2013年2月4日月曜日

 モンスター(‘03)      パティ・ジェンキンス




<法治国家で生きる者の宿命としての「地獄巡りの彷徨」の報い>



 1  アイリーンの「負の連鎖」と、シリアルキラーにまで堕ちていった現実との相関性①




 実際のモデルとなった事件とは無縁に、映像で提示された物語にのみ限定して批評していく。

 特段に致命的瑕疵がある訳ではないが、本作はモデルとなった事件をベースにしただけで、基本的にメッセージ性を持った「物語」として構成されているので、私もその把握に則った批評を繋いでいきたいと考える。

―― 以下、物語の主人公の「負の連鎖」について、時系列に沿って箇条書きにしてみた。

、児童期に、父親の親友からレイプされ続けた過去を持っていたこと。

それを父親に話したら、全く信用されず、逆に折檻されたこと。

「8歳のときレイプされた。父親の親友に。父親に言っても、信用されない。だから、そいつに何年にもわたってレイプされ続けたばかりか、”悪口を言われた”と父親にぶたれた」

これは、本作の主人公であるアイリーンが、娼婦に戻った際に、彼女の銃丸の犠牲者になる、初老の「客」(刑事)に吐露した言葉。


、その父親が自殺した後、弟や妹たちの面倒を見るために、思春期前期(13歳)に娼婦になったこと。更にそれが発覚し、故郷を追われたこと。

「パパの自殺後、妹や弟が路頭に迷って、妹や弟だけ隣の家で世話に。でも、チビたちに金を渡してやらないと。だから私が客を取って、彼らの服やタバコ代を稼いだ。ある晩、パーティーの席で一人の男が、私とヤッた話をした。それで、私を雪の中に追い出したのさ」

これは、アイリーンが、レズパートナーのセルビーに吐露した言葉。

、思春期前期(13歳)に娼婦になったことで、それ以外に生活していく術がなく、その生活を延長させてしまったこと。

この事実は、「それ以外にない選択肢」として、娼婦の生活を延長させてしまった苦い過去を、アイリーンが「唯一の親友」と呼ぶホームレスのトムに吐露していることで判然とするが、重要なシーンなので後述する。

、娼婦に対する社会的差別を受け続けたことなどで、疲弊し切った孤独なアイリーンが自殺を決意したこと。

その手に銃を持ち、一貫して物語の拠点となった、フロリダでのファーストシーンにおいて映像提示されていた。

、自殺の際に所持していた5ドルの紙幣が縁で、同様に孤独なセルビーとバーで出会ったこと。そして、そのセルビーから、初めて自分が必要とされる存在であるという喜びを見出し、自殺を翻意したこと。

父親から同性愛の治療のためにフロリダに移住して来たセルビーもまた、社会からの疎外感に囚われていて、自ら求めるようにアイリーンに接近していったシーンが印象的に描かれていた。

、セルビーとの「共依存」の関係を延長させていったことで、自らが感受した「愛の幻想」を手放したくないために、アイリーンは娼婦稼業から縁を切ろうと努力したこと。

しかし、既に社会的適応を決定的に欠如していたために、娼婦以外の選択肢しか残されていないと決めつけ、セルビーとの「共依存」の関係の延長のために、娼婦の世界に戻っていくに至る。

セルビーとアイリーン
この事実は、「堅気」の仕事を探し回るが、面接に履歴書を持参せず、弁護士の秘書の仕事の面接を受け、パソコンも法律の知識すらないことを指摘されただけで切れ捲る、アイリーンのパーソナリティ障害性を露呈するエピソードによって裏付けられていた。

 「これからどうするの?」
 「任せておいて」

 アイリーンに「生活の糧」を依存するセルビーに、「堅気」の仕事に就こうとするアイリーンとの会話の断片である。

 しかし、訪ねた職安で、娼婦である事実を打ち明けて希望の職を求めるが、工場の仕事を紹介されたことで、アイリーンは切れ捲る。

自我が未成熟なため、自己を客観的に把握できず、社会適応力の致命的瑕疵を露わにするばかりだった。

、相手の男が特定できないリスキーな娼婦の世界に戻ったことで、変態男から暴行を受け、その男を射殺した事件を出来させたこと。

「私なんかどうでもいいんでしょ!何で、娼婦止めたの!お腹すいたと言っても、何もくれない!」
 「許して」
 「あなた、私を利用する気ね!」

これは、アイリーンとセルビーとの会話だが、ここでアイリーンは、娼婦を止めた理由を告白するに至る。

「レイプされ、殺されかけたので、最後の客を殺したの。あんたに愛されずに、死にたくなかった。だから殺した」
「ごめんなさい」

そう言って、アイリーンに泣きつくセルビーの依存心の過剰さが顕在化するに及ぶが、その依存を快く受容するアイリーンにも、既に自らが、「愛」への嗜癖行動によって等価交換の役割性を演じる、「イネーブラー」(「共依存」を後押しする者)の存在である現実を露呈させていた。

、アイリーンのフラッシュバックを惹起させるに足る、「正当防衛」の最初の殺人事件によって、殺人へのハードルが一気に低くなり、且つ、自ら労働することをせず、自分に頼るだけのセルビーとの「愛の幻想」を延長させるために、弁明の余地なきシリアルキラーになっていったこと。

2度目の殺人を起こすアイリーン。

「パパって呼んでくれ」と言われたことで、父親の親友からレイプの虐待を受け続けたトラウマを想起したのか、既に殺人のハードルが低くなっていたアイリーンは、「小児愛の変態」と叫んで、相手を銃殺するに至った。

―― 以上、アイリーンの自我に累加させた「負の連鎖」について、時系列に沿って箇条書きにしてきたが、ここで押さえておかねばならない客観的事実がある。

それは、1から6までの「負の連鎖」が、最終地点としての8にまで流れていく現象を、「それ以外にない選択肢」として把握するのは無理があるということだ。

物語の主人公であるアイリーンがシリアルキラーにまで堕ちていった現実が、1から6までの「負の連鎖」によって惹起された必然的現象などでは全くないということを、私たちはまず把握せねばならないのである。

アイリーンの「負の連鎖」と、シリアルキラーにまで堕ちていった現実との相関性。

この問題意識によって、稿を変えて批評していきたい。



2  アイリーンの「負の連鎖」と、シリアルキラーにまで堕ちていった現実との相関性②



この「負の連鎖」の中で重要なのは、本来なら自殺した可能性があるアイリーンが、レズパートナーとなっていくセルビーとの濃密な関係を、ひたすら延長させたいというモチーフによって手に入れた〈生〉の自己運動への心理的変容の様態である。

この心理的変容には相応の説得力がある。

それ故に、一方は「愛」を、他方は「生活の糧」という、必ずしも合致しない報酬に関わる感情傾向が、等価交換の役割性を幻想した「共依存」の危うさの中で、無自覚的に流れ込んでいく行程が内包する矛盾のうちに、既に関係破綻の自壊のリスクを抱え込んでいたということ。

これは、看過し難い現実だったと言える。

「イネーブラー」の存在なしに、近未来の困難な事態を打開できないような脆弱性を抱えたセルビーの自我は、親の過干渉の圧迫感に対して、決定的な抵抗虚弱点を晒していた。

彼女にとって、意思的決断に関わる〈状況性〉に絡まれて、胸元に切っ先を突きつけられる事態に対峙し、それを主体的に克服していくという選択肢は初めから排除してしまっているので、常に「イネーブラー」の存在を不可避とする人格を作り上げてしまっていたのである。

それにも関わらず、この「共依存」の関係が破綻することによって被弾する強度は、明らかにアイリーンの側にあった。

それ故、どうしてもアイリーンにとって、それだけは「守り抜きたい何か」であった。

その「守り抜きたい何か」のためにこそ、アイリーンはシリアルキラーに堕ちていったという把握のうちに映像提示されているようであった。

ここで、重要な会話を紹介する。

前述したように、ホームレスのトムとアイリーンとの会話である。

「皆、私のことを、生き残ることしか考えていないクズだと思ってる」
 「分るよ、君の気持が。君が生きるためにしていることは、好きでやってる訳じゃない。それしか方法がないからだ。君が今感じているのは罪の意識だ。でも、君の力ではどうしようもない。俺たちは戦争から戻り、君と同じことを感じ、何人もが命を絶った。誰も理解しない。今までも、これからも。置かれた環境が違うんだ」
 「私には”選択肢”がなかった」
 「そうとも。生きなくては」
  
この由々しきシーンの挿入によって、観る者は、恐らく、トムの言葉を作り手のメッセージとして受け止めただろうし、私もそのように受容した。

しかし、床屋談義で捨てられることの多いこの種の物言いには、明らかにロジカルエラーが包含されている。

当然ながら、民主的な手続きで選ばれた法治国家の行政府が遂行した戦争の内実が、限りなく侵略戦争という性格を内包していたとしても、そのことは、この国で惹起したシリアルキラーによる由々しき犯罪を、司法的手続きを経て処理していく文脈と同列に論じられるものではないのである。

南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾(ウィキ)
よもや、その文脈が、ベトナム戦争の「歴史的犯罪性」(注1)によって、シリアルキラーの犯罪を免罪符にするというメッセージに流れ込まないことを認知しつつも、本作の作り手が、その類の印象濃度の高い「物語」を構築したことだけは否めないだろう。

何か一つの、看過し難い世界史的な出来事(ここではベトナム戦争)に対する、「歴史的犯罪性」を弾劾するときの常套フレーズが持ち込んでしまう観念傾向が、「すべて社会が悪い」という、全く根拠のない感傷的言辞に繋がってしまう危うさにあることは、世の東西を通じて普遍的であると言っていい。 

思えば、ユーフラテス河の流域に築かれた文明である遥かメソポタミアの時代から、私 たち人間の常套フレーズは、「今の若者はたるんでいる」、「今の社会は最悪だ」という感覚的把握であった。

いつの時代でも、人々は、「荒廃した現世」を罵倒し続けてきたのである。

恐らく作り手は、売春婦やエスニック・マイノリティ、障害者らに象徴される「社会的弱者」に対する不当差別と、問答無用の切り捨てが横行する現実を指弾したかったと思われるが、しかし、その指弾が客観的事実を踏まえたものなのかについて、私は疑問に思う。

世界中でハンセン症者と並んで、売春婦が差別の対象にならない時代は存在しなかったと言っていい。

ここで、私が想起するのは、例の「アファーマティブ・アクション」(「積極的差別是正措置」)と、その反動としての「ホワイト・バックラッシュ」(逆差別論議の中で起こった白人たちの反動的行為)の現実である。

それは、それまでの黒人差別の言語を絶する歴史を考慮することと、マイノリティに対する過剰なまでの「差別是正措置」への「逆差別」の憤懣が澎湃(ほうはい)し、「クラッシュ」(2004年製作)で描かれたような、中流層の黒人女性クリスティンに対するライアン警官のセクハラ行為に象徴される、「ホワイト・バックラッシュ」の暴れ方を顕在化させる事態の「等価性」を、簡単に推し量れない難しさを示唆するものであるが故に厄介なのである。

本来は「正義派」のライアン
 「あんたみたいな女に、有能な白人の男たちが職を奪われてるんだ。親父が不憫だ。清掃員として働いた金で会社を始めた。23人の従業員は全員黒人で、平等に給料 を払ってた。30年間、彼らと一緒にゴミを運んでいたんだ。だが、少数民族の雇用主を優先する法律ができて、一夜にして全てを失った。会社も家も妻も。だが、恨み事は言わない。あんたたちの利益のために全てを失った男に、ほんの少し手心を加えてくれるだけでいい」

 これは、病院での折衝を担当する、黒人のキャリア女性に対する、ライアン警官の恨み節である。

 無論、「女性の地位向上」という文脈に収斂されるので、売春婦自体が「アファーマティブ・アクション」の対象化される存在ではないが、良かれ悪しかれ、アメリカには、「社会的弱者」の自立を脆弱化させる危うさを持つ制度があるということなのか。

―― ここで私が想起するのは、本作のアイリーンが、職安で「売春婦」を堂々と名乗りながら、自分に合った職業を求めるエピソードである。

 自らを「売春婦」を名乗りながら、職業斡旋を求める女性が、とうてい日本には出現しないだろうことを慮(おもんばか)るとき、アイリーンに対する職安女性の対応には特段の驚きもなかった事実こそ、私にとって驚嘆すべきことだった。

 少なくとも、「女性の地位向上」を掲げる「アファーマティブ・アクション」の具体的事例が、そこに拾えるだろう。

 
(注1)1961年から1968年まで、アメリカの国防長官だったマクナマラは、有名な回顧録(「マクナマラ回顧録 ベトナムの悲劇と教訓」)の中で、ベトナム戦争後、ベトナムを訪問し、当時の北ベトナム軍の最高幹部と会談の機会を持ち、徹底した検証作業を遂行することで、彼なりの反省を記述しているが、自己正当化に対する批判も起こった。然るに、納得がいくまで歴史を検証しようとする態度には学ぶべき点も多い。



 3  法治国家で生きる者の宿命としての「地獄巡りの彷徨」の報い



ここで、改めて私は考える。

果たしてアイリーンは、「私には”選択肢”がなかった」と言えるのか。

不遇な環境下にあって、13歳以来、娼婦をすることによってしか身過ぎ世過ぎを繋いでこなかった女が、その人格に負うハンデの甚大さを充分理解し得ても、一念発起、「堅気」の仕事に就くという覚悟を括り、彼女なりに努力をして、何とか職安で、工場労働という製造業の仕事に就く可能性が開けたにも拘らず、その職を紹介されただけで、「ファックユー」と相手を罵倒した挙句、尻を捲って帰ってしまう乱暴な態度を露わにする女が、果たして、「私には”選択肢”がなかった」と言えるのか。

彼女をして、このような乱暴な態度を取らせてしまう、その人格の偏頗(へんぱ)で、顕著な在りようこそが、彼女の人生の選択肢を狭めさせてきた最大の要因であるとは言えないのか。

 どうしてもアイリーンにとって、それだけは「守り抜きたい何か」があり、そのために「堅気」になろうとまで考えたのなら、能力的なハンデや差別と闘いながら、地道に人生を繋いでいく選択肢の一欠片すらなかったと決めつけることができるのか。

―― ここまで威勢よく書いてきて、私は自らが提示した文脈を反転する問題意識を認知せざるを得ない。

道徳律を踏まえた私の正論が通用するほど、彼女が負っている現実の総体は甘くないだろうということを。

「堅気」になると言って、履歴書も持たず、弁護士事務所の就職試験を本気で受けるほど、彼女は自己を相対化し、客観化するに足るメタ認知能力が決定的に欠如しているエピソードを見る限り、彼女の社会的適応力の困難さは、ごく普通の小学生が有名大学の受験に挑むレベルの実現不能なアポリアであると言っていい。

当然の如く、ワシントン州のNPO法人が立ち上げた、衝動的攻撃的な行動を和らげるための教育プログラムである「セカンドステップ」と縁を持つことがあり得ないばかりか、健全な自我を親から形成されることがなかった彼女の、許容範囲を遥かに超えた「耐性欠如」の爛れ方は、犯罪予備軍として蝟集(いしゅう)する危うさを本質的に抱え込んでいた。

そんな彼女が、一念発起して工場労働に就いたとしても、その本来的な「耐性欠如」の故に呆気なく頓挫するイメージしか浮かんでこないのである。

だから、「守り抜きたい何か」を捨てられない彼女が、自分の欲望の稜線を伸ばし切っていけばいくほど、当然の如く、様々な意味でリスキーな、売春婦という「本職」の稼業に舞い戻るしか方略がなかったとも言える。

そして、何より不幸なことは、7で指摘した最初の殺人事件が、その延長線上に惹起されてしまったという由々しき現実である。

そこで出会った男から激しい暴行を受け、死の恐怖を感じた彼女が、男を即座に銃殺するという最初の殺人事件の心理的風景に横臥(おうが)しているもの ―― それは、アンドロフォビア(男性恐怖症)とまでは言えなくとも、彼女が内深くに封印してきた児童期のレイプ事件をルーツにする、男性嫌悪のトラウマ以外ではないだろう。

フラッシュバックされたトラウマが、アクティング・アウト(封印した記憶が身体表現されること)してしまったのである。

それは決定的な事態であった。

元より、男性嫌悪の延長線上に、男たちを相手にする売春婦稼業に身を投げ入れること以外に、生計を立てられなかった彼女の人格が丸ごと抱え込んだ現実の負荷の重量感は、まさに、彼女の「負の連鎖」を必然化する悪しき振れ方であったとも考えられる。

そんな彼女に対して、同情し、援助の手を差し伸べる者たちが容易に見つかるとは思えない。

「社会や周囲の人間たちの愛と優しさの欠如が、彼女の事件を生んだ」などという、根拠の希薄な感傷的把握は論外としても、「自分の力で生きていけ」ということを国是とするような国民国家に呼吸を繋ぐ者にとって、確かに、彼女の人生は息苦しさに充ちていたかも知れない。

しかし、奇麗事を言うべきではない。

もしあなたが、彼女のような人間を最近接のエリアで射程に収めたら、果たして、存分な愛と優しさの思いを拠り所に、彼女に対してアウトリーチするかどうか、それを考えるべきである。

自分ができないことを、軽々に口に出すべきではないのだ。

あれほど理解力のあったホームレスのトムですら、言葉を投げかける行為が限界だった事実を冷厳に受け止めるべきである。

結局、彼女は最初の事件によって、封印されていたトラウマを激発させることで、もう後戻りできない心理状況に追い込まれてしまったのである。

だから、彼女は、その時点で自首すべきであったのだ。

然るに、「守り抜きたい何か」を捨てられない彼女にとって、その行為が困難であったということ ―― ここに、彼女の「悲劇」の全てがある。

その後の彼女の犯罪は、当然の如く、死刑に値するシリアルキラーに化けていく。

刹那的な快楽を追求するだけの女の本性が曝されていったとき、もう、そこには「守り抜きたい何か」との心理的距離が埋められなくなっていく。

「愛の幻想」を繋ぐために犯す殺人が、いつしか、「自壊」に向かう地獄巡りの彷徨として自己目的化していくような印象を残す程に、救いのない女の旅には、「絞首台」という、それ以外に考えられない、作動ボタンを押すことで「人生」を強制終了される機械的なシステムしか待機していなかったのである。

それ故、彼女は最初の殺人事件を犯したとき逮捕されねばならなかったのである。

逮捕されて、正当防衛を主張しても認められる保証は難しかっただろうが、それでも逮捕されねばならなかった。

自首することが無理であったが故に、それ以外に、もうシリアルキラーの暴走を防ぐ手立てはなかったからである。

逮捕されることで、医療刑務所で精神科の治療を受けるべきだったのである。

幸いにと言うべきか、アメリカには日本と違って、薬物依存症者に対して処罰ではなく、トリートメントを提供することを目的とする、「ドラッグコート」が1000ヵ所近く存在すると言われている。

運が良かったら、精神科の治療を受けることで更生の道が開かれるかも知れない。

残念ながら逮捕されることなく、彼女は「地獄巡りの彷徨」の最悪の道にまで突き進んでしまった。

 それは、自業自得という外にない。

 逮捕を免れることで、突き進んでしまった「地獄巡りの彷徨」の報いを受けるのは、法治国家で生きる者の宿命であるからだ。

それは、今や、「すべて社会が悪い」という感傷的把握を蹴散らせてしまうに足る、地獄巡りの彷徨の報いであるに違いないのである。


 
 4  死語と化すに至る、「私には”選択肢”がなかった」という詭弁



 アイリーンの不幸のルーツは、彼女の子供時代にあった。

 子供の自我を形成する義務を負う「大人の不在」が、アイリーンの社会的適応力の困難さの淵源にある。

しかし、「大人の不在」に起因する子供の不幸を認めることは、その不幸によって非行に走った子供の再教育を、大人社会の名で遂行することを認めることと決して矛盾しないのだ。

モデルとなったアイリーン・ウォーノス(ウィキ)
いつでもよりましな大人が、子供の再教育を引き受けるしかないのである。

大人だけが子供の自我に、決定的な形を与えてしまうのだ。

再教育を必要とする子供が、よりましな大人と出会えるか否かは、もう運命でしかないだろう。

この理不尽な運命から自由であった人間は、かつて一人もいない。

だから、今更、それを論(あげつら)っても何の意味もないのである。

一個の生命が放たれたとき、そこには既に世界があった。

その生命がアセンション(昇天)したとき、そこにはまだ世界が残っている。

生命はその中で繋がれてきたのであり、これからも連綿と繋がっていくのである。

運命の残酷を呪うのもいい。

呪っただけの人生を、自ら閉じるのもいい。

思えば、いつの時代にも一定の確率で出現するであろう、愚昧な大人たちが犯す違法行為や愚行の全てを、そのつど時代や社会の所為にすることによって納得し得る情報処理の手法は、極めて短絡的な把握であるが故に、しばしば、恐ろしいほどに支持されやすい感情文脈であると言っていい。

とりわけ、性急な現代人は曖昧さと共存することを忌避する傾向が強いため、常に分りやすく、誰の眼にも見えやすい飛躍的な結論に、事態の因果関係の軟着点を求める短絡性を往々にして晒していると思われる。

そこに、「単純化の時代」の危うい陥穽が潜んでいるのである。

仮説の検証の難しさを認知する合理的な知性こそが、切に求められる所以なのだ。

前述したように、「社会が悪い」、「今の若者は・・・」という常套フレーズが、人類史を貫流させてきた現象の滑稽さを、私は今更のように感受する次第である。

全く誤謬のない完璧なシステムを、当該社会が具備させることが困難なのは、人間が不完全な知的生命体であるからだ。

従って、大人の社会が劣悪さに溢れているのは、無垢を脱した大人たちが性悪さに流れたのではなく、敢えて言えば、人間の存在それ自身が劣悪さの可能性をも内包しているからである。

だからこそ、人間教育が普遍的価値を持つということだ。

人を愛する自由はあるが、人から愛される権利は存在しない。

人を助ける自由もあるが、人から助けられる権利はない。

自分の身は自分で守らなければならないのだ。

家庭の中では、親が子を守る。

映画「誰も知らない」より・ ネグレクトされた子供たち
それは義務である。

その義務を放棄したとき、親は遺棄罪で司直の裁きを受けるのだ。

あまりに当然のことだ。

そういう社会を、私たちは作ったのである。

良かれ悪しかれ、それが民主主義社会である。

然るにそれは、厳然たる法的ルールによって成り立つことを認知する社会だ。

「やるべきこと」と、「やってはならないこと」を明文化して、それを守っていく。

それが、その社会に生きる者の絶対的義務なのだ。

 厳然たる法的ルールによって明文化された、「やってはならないこと」をやってしまったアイリーンが、法治国家が定めた法的ルールの名のもとに裁かれるのは当然過ぎる手続きなのである。

もう、そこには、「私には”選択肢”がなかった」という詭弁は死語と化すだろう。


【余稿】 世界各国における売春合法化の流れについて

 「余稿」として、世界各国における売春合法化の流れについて書いておこう。

 逸早く、2000年に売春合法化を具現したオランダでは、売春婦の強制労働や不法滞在などといった問題の解決が切迫していたからである。

売春を「正業化」することによって売春婦の管理を合理化し、そのことで、その売春業者に納税義務を負わせることを可能にしたのである。

「セックス税」を徴収するドイツが続き、今では、オーストラリア、ベルギー、ニュージーランド、タイといった国々が売春合法化に踏み切っている。

コレコレア問題に取り組むキリバスの女性運動家
そんな中で、韓国人男性によるキリバスの現地女性を対象にした、歯止めの利かない買春によって「コレコレア」と呼称され、いつしか、「売春王国」と揶揄される韓国では、斡旋者と買春者が共に処罰される「性売買特別法」が施行された結果、逆に海外諸国への「遠征売春」が増加する始末に、政府も手を焼いている現状がある。

また、我が国の売春防止法のように、「管理売春」が処罰の対象になっているだけで、相手が未成年でない限り買春者への処罰がなく(注2)、どこまでも「防止法」であって、罰則規定を持つ「禁止法」ではない現状を考えるとき、国家が何某かの形で売春に対する管理を実施していることが瞭然とするだろう。

なぜなら、売春を野放しにすることは、「家族制度」の亀裂を生み、「生産」の停滞に直結し、且つ、「犯罪」の温床になり易いと認識しているからである。

これが、売春婦への差別の根柢にある。

そのことは、売春合法化を具現する流れとも矛盾しないのである。

人間の欲望系の中で、〈性〉に関わるときの情動の振幅は、人間の抑制系を破壊する怖さをも内包するから、売春への管理を怠らない法治国家は存在しないのである。


(注2)売春防止法によると、「第三条  何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」とあるが、「単純売春」に対する罰則規定が存在していない。



(2013年2月)

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