと思うけど、普通の子供時代を送れるわ」

「あの子には私が」

「でもそれが、最良の方法だった?」

 

取材後、考え込むジョイ。 



直後、ベッドにいないジョイに気づいたジャックがバスルームを覗くと、ジョイが瀕死の状態で倒れていた。

 

ジャックの叫び声で駆けつけたバァバは救急車を呼び、ジョイは病院へ搬送される。 



一命を取り留めたジョイからの電話を受けたジャックは、「帰って来て…ダメだよ、今じゃないと」と言い捨て、2階に上がってしまう。 



「“世界”はとても広い所だ。だから時間が少ない。バターみたいに薄くのびてるから。みんな、こう言う。“急いで。早くやって。もっとペースを上げて”。ママは天国へ1人でピョンしようとした。ひどいよ。だからエイリアンに撃退されて、壊れたんだ」(モノローグ) 



ジャックはバァバと買い物へ行き、カップケーキを作る。

 

卵を割りながら、ジャックは“へや”に「時々、帰りたい」と言う。

 

「狭いんでしょ?」

「すごく広いよ。端っこが見えない。いつもママがいた。クローゼットは狭いけど」


「中で何を?」

「寝てた。あいつが来る夜。ママに会いたい」

 

レオが飼い犬を連れて帰って来た。 


初めて本物の犬を見て、笑顔を見せるジャック。

 

「シェイマスだ。飼ってくれる?」



 

早速、犬と一緒に走ったり、元気よくブランコを漕いで遊ぶが、ジャックはジョイのことが頭から離れない。 



パワーがあると拒否し続けた髪を切るため、バァバにハサミを求めるジャック。

 

「本気なの?」

「ママに送りたい。パワーをあげるの」 


バァバに髪を切ってもらい、シャンプーする。 


「バァバ大好き」

「私もジャックが大好き」

 

ジャックは近所の男の子の誘いに応じ、庭でサッカーをしていると、病院から戻ったジョイがジャックを呼ぶ。

 

堅く抱き合う母子。 


「ごめんね」

「いいよ。もうしないで」

「約束する」

 

ジョイがジャックから受け取った髪を取り出す。

 

「これをもらった時、よくなるって思った。また、あなたに救われたね…よくないママね」


「でも、ママだよ」


「そうね。ママよ」

 

「4歳の僕は、“世界”を知らなかった。今はママと死ぬまでここにずっと住むつもり。通りには町があって、町はアメリカのある地球にあって、水と緑の惑星。地球は回ってる。なぜ僕らは落ちないの?宇宙空間もあるよ。天国の場所はどこ?ママと僕は決めた。とりあえず何でも試そうって。“世界”には、いろんなものが。時々怖いけど、でも大丈夫だよ。だってママと2人だから」(モノローグ) 


ハンモックに揺られながら、ジャックが母に吐露する。

 

「“へや”に帰ろうよ。ちょっとだけ」


 

まもなく、2人は警察に付き添われ、犯人が住んでいた家を訪れ、監禁されていた納屋に入っていく。 


「これが“へや”?縮んだの?みんな、どこ?」

「警察にあるの。証拠品だから」

 

ジャックは部屋の中を見渡し、クローゼットを覗く。 


「ドアが開いてる」


「だから?」

「ドアが開いてると、“へや”じゃない」

「閉めたいの?」

「やだ」

「ジャック、行こう」

 

ジャックは“へや”の中の、植木鉢やテーブル、クローゼット、洗面台などに別れを告げ、天窓を見上げる。

 

「天窓もサヨナラ。ママも“へや”にサヨナラして」 


そう言ってジャックは先に出て、ジョイは改めて“へや”を見つめ、口の中で小さく「サヨナラ」を呟く。

 

2人は手を繋ぎ、“へや”を去って行くのである。 


 

 

3  「途轍もない特異性」が抱え込む破壊力が溶けていく

 

 

 

この映画を観ながら、「新潟少女監禁事件」の少女のことを考えていた。 

新潟少女監禁事件/事件現場となった住宅(ウィキ)



実際のモデルになった猟奇的過ぎるオーストリアの事件は殆ど参考にならないので、私には、世論を騒がせた我が国の事件の少女が負ったPTSDの破壊力に思いを巡らした次第である。

 

当該事件をモデルにした原作を映画化した「完全なる飼育」などという作品でも話題になったが、そこには犯人と少女との間に愛が芽生えているかのようなプロットになっていて、とうてい受け入れ難い内容だった。

 

「逃げようと思えば逃げられるのに、なぜ、逃げなかったのか」

 

いつものように、この種の「レイプ神話」が幅を利かせるのである。 

性暴力とたたかう 8 第2部 加害・被害の実態③レイプ神話 男性優位ゆがむ社会」より


トラウマに『なぜ』は禁物



性暴力の前に女性がフリーズしてしまう「強直性不動状態」(擬死反応)について無知過ぎる男たちの、偏見の極みに呆然とする。 

【「神経生理学で読み解く 性暴力被害の“凍りつき”」/「ポリヴェーガル理論」による性暴力へのアプローチは、被害者が直面する恐怖や切迫感を、誰にでも備わっている神経系の働きから捉えることで、これまでの誤解や偏見を変えることになる】



「縛られなくなってからも、常に見えないガムテープで手足を縛られているような感覚でした。気力をなくし、生きるためにこの部屋から出ない方がいいと思いました。Sは気に入らないとナイフを突きつけるので、生きた心地がしませんでした。大声で泣きたかったけど、叫び声を押し殺しました。けっしてSと一緒にいたかったわけではありません」

 

ウィキに掲載されている少女の供述である。

 

これを「プリゾニゼーション」と言う。

 

「プリゾニゼーション」とは、継続的な監禁状態に「過剰適応」することで自我を防衛している心的現象である。

 

精神分析学で言う「防衛機制」である。

 

「学習性無力感」と言ってもいい。 

学習性無力感


これが理解できなければ、洞察力ゼロという外にない。

 

ここで、本篇のこと。

 

高校生の時、拉致・監禁された主人公ジョイの場合、「新潟少女監禁事件」の少女と切れ、オールド・ニックの性暴力に対して抵抗を試みるが、激しい暴行を振るわれたことで初期段階で脱出の望みが絶たれてしまった。

 

暴行による手首の痛みに苦しみ、病院での治療で鎮痛剤を処方されるほどだった。

 

そんな少女を救ったのは、19歳の時に産んだジャックの存在。 


映画は、その辺りの事情を提示していないが、私が思うに、その出産を望まずに遺棄しようとした男の意に反して、ジョイが自らの意思を通して産み落したのではないか。

 

「時間」という観念が壊された終わりの見えない極限状態下にあって、すっかり〈生〉の気力を削り取られた彼女が、自らが産んだ赤子を育てていくことで、尊厳を失うことのない〈生〉の原拠(げんきょ)に成り得るアイデンティティを確保しようとしたのではないか。

 

それは、自我の空洞化に直面したジョイの、それ以外にない生きるよすがだったように思えるのだ。 



だから、「犯人の子」ではなく、「私の子」という観念を自我の底層に固着させていく。

 

テレビリポーターの傲岸不遜(ごうがんふそん)な問いに対して、「何もかもすべてが変わったわ。私はこの子を守ろうと決めたの」・「ジャックの親は私1人だけ」・「あの子には私が(必要)」などと明言したジョイの反応には、一片の曇りもないもないように思われる。 



17歳に誘拐され、狭い“へや”(納屋)に監禁されたジョイは、性的虐待を受けながら、2年後に出産したジャックを心の支えに生き抜いていくのだ。 


そんなジョイだからこそ、その冥闇(めいあん)なる監禁生活の中で、外の世界を全く知らないジャックのために、でき得る限りの心身の健康を維持し、ビタミン剤などを補給して成長を促していく。 


生活のルーティンを決め、欠かさずに実行するのである。

 

挨拶を習慣化し、運動不足にならないようにストレッチを続けることで、関節の可動域を縮小させることなく保持・拡大していく。 



言葉を教え、学習の幅を徐々に広げていくのだ。 

「モンテ・クリスト伯」を読み聞かせる





たった一人の保護者としてのジョイの時間のコアにあるのは、ジャックを犯人の危害から守り通すこと。

 

これによって、自身の心身のバランスをギリギリのところで保持し、呼吸を繋いできたのである。

 

このたった一人の保護者が案じるのは、成長するジャックが5歳となり、少しずつ物事を理解して行動できるようになる一方、監禁生活を続けたまま大きくなって、外の世界に適応できなくなる事態に対する心許(こころもと)なさ。 

天窓から見る外の「世界」だけがジャックの全て



かくて、ジョイは「監禁人生」で最大の冒険に打って出る。

 

“へや”からの物理的脱出である。 

脱出作戦の練習


犯人のオールド・ニックとジャックが接触したことが契機になり、脱出作戦に打って出て、幸いにして成功するに至った。

 

しかし、地獄からの解放の先に待機する、想像を超える「もう一つの地獄」。

 

解放によって手に入れた喜びも束の間、「もう一つの地獄」の猛威が間髪を容れずに急襲してくるのだ。

 

7年間にわたって性的虐待を受けてきたネガティブな実態と、犯人との間に産まれた子供を育て抜いてきたという経緯の、その「途轍もない特異性」。

 

これらの異様なリアルが、予測可能な将来的な母子関係の継続の困難さを、ジョイに知らしめるのに時間を要しなかった。

 

「途轍もない特異性」が抱え込む破壊力がジョイの内側に侵蝕し、ごく普通のサイズの一欠片(ひとかけら)の未来像をも剥(は)ぎ取っていくのだ。

 

ジョイが事件にインボルブされたことによって一方的に鏤刻(るこく)された、生涯にわたる艱難な行路に対する周囲の無理解は想像を絶するものだった。

 

特に、父親は犯人との子であるジャックと目を合わせようともせず、受け入れることができなかった。 



想像だにしなかっただろう実父の態度に深く傷つくジョイだったが、監禁生活で懸命に教育してきたジャックもまた、初めて見る「世界」という巨壁の圧力に尻込みし、コミュニケーションを繋ぐのが難しく、普通の子が愉悦する遊び道具に興味も示さずに、苛立ちを募らせていく。 


17歳の頃のアルバムを見て、事件とは無縁な友人たちと自分の人生を比較し、改めて理不尽な事件で被弾したことによって累加された懊悩が束になって襲いかかってきて、自らを囲繞する風景の何もかもが白化していく。 



更に、ジョイに寄り添う母親とも分かち合うこともできずに孤立してしまう。 



「監禁人生」で必死に我が子を守り切ってきた彼女の内面の、その「途轍もない特異性」に架橋することなど容易ではないのだ。 

落ち込むジョイを励ます母


そして、極めつけは、この猟奇的な事件についてのテレビ局のリポーターの無神経な質問の連射。

 

産んだ赤ん坊を「病院の前に置いて、保護してもらうとか」などという攻撃的言辞を、本気で垂れ流してくるのである。 


誰が置くのか。

 

犯人なのか。

 

そんなことが可能だと思ったのか。

 

状況を無視した質問に隠し込んだ、世論を代弁するかの如き意見の有毒性に無頓着なメディアという名の情報媒体の暴力性。

 

その直後のジョイの自殺未遂と入院は、皮肉にも母親依存のジャックの自立への背中を押すことになる。

 

ジャックが徐々に“へや”から脱却し、“世界”に順応していくことで、ジョイの生気を復元させていくのである。

 

この映画は、監禁事件において極度の恐怖と、抗っても叶わないことを学習した心身の状態で、脱出するという選択肢を持ち得なくなってしまった、先の「新潟少女監禁事件」の少女が振れていった「プリゾニゼーション」という防衛機制の事例と異なり、自力で自らを解放することを選択できた一人の女性の強靭な〈生〉の振れ具合を描いた物語だった。

 

それは先述したように、ジャックを生み、守り切るという使命を得たからである。

 

「息子・命」と定め、その真っ当な成長を守り抜くという使命がジョイの〈生〉の根幹にあったこと ―― これが全てだった。 



そのために、自らが為すべきことを実践躬行(じっせんきゅうこう)していく。

 

苛酷なまでの理不尽な状況に置かれても、ジョイが「過剰適応」するに至らなかった事由(じゆう)の全てが、ここにある。

 

思うに、保有する世界の広さにおいて、思春期のど真ん中で拉致・監禁されたジョイと、児童期に被弾した新潟の少女との差異は、あまりに大き過ぎる。 

思春期に抵抗し、手首を痛めつけられた過去を持つジョイ


「過剰適応」という選択肢しか持ち得なかった新潟の少女の悲哀は痛切過ぎる。

 

同様に、地獄からの解放の先に待機していた「もう一つの地獄」の渦の中で、自我を白化させてしまった物語のヒロインの悲哀もまた痛切過ぎる。 



そして、そのヒロインを救い切った「私の子」の成長譚の凄みこそ、人間の適応能力の凄みそれ自身であった。




この凄みの中で、「途轍もない特異性」が抱え込む破壊力が溶けていくのだ。 


そういう映画だった。

 

(2023年6月)

 

 

 


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