2024年9月28日土曜日

メタモルフォーゼの縁側('22)   「完璧な一日」へのはじめの一歩  狩山俊輔

 


1  「雪さん、私、ずるいって思ったんです。ずるいのは私なのに。羨ましくてしょうがないんです。なんで私はこんな人間なんでしょう」
 

 

 

夫の三回忌の法要の帰りに暑さを凌いで立ち寄った本屋で、市野井雪(以下、雪)は、たまたま目に付いたBLものの『君のことだけ見ていたい』という漫画を、「キレイな絵…」と手に取りレジに向かう。

 

高齢者がBLの漫画を買うことに、アルバイトの佐山うらら(以下、うらら)は怪訝な表情をする。 

うらら(左)と雪

家に帰った独り暮らしの雪は、仏壇に手を合わせ、夕ご飯を食べ、風呂に入った後、早速買ってきた漫画を読み始める。

 

BLものとは知らず、男子生徒の佑馬と咲良がラストでキスをする展開に驚き、その続きが気になる雪。 



うららも母子家庭で母親が不在の団地の自宅に帰り、お風呂から出た後、押入れにしまってある段ボールの中から、『君のことだけ見ていたい』を引っ張り出し、読み始める。 



翌日、雪は第2巻目を買ってカフェに入り、すぐ読み終えてしまい、第3巻を買いに行くが在庫切れで、うららがその注文を受けた。

 

自宅で書道教室を開く雪の元にうららから電話がかかり、早速、雪は書店へ取りに行く。 

沼田(左から二人目)

「あの、つかぬことをお聞きするけど、こういうのって流行ってるの?その、男の人同士の…私、初めて読んだんだけど、何て言ったらいいの…応援したくなっちゃうのよ。いい年して恥ずかしいけど…」


「いえ、そんな」

 

うららが内容について説明すると、満面の笑みを浮かべる雪。

 

「あなたも好きなの?嬉しいわぁ…ずっと誰かと漫画の話がしたかったの」

 

雪はうららをカフェに誘い、お互いに名前を言い、BLものをうららもよく読むのかと聞くが、うららは「たまに」と答え、BLものが好きだということをオープンにしようとせず、店員が来ると、テーブルの上に置かれた漫画をサッと隠すのだった。 


二人は気まずく帰ることになったが、うららは、あまりしゃべれなかったことを謝罪し、本当は漫画の話ができることを嬉しいと本音を言うと、雪は、第三巻を読んだらまた連絡していいかと聞き、二人は連絡先を交換した。 


自宅で母親に進路について聞かれたうららは、明確な希望を持っておらず、適当に返事をする。

 

その時、雪からおすすめの漫画の紹介を依頼するメールが来て、うららは所蔵本を読み返し、あれこれ吟味したものを持って雪の自宅を訪ねると、カレーの匂いがした。

 

気持ちのいい縁側で風を受け、漫画の主人公の佑馬(ゆうま)と咲良(さくら)の話で盛り上がる二人。 


うららはいつしか、溌溂と日常を送るようになり、カフェで雪と会話をするのが楽しくなっているが、それでもやはり、店員が来ると話をピタッと止め、本を隠すのだった。

 

団地の幼馴染で、うららの良き理解者でもある高校の同級生の紡(つむぐ)が遊びに来て、うららの部屋でBL本を目にして「脇甘ぇんだよな。人一倍気にしぃのくせに」と口にするが、それとは知らず、うららは紡に気づかれないように隠し込む。 


その紡が付き合っている、賢く美人の英莉(えり)の存在を意識するうららだったが、その英莉が生徒たちとBLの話で盛り上がる中、「うぁ、エロ!」と言った男子生徒に対し、堂々と反論する。

 

「それは偏見。純愛だよ、BLって」 

英莉(左から二人目)

それを聞いていたうららは、教室で『君のことだけ見ていたい』を女子生徒と楽しそうに読み合っている英莉を、教室の外から睨み、「ずるい」と一言。

 

その英莉が海外留学とBL本を持ってレジに来た際、「すごいね、留学とかBLとか、なんか色々あって」と嫌味を言う。 



うららが雪の家を訪ねると、ノルウェーに住む娘の花枝が帰って来ていてた。

 

花枝は一人暮らしの雪を心配して、一緒に住むことを勧めている。

 

その花枝が酔って寝ている間も、うららと雪の漫画の話を楽しそうにしているが、うららの気持ちは晴れず、心の中で雪に訴えかけている。

 

「雪さん、私、ずるいって思ったんです。ずるいのは私なのに。羨ましくてしょうがないんです。なんで私はこんな人間なんでしょう。雪さんが私だったら、どうします?」 


その時、雪が「あたしが、うららさんだったらね」と語り始めた。

 

「もう、描いてみちゃうかも知れないわ。自分で…うららさん、こんなに読んでいて、自分でも描いてみたくならないの?」


「いや、私なんか、そんな、才能ないので」

「才能ないと漫画描いちゃダメってことある?」

「でも、私、読むほうが好きなんで」

「そう?でも分かんないわよ。人って、思ってもみないことになるもんだからね」

 

うららは、雪に背中を押された思いで、ノートに漫画のデッサンを描き始め、漫画の同人誌を売買する冬コミに雪を誘う。 

うららのデッサン



喜ぶ雪だったが、腰を悪くして這うように移動する姿をうららが見て、年々、来場者数が増え激しい混雑も予想されることから、うららは受験勉強で行けなくなったと雪に電話で伝える。 


しかし、うららは勉強に集中できず、漫画をノートに描き続け、雪にいつものカフェから電話を入れ、大喜びの雪の家へ再び行くことになった。 


早く着いたうららは、鍵の場所を聞いて家に入ると、片付けの最中で本が散乱する部屋で、古い少女漫画を見つけた。 


それは雪が子供の頃に貸本屋さんで見つけて気に入り、どうしても欲しくて母親に失くしたと嘘をついて手に入れた漫画だった。

 

雪はその作家宛に書いた葉書を見せ、自分の字が嫌いで恥ずかしくて出せなかったことが書道を始めるきっかけとなり、いつのまにか書道を教える人になったというエピソードを話す。 


結局、雪はその作家は描くことを辞めてしまい、手紙を出すこともできなかった。

 

「大事なものは、大事にしなきゃ駄目ね」 


その言葉を聞いて、うららは改めて雪の家を訪れ、5月の同人誌の即売会に売る側として一緒に出ないかと誘う。

 

「漫画、私が描くんで…」


「出る、出るわ!」

 

うららはコミティア(自主出版した本の販売・展示即売会)に申し込みし、早速、本格的に漫画を描き始め、雪も張り切って、書道教室の生徒の沼田が経営する印刷所へうららを連れて行き、漫画の印刷を依頼する。 



恐縮するうららだったが、母親に隠しつつ、期日に向けて漫画を描くことに集中するうららは、「やるべきことをやっている」実感を持っていた。 


色を差し、完成させた作品を印刷所へ届けたうららは、その帰り道にふと立ち止まり、達成感を噛み締めるのだ。

 

「楽しかった…楽しかった」 


内気な高校生の中で、何かが変わっていくようだった。

 

 

 

2  「今日は完璧な一日でした」

 

 

 

製本された漫画『遠くから来た人』が届き、いよいよコミティアの当日、前夜、突然腰を痛めて動けなくなった雪から連絡が入り、一人で会場に向かったうららは、割り当てられたブースで不安に圧し潰され立ち竦む。 


一方、雪は沼田の助けを借りて車で会場へ向かうが、途中で車が故障して修理を待つ間に、うららに電話をするものの、会場から逃げ出して来たうららは、その電話に出なかった。 


うららが落ち込んで外のベンチに座っているところに、紡がうららを探して走ってやって来た。

 

「せっかく漫画描いたのに」

「怖くなったの」

「やっぱり」

「なんで?」

「幼馴染だから、分かる」

 

紡は半ば強引に、うららが描いた漫画を100円で買った。 


うららは、「ありがとうございます」と深々と頭を下げる。

 

車の故障が直らず、うららと電話も繋がらない雪が悄然(しょうぜん)と座っているところに、『君のことだけ見ていたい』の作家・コメダ優が通りかかり、心配して声をかけてきた。

 

コメダは最近、作品作りが捗らず、自身のパワースポットであるコミティアへ行き、たくさんの同人誌を買って来た帰りで、雪が行こうとして行けなかったことを知ると、それらの漫画を見せた。

 

雪は出品作品の目録を示し、自分も売りに行く所だったがと言い、自分はコメダ優のファンだと話す。

 

「優しいの。漫画の人達みんなが。どこまでも優しくて、元気出るの。で、元気出て、漫画作ったの」 

コメダ優


雪がバッグから出したうららの描いた漫画を見せると、コメダは「その漫画売ってくれませんか?」と言う。

 

家に帰って来た雪は、縁側で雪が作ったサンドイッチを食べるうららに、「2冊も売れるなんて、すごいわよねえ」と話しかける。

 

「なんか、大冒険の一日だったわね」

「私は、情けないです」


「どこが?」

「全部です」

「こんな素晴らしい漫画作ったのよ。素晴らしいわよ。うららさんは」

 

思わずうららは、雪の言葉を耳にして号泣してしまう。

 

その夜、雪は『遠くから来た人』を改めてじっくり読む。 

『遠くから来た人』



英莉の留学が決まり、別れたと紡から聞いたうららは、学校で英莉に「頑張って」と声をかける。 

「頑張って」「…うん。ありがとう」



うららは久々に雪の家へ行くと、家の中が片付けられ、雪がノルウェーの娘のところへ行くことを聞かされた。

 

二人は、『君のことだけ見ていたい』の最終回の話題で盛り上がり、コメダ優のサイン会へ行く約束をする。

 

そのサイン会の当日、英莉の出発の見送りに行くのを躊躇(ためら)う紡から、途中まで付いてきて欲しいと頼まれたうららは、雪に電話を入れ了解を得て、紡の手を引っ張って走り、電車に乗り紡を送り出す。 



一方、サイン会に先に並んで順番が来た雪は、自分が書いた手紙をコメダに差し出す。

 

その顔を見たコメダは、先日会った人物だと分かり、サインを描きながら、そのことを確かめる。

 

「『遠くから来た人』っていう個人誌で…あの時、漫画売ってもらったの、私です…宇宙人、可愛かったです。行き詰っていた時だったので元気出ました」 


驚いた雪は漫画を描いたのは友人で、うららという、今ここにいて、後ろの方に並んでいることを伝える。

 

「この漫画のお陰で、私達、友達になったんです…描いていただいて、ありがとうございました」

 

遅れて列に並んだうららは、順番が来て、コメダがサインを書くのを緊張して離れて見ているだけだった。 


カフェで待ち合わせをして待っていた雪が、どうだったかを聞いたが、サインの事しか話さないので、うららの漫画をコメダが読んで、可愛かった、元気が出た、先日漫画を買ったのがコメダだったという一連の話をすると、うららは驚きの声を上げ、その事実を受け止めるのが精一杯だった。 


喜びのあまり、コメダにもらったそれぞれのサインを楽しそうに写真に収める二人。 



雨が降る中、雪の家に帰った二人は、庭の方を見ながら広縁(ひろえん)に立つ。

 

「今日は完璧な一日でした」


「私も」

 

ラスト。


雪の留守の家のメンテをする沼田が掃除しているところへ、うららが訪れた。

 

縁側に座って、うららはノルウェーに住む雪に電話をして、棚の上の漫画を送ることを伝える。

 

「あ、カレーの匂い」 


雪の自宅を始めて訪ねた時の思い出が、心ともなく口を突いて出るのだった。

 


 

3  「完璧な一日」へのはじめの一歩

 

 

 


絶対依存に陥ることなく、複数の存在、(映画の場合はうららと雪)が互いに影響を及ぼし合う「インタラクション」(相互交流)によって、共に変化(作用)を及ぼしていくという関係構造の力学が、コミティアへの参加を基軸に描かれた物語。

 

企業と社員の関係で語られる「エンゲージメント」を、ここでは相互の愛着・信頼関係という範疇で説明すれば、「深い繋がり」を生む関係力学がコアと成している。 


自分の感情に気づいて表現していく「情緒的健康」、問題解決能力を有する「知的健康」、対人スキルを身に付けていく「社会的健康」、主体的に人生を選択する「人間的健康」を、厚労省は「心の健康」=「メンタルヘルス」として定義している。 

「心の健康」



結論から言えば、物語のうららと雪の関係の健康性は、「インタラクション」によって「心の健康」を保持し、メタモルフォーゼ(変化)を具現化するという一点において輝いていたと言える。

 

特に、世代を超えて繋がる「情緒的健康」の形成は、この映画の根幹を成し、二人の「心の健康」を根柢から支え切っていた。 


物語の本線は、どまでも内気でシャイな女子高生うららの成長物語。

 

「普通だよ。漫画読んでると、出てくる男の子たちが綺麗で光って見えて、いつも一緒にいられるように、ノートとかに真似して描いて、そのうち自分で同人誌作ってイベント通って…あそこが私のパワースポット」 


これは、コメダ優がアシスタントから漫画を描くトリガー(契機)を聞かれた際の反応である。

 

うららが尊敬するコメダ優がそうだったように、うららもまたBLを好み、自らも「BLジャンル」の漫画を描き、それをコミティアに展示する。 


これが普通のアプローチなのだろう。

 

しかし、自信がない。

 

自信がないから、人に知られないようにBL系漫画を蒐集し、密かに漫画を描き続ける。 


BL系であることを恥じる思いが、うららの秘密主義を貫流している。

 

ところが、海外留学を目指すクラスメートの英莉の場合、「うぁ、エロ!」と揶揄(からか)う男子生徒に対し、「それは偏見。純愛だよ、BLって」と切り返すのだ。 


男子を黙らせる凛としたパワーを見せつけられたうららは、「ずるい」としか返せない。

 

進路も決められず、生半可なBL系漫画に逃げている自分と異なり、海外留学とBL趣味を併(あわ)せ持つ英莉への嫉妬と羨望が、独白として映像提示される。 


「雪さん、私、ずるいって思ったんです。ずるいのは私なのに。羨ましくてしょうがないんです。なんで私はこんな人間なんでしょう。雪さんが私だったら、どうします?」 


本作のコアとなるモノローグである。

 

自尊心の欠如を露呈されたうららの思春期自我がダッチロールし、虚空に宙刷りにされているのだ。 


彼女の内側で制御困難なハレーションが生まれ、鬱屈する感情の悪循環に搦(から)め捕られてしまうのである。

 

この時、うららには自らの思いを的確に掬い取ってくれずとも、何もかも受け入れてくれる雪がいた。

 

それを認知しているからこそ独白に結ばれたのである。

 

独白によって、底層に澱んだ思いを汲み上げ、浄化してくれる雪のエールを渇望する。

 

「応援したくなっちゃうのよ」という言葉を普通に寄せる雪なら、大丈夫。

 

そう信じるに足るパワーが雪にはある。

 

依存に委ねたうららの独白が想像の域を遥かに超えた反応に結ばれた時、うららはここでも防衛的に振れていく。

 

「あたしが、うららさんだったらね。もう、描いてみちゃうかも知れないわ」


「いや、私なんか、そんな、才能ないので」

「才能ないと漫画描いちゃダメってことある?」

 

雪の攻勢には説得力があった。

 

「人って、思ってもみないことになるもんだからね」

 

これが大きかった。


腰を悪くした雪との同伴が叶わず、受験勉強を理由に冬コミに頓挫しても諦め切れないうららが、虚空の旋回にダメ出しする決定打になったのは、散乱する雪の部屋の一角で視認した古い少女漫画と、それに関わるエピソードを雪から傾聴したこと。 


雪が愛好する漫画家が描くことを辞めてしまった話を耳にして、自らの不決断を恥じ入るうららに、「大事なものは、大事にしなきゃ駄目ね」という何気なく放った雪の一言。 


うららの自己運動が拓かれていく瞬間だった。

 

今や、それ以外にないエンパワーメント(熱量の復元・活性化)と化した雪の一言。

 

ここから拓かれた時間の重量感は、紆余曲折を経ながら、「やるべきことをやっている」実感を手放すことなく、「完璧な一日」への「はじめの一歩」に大きく昇華していくのである。 



年齢差を超えるうららと雪の「インタラクション」の深化が、うららの「はじめの一歩」の推進力と化し、彼女の「心の健康」を確保し、メタモルフォーゼ(変化)を具現化する物語の心の温(ぬく)もり。 


観る者への十分なる手土産だった。

 

―― 劣等感を克服する簡便な手立てなどない。

 

大切なのは、劣等感を抱くことが人間の普通の現象であることを受け止めること。

 

成しうる限り、劣等感の対象事項を真摯に自己分析した後、「今の自分に何ができるか」について勘考して、実現可能なところから実践してゆくこと。

 

認知すべきは、この世に完璧な人間など存在しないことを、聢(しか)と心に刻みつけておくことである。


芦田愛菜ちゃんの秀作映画「星の子」より
同上

 

(2024年9月)

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