2013年2月4日月曜日

刑事ジョン・ブック 目撃者(‘85)      ピーター・ウィアー



<「文明」と「非文明」の相克の隙間に惹起した、男と女の情感の出し入れの物語>



 1  非暴力主義を絶対規範にするアーミッシュの村の「掟」の中で ―― 事件の発生と遁走の行方



 男と女がいる。

 本来、出会うはずもない二人が、一つの忌まわしき事件を介して出会ってしまった。

男の名はジョン・ブック。

未だ独身の敏腕刑事である。

女の名はレイチェル

夫を喪ってまもない美しい、子連れの未亡人である。

そのの名はサミュエル。

純朴で、女の子のような優しい顔立ちをした児童である。

―― 以下、基本的に、この3人が動くことで開かれていく物語の経緯を書いていく。

 「掟」とも言うべき厳格な規律の下、電気に象徴される「文明」と縁のないコミュニティを形成することで有名な、ペンシルベニア州のアーミッシュの村に住む母子が、親族のいるボルチモアへ旅行に出かけた。

サミュエル
 乗り継ぎのために立ち寄った、フィラデルフィア駅でのトイレで、サミュエルは殺人事件を目撃してしまう。

 幸い、犯人から見つからずに済んだサミュエルだったが、犯人の顔を目視したことで、所轄の警察に連れて行かれるに至った。

 面通しのためである。

その事件を担当した刑事こそ、ジョン・ブックだった。

面通しをしても犯人を特定できなかったサミュエルは、偶然、警察署内に貼ってあった新聞の切り抜き記事の黒人の顔を見て、犯人を特定できたのである。

「麻薬課のマクフィー刑事 青少年補導で表彰される」

これが、切り抜き記事の見出しだった。


真犯人を突きとめたサミュエル


それを、ジョン・ブックに目配りして教える、会話なきこの緊迫度の高いシーンの演出は冴えている。

言語の挿入なしに済まない文学の限界性と切れた映像フィールドの独壇場である。

惜しむらくは、トラウマになるような恐怖体験をしたサミュエルへの演出に切れが不足していたため、些か感情表現のリアリティに欠けていた嫌いがあったこと。

 これは、ピーター・ウィアー監督も、DVDの特典映像のインタビューで、この辺りの演出の難しさを認めていた。

それはさておき、殺人事件の犯人が身内にいることを知って驚愕したジョン・ブックは、直ちに、その事実をシェイファー本部長に報告した。

 自宅アパートに帰宅したジョン・ブックが、マクフィー刑事に襲われ、銃丸を貫通する程の重傷を負ったのは、その数時間後だった。

 この一件によって、シェイファー本部長による「秘密の暴露」が証明され、レイチェル母子の身の危険を感じたジョン・ブックは、相棒刑事のカーターに連絡し、事の真相を話した上で、サミュエルの調書の始末を依頼した。

 妹の家に匿っていた母子を急いで連れ出したジョン・ブックは、カーターに「2、3日消える」と言い残して、母子を無事にアーミッシュの村に送り届けるに至る。

 無事に送り届けたことの安心感からか、一気にジョン・ブックの貫通銃創の傷が悪化し、命の危険に直面する。

病が癒えたジョン・ブックとレイチェル
 居場所が特定され、保安官が乗り込んで来るのを怖れるレイチェルは、出血がひどく、高熱で苦しむジョン・ブックを病院に連れていくことができず、義父が呼んだ療法師に治療を任せ、その間、自ら献身的に看病することで、ジョン・ブックの一命を取留める。

 「治ったら、出ていってもらおう」

 これが、アーミッシュの村の長老たちの結論だった。

 非暴力主義を絶対規範にする村民には、武器を日常的に携帯する男の侵入は、とうてい許容し難い事態なのである。

 ここで、武器の携帯を絶対的なタブーにする、アーミッシュの村の「掟」のエピソードの一つを紹介する。

 ジョン・ブックの銃を預かったレイチェルとの義父が、銃に関心を持った、孫のサミュエルに言い聞かせるシーンである。

 「銃は、人の命を奪うための道具だ。人の命を奪ってはならん。それは、神のお仕事だ。戦争がある度に、世間は我々に言った。”武器を取り、人を殺せ。善を守るたった一つの道だ”と。だが、求めれば、必ず他の道がある。一度手にすれば、それは心を染める。”故に、彼らの中を出て、離れて暮せ。汚れたものに触れるな”」
 
義父とサミュエル
これは、非暴力主義を絶対規範にするアーミッシュの村の、決して破ってはならない「掟」であった。



2  「掟」という名の絶対規範の力学の重しの中で ―― 「沐浴する女」・「立ち竦む男」の最終到達点



黒装束で身を固めて、町に出たジョン・ブックは、カーターに電話連絡し、自ら乗り込んでいく意志を伝えるが、その危険性を指摘されて断念する。

悪徳警官を敵にする闘いには、当然の如く、「殺るか、殺られるか」以外の選択肢は存在しないのである。

完全に行動を封じられたジョン・ブックは、今や、アーミッシュの村で潜む非日常の生活を余儀なくされるに至る。

 「治ったら、出ていってもらおう」という長老たちの思惑が、いつしか希釈化されていった。

 映像は、ここから、アーミッシュの村に溶け込んでいくジョン・ブックの変容を切り取っていく。

 義父の牛の乳搾りを手伝ったり、コミュニティを総動員して、納屋作りの大工仕事に精を出したりするのだ。

 そんな生活が、非日常から日常への変容を遂げつつある心地良き幻想の中で、ジョン・ブックの感情の変容をも顕在化させていく。

 レイチェルへの思いが加速的に膨らんでいったのである。

 しかし、全人格的に最近接するダンスを踊っていても、視線をぴったりと合わせるだけで感受する男女の情感が、常に一線を越えることがないのは、「文明」と「非文明」を分ける、「掟」という名の絶対規範の力学の重しが、二人の間に横たわっているからだった。

また、レイチェルには、ダニエルという名の、彼女を密かに思う若者がいる

ダニエル、ジョン・ブック、レイチェル
そして、何にも増して、ジョン・ブックに恋慕を抱くに至ったレイチェルの内側で、「非文明」それ自身が放つ臭気を払拭する程の推進力を持ち得なかったのである。

それは、レイチェルが統合された規範の継続力を生命線とする「非文明」を捨てて、ジョン・ブックが、その臭気への違和感を覚えつつあった「文明」の中に、共に人格投入する冒険を犯すことを意味するからである。

雷雨の夜だった。

沐浴しているレイチェルを見つめるだけで、どうしてもその距離を埋められないジョン・ブックが、ずっとそこに立ち竦んでいた。

ジョン・ブックを見つめるレイチェル
それだけだった。

本作の中で、最も重要なカットが繋がれて、夢幻のように消えていったのである。

 「君を抱いたら帰れなくなる。または、君が出ることに・・・」

翌朝、ジョン・ブックが吐露した言葉である

レイチェルは、それに何も答えず、男との距離を確保する。

 レイチェルもまた、煩悶を重ねるが、一瞬にして空気が変わっていく。
 
相対的に薄められていた事件の悪臭が、アーミッシュを襲いかかってきたからである。

相棒を殺されたことを知ったジョン・ブックが、一気に暴走したことが、事態の急展開を招来するに至った。

アーミッシュをバカにする、観光客という名の、チンピラの暴力的態度に立腹し、ジョン・ブックは彼らに暴力を振ってしまった。

「掟」破りのジョン・ブックが引き起こした事件によって、シェイファー一味はジョン・ブックの所在を突き止めるに至り、事態は急転していく。

自らの行為の責任を取って、ジョン・ブックは村を出ることを決意した。

その夜、自らが壊した鳥小屋の修理に取り組んでいるジョン・ブックを、家屋から目視していたレイチェルの心は、一気に解放系に跳躍する。

「掟」の物理的な象徴でもあった帽子を脱いで、ジョン・ブックのもとに向かい、「終生の別れ」という思いが弾け合った二人の情動は封印を解かれ、堅く抱き合い、最初で最後の愉悦の時間を共有した。

シェイファー一味との闘いが開かれたのは、その翌朝だった。

「文明」の悪の記号を被った一味の一人が、「非文明」の象徴である穀物のシャワー―を浴びて死ぬシーンは、本作のメッセージとして受け止めることができるだろう。

追い詰められたシェイファー
マクフィーもまた、「非文明」の中枢のスポットでジョン・ブックに斃され、レイチェルを人質に取って、最後に残ったシェイファーの悪足掻きは、サミュエルが打ち鳴らす鐘の合図で集合した多くの村の男たちに囲繞されて、万事休す。

呆気なく警察に捕捉されていくことで、このシンプルなサスペンス劇は、束の間、煌(きら)めかせただけで、淡色系の彩りのうちに閉じていった。

ここでは、何より、非暴力主義の圧力で屈していくシーンこそ、作り手の思いを込めたメッセージの収束点であったということ ―― それに尽きるのだ。

だから、家の中にジョン・ブックの銃が隠されている事実を知りながら、誰も、その「文明」の悪しき道具を手に取ることを拒否したのである。

ジョン・ブックとサミュエル
孫に語った祖父の訓示が、サミュエルが打ち鳴らす鐘の構図の重要な伏線になっていたことが、鮮やかな反転ショットの提示として、ラストシークエンスの中に拾い上げられたのである。

鐘の合図で集合した多くの村の男たちの手には、殺傷性のある道具はおろか、質量を持ついかなる物質も握られていることがなかった。

 それは、穀物のシャワー―を浴びて死んだ男の武器を奪い取って、マクフィーを屠ったジョン・ブックの正当なる振舞いすらも相対化する、非武装性の極点を映像提示した決定的な画像であった。

 たとえ刑事であったとしても、武器を手にして殺傷行為に及んだ者を、厳格な「掟」を絶対規範にする「全身宗教」の村の中に留め置く行為が許容される訳がないのだ。

 昨夜の一時(いっとき)の睦みは、今はもう、過ぎ去った過去の時間と化していた。

見つめ合うだけの、男と女の関係構図が復元する空気の中で、男は去り、女は残る。

 「英国人には気をつけろ」

女の義父が放った決め台詞である。

去っていく男への、せめてもの親愛なるメッセージであった。

男の車が点景のようになっていく帰路で拾われたのは、女に恋慕するダニエルとの別離の儀式だった。

最後まで村民の「掟」に従順だったダニエルが、女の重要なパートナーとなっていくことを提示して、声高に叫ぶことを拒絶する映像が閉じていくのだ。



3  「文明」と「非文明」の相克の隙間に惹起した、男と女の情感の出し入れの物語



私は本作を、「文明」と「非文明」の相克の隙間に惹起した、男と女の情感の出し入れの物語であると解釈している。

以下、まとめとして、その辺りを簡単に批評していきたい。

一頭立て四輪馬車に乗るアーミッシュの夫婦(ウィキ)
統合された規範の継続力を生命線にする「非文明」(反文明にあらず)が、「文明」の中に発見した価値を手放したくないと感じることができるのは、「非文明」それ自身が放つ臭気への違和感が、既に自らの生活圏の内側に拾われることを前提にするだろう。

そして、様々に分化した消費の再生産が収斂されていく快楽系の装置としての「文明」が、「非文明」の中に発見した価値を恒久的に守りたいと感じることができるのは、「文明」それ自身が放つ臭気への大いなる違和感が、自らの生活圏の内側で決定的に拾われることを前提にすると言っていい。

それは、遥かに異質な価値観へのシフトを可能にする変化が、自らが拠って立つ生活圏の中で惹起されている内的現象を不可避とするが故に、容易に出来する何かではない。

本作の主人公の男を捕捉した「非文明」の中で発見された価値は、男が拠って立つ生活圏への違和感を束の間惹起させたが、統合された規範の継続力を生命線にする「非文明」に呼吸を繋ぐ女の内側で、「非文明」それ自身が放つ臭気への違和感が起こらない限り、両者の物理的近接が、一時(いっとき)、心理的な最近接による情感を生み出したとしても、異質な価値観へのシフトを可能にする変化にまで突き抜けられなかった。

ピーター・ウィアー監督(ウィキ)
これは、「非文明」の中で発見された価値の中枢に呼吸を繋ぐ女に、いつしか恋慕の念を抱く心的行程を通して、字義通りに、自らが被弾した「文明」の臭気から浄化されていくことで体感した快楽を、「非文明」の限定されたエリアで繋ぐという、その飛躍的行為の難しさを感受した男が、自らの本来のサイズに見合った「物語」の中に、ほんの少し差別化し得た「自己像」、即ち、「非文明」の中で発見された価値によって相対化した、「文明」への客観的視座を抱懐する「自己像」を立ち上げていく映像である。

本作は、そんな異質な価値観へのシフトを可能にするときの条件が、単に外在的であるというよりも、遥かに内在的な性格を有する変容を不可避とする現実のバリアの様態を描き出す根源的な問題提示を、サスペンスの筆致で映像化した稀有な傑作だった。

そして、男の変容を、限りなく精緻な心理描写で描き切った本作の完成度の高さは、その男を演じたハリソン・フォードの見事な表現力の高さの後押しによって、殆ど奇跡的傑作と言っていい稀有な作品に仕上がっていた。

紛れもなく、オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督の最高傑作であると同時に、「スター・ウォーズ」シリーズでヒーローを演じた暑苦しい演技力とは切れて、ハリソン・フォードの最高傑作であると、私は評価している。

 惜しむらくは、これだけの名画が観られる機会が少ない現状であるが、映画史の中に埋没することがないことだけは確信して止まないのである。

(ウィキによると、「実際は共同体外部の異性と恋愛をすることは現在でも皆無とされる」とのこと)

(2013年2月)






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