2013年2月13日水曜日

あ、春(‘98)      相米慎二



<「非日常」の揺動感の中で、ほんの少し骨太のラインを成す共同幻想を再構築していく物語>



 1  更新された「日常性」を巧みに操作し、安定化させていくことの困難さ



「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

 従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。

 「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。

 この「日常性のサイクル」は、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。

 しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

 「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

 「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。

 その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。

従って、仮に「日常性」が安定したとしても、それが「至福」のイメージのうちに、「穏やかなる〈私の死〉」に軟着していく保証など全くないのだ。

例えば、重篤な疾病、身内の死去、離婚や別離、失職、更に、自らが意志的に選択した〈状況〉で被る様々な被害なら「自己責任」を問う余地があるかも知れないが、自らが求めもしないのに、「外部事件」にインボルブされることによって「日常性」が壊されることだって間々ある。

由々しきことに、自我を安定させるために作り上げてきた「日常性のサイクル」が、何某かの「非日常」の襲来によって破綻した物語のラインが収束したとしても、そこに覗き見える「日常性」の風景が、それまでの「日常性」のそれと様相を異にする場合があるという現実である。

そこで更新された、未だ馴染みにくい「日常性」が、それまでの「日常性」のフラットな風景よりも、決して本人が望んでいない劣悪なイメージのうちに捕捉されるケースがあること ―― これが厄介なのである。

しかし時として、そこで更新された「日常性」の風景が、本人が抱懐していたイメージよりも遥かに強靭で、健(したた)かなランドスケープの情景を手に入れる可能性もあるということ ―― このような僥倖が拾えるが故に、大袈裟だが、一見、「パラレルワールド」(私たちの世界が、同一の次元で「異界」と共存しているというSF的発想の産物)との近接感覚を惹起させるような「非日常」の襲来を、心奥で求めて止まない何かが捨てられないのだろう。

更新的生命力の発現を被浴するに足る「日常性」の構築こそ、ある意味で、「未知」への探求に振れる私たちホモサピエンスの宿命かも知れないのである。

人生は儘(まま)ならないが、自分の内側を深々と通過していった「非日常」の破壊性によって、自らの拠って立つ生活や関係の基盤を強化することも考えられるのだ。

相米慎二監督
運良く、危うさを随伴するその時間を突き抜けることができたら、今度は、更新された「日常性」を巧みに操作し、安定化させていけばいいのだが、その安定が困難であるのは当然過ぎることである。

本作は、まさに、その辺りを描いたホームコメディであった。

そして、そこで出来した、毒素と思しき「非日常」の相貌は、前述したような要件を含んでいたからこそ、ごく普通のサラリーマン生活を常態化させていた中流家庭を決定的に揺るがしていったのである。



 2  「役割共同体」としての家族の固有の律動感



家族は「役割共同体」である。

物理的共存を深めるほど、関係は中性化する。

これが関係の基本命題である、と私は考えている。

 中性化とは、一言で要約すれば、「性の脱色化」である。

 夫婦と子供二人という核家族の中で、この中性化=「性の脱色化」という現象が多元的に、部分的には緩慢に、しかし確実に進んでいく。

紘と母の公代
それは、物理的共存を選択した家族の宿命であると言っていい。

 そこでは、かつて愛し、恐らく、今でも愛しているに違いない特定の女性を、「お母さん」とか、「ママ」とか呼び慣らす習慣への、ほぼ自然なるシフトがまずあった。

これは、我が子が意識主体へと成長する行程に対応するようにして現出したものだ。

 かつての愛する男性もまた、固有名詞の人格呼称から、「お父さん」という役割呼称に変えられて、瑞々(みずみず)しかった若きカップルは、家族という役割 集合体に関係ベクトルを転位させていくことになる。

夫婦の関係は、子供との関係に力点を移すことで相対化され、一つの「役割共同体」としての家族が、その固有 の律動を刻んでいくのである。



3  「非日常」の揺動感の中で、ほんの少し骨太のラインを成す共同幻想を再構築していく物語



さて、本作のこと。

相応のサイズの「役割共同体」を平穏に維持している中流家庭が、本作のベースになっっている。

常に安定剤を必要とする、些か精神不安で、苦労知らずの妻を持つ夫もまた、自らが勤める証券会社の倒産の危機に直面しながら、本来の「危機突破回避型」の性格の故か、人生の転換を迫られる状況下にありながらも、夫婦間で、その喫緊のテーマが会話の俎上に上ることはない。

依存型の妻への配慮があって、夫が話さないからである。

表面的に穏和な家庭の土手っ腹を穿(うが)つような話題が、決して夫婦間の不和というリスクを引き摺ることのない、当該家庭から拾われることはなかったのは、夫婦間でタブーの領域が存在していた事実と無縁でなかったのである。

だから、鶏を飼うことを趣味にする家族の長閑(のどか)な日常性が延長されていて、特段に亀裂が入るような家庭像のイメージからは程遠かった。

かくて、広い庭を持つ裕福な家に婿養子に入った夫と、世間知らずの妻、そして、未だ色香を仄(ほの)かに残す義母と、可愛い盛りの一人息子によって構成される家庭の「役割共同体」には相応の継続力があった。

紘と瑞穂
夫の名は韮崎紘(ひろし)。

妻の名は瑞穂。

「役割共同体」が相応に機能しているこの家族の中に、突如、闖入(ちんにゅう)して来た男がいる。

それは、冒頭の大きな野良猫の、家屋への堂々とした侵入に象徴されるような、厚顔さを露わにするものだった。

男は笹一と名乗り、死んだと思っていた紘の父であると言う。

以降、韮崎家は、一泊のつもりで泊めた笹一を追い出す術もなく、それまで、平穏な日常性を繋いできた「役割共同体」が掻き回される危うさを露呈していった。

不遠慮で、非礼な態度の中に無頼の強さを垣間見せる一方、その小器用な振舞いで、笹一は「便利屋」然としたメリットを韮崎家にもたらすが、あろうことか、「役割共同体」としての家族の規範を犯すことで、韮崎家から追放されるに至る。

笹一が、未だ色香の漂う息子の義母・郁子の入浴を、庭から覗き見したからである。

配偶者間の関係を例外にして、限りなく〈性〉が脱色されている「役割共同体」の中では、「中性共同体」の秩序が自然裡に形成されているのだ。

たとえ音信不通になっていた身内と言えども、笹一は、このタブーを犯したのである。

いや、身内として居候を許していたが故に、「役割共同体」の逸脱者が追放されるに至ったと考えた方が的を射ているだろう。

「役割共同体」としての家族の中枢に踏み込んだ男の無頼漢ぶりは、追放されるに至っても、副都心の隙間にある公園をねぐらにするホームレスの世界で、好き放題の自由な生き方を繋いでいた行為によって充分に検証されていた。

韮崎夫婦と息子、笹一
心中では不安視しながらも、父との物理的共存を拒む紘が、それでも再び父を迎え入れるに至ったのは、ホワイトカラーの酔っぱらいによって差別的言辞を吐かれ、乱暴されている父を目の当りにしたからである。

再び開かれた、笹一との物理的共存の中で、一時(いっとき)、雛が孵(かえ)った鶏のための鶏舎を、父子が協力して作り直すような温和な空気が生まれるに至る。

しかし、雛(ひよこ)の死に象徴される、秩序の維持の安定的継続力の難しさが描かれることで、笹一との共存によって再び開かれた家族の空気には、内側に「非日常」の厄介さを抱え込んでいた。

無頼のような生活を繋いできた笹一の家族への侵入は、紘の会社倒産の危機とパラレルに進行することで、「役割共同体」としての家族の継続力を劣化させる、看過し難いストレッサーにまで膨れ上がっていったのである。

笹一の侵入によって出来する「非日常」の厄介さ ―― それは、唐突に韮崎家を訪ねて来た富樫八重子と名乗る女の出現だった。

15年も同棲していた八重子の図太さは、年の離れた笹一の帰還を求めながらも、堂々と生命保険をかけていることの意思表示に顕在化されていた。

韮崎家の女たちのストレスがピークアウトに達したとき、迷惑を蒙る連絡を受けた、笹一の元妻で、紘の実母である公代の登場となる。

紘、笹一、公代
本作に繰り出される「強い女たち」の、最後の切り札の登場によって、それがどこまで真実疑わしいが、紘が公代の浮気によって産まれたが故に、笹一と紘には血縁がない事実が指摘されるに至ったのである。

その驚嘆すべき事実を知らされた笹一は、妙に合点がいったせいか、紘に謝罪するや、韮崎家を出ていく支度をして、居間の扉を開けようとした。

笹一が、持病のアルコール性肝硬変で卒倒したのは、そのときだった。

運ばれた病院で肝硬変の末期と診断され、余命宣告を受ける。

14の時から船乗り稼業
初めて港を出た時には・・・
デッキの上には波がある
ここで死ぬのは厭わねど・・・

少し体力を回復した笹一が、屋上で船乗り時代の歌を唄うのだ。

自分がいつも唄う歌を耳にした紘は、父の律動感に合わせて唄いながら、まじまじと父の顔を凝視しつつ、そこだけは明瞭に言い切った。

「俺はやっぱり、あんたのガキだ」

血縁の有無など、もうどうでもいい。

船乗り時代の歌を唄う笹一の「男の血」が、自分にも流れていることを確信した紘が、今、ここにいて、父の車椅子をゆっくり押すのである。

ここに今、何かが継がれ、何かが捨てられていった。

物語の中で最も感銘深いシーンだった。

そんな心境下で、紘は妻の瑞穂に、自らが置かれた厳しい現実を告白するに至る。

それは、上出来のホームコメディ基調の物語の中で初めて挿入された、夫婦間のシビアな会話だった。

 「謝らなきゃならないんだ」
 「何?」
 「今日、更生法の申請が却下されたんだ」

 その意味が呑み込めず、夫のフォローを待つばかりの瑞穂。

 「会社、潰れたんだよ」

 「間」ができた。

 「どうして結果だけ言うの?」
 「こんなに早いとは思わなかったんだ」

 再び、「間」ができる。

 「いつも私に、何も話してくれなかったじゃない。ずっと、そうだった。お父さんのことも、いつもほっぽらかしにして、自分一人で苦労しているみたいな、そういう顔・・・」
 「そうかも知れないな・・・仕事面白かったのかなぁ。退職金も出ないんだ。どうしていいんだか分んないだよ」

 それだけだった。

瑞穂と母の郁子
元々、精神不安を抱え込む脆弱さへの配慮から、外部世界での一切の話題を封印してきた紘にとって、さすがに倒産の現実に直面したとき、家族の安定的な秩序への不安が広がるのは必然的だった。

しかしそれは、韮崎夫婦を直撃する、彼ら自身の「非日常」の最初の試練だった。

そして、それ以前から顕在化していた、夫婦の「日常性」が揺動する現象の極点を告げる事態が、同時に現出する。

笹一の急死である。

ここで、笹一の遺体を目の当りにする者たちを笑いに誘う一種のファンタジーが、〈死〉という「非日常」の極点の病棟の中で噴き上がった。

笹一の腹が隠し込んでいた鶏の卵が孵化して、雛(ひよこ)が産まれたのである。

ホームコメディなら有り、という解釈以外に捕捉し得ない奇を衒(てら)った絵柄だが、凡俗性の臭気を否定し得ないとも思われる。

閑話休題。

一気に抱え込んだストレスに十全に対応できない一つの家族が、呆気ない程の笹一の死を視認することで、かつてそうであったような「幸福家族」の物理的共存を復元させるに至るが、しかし今、会社倒産と「身内」の死によって極点に達した「非日常」の揺動感の中で、それまでの「幸福家族」の幻想を突き抜けるほどの再構築が内側から要請されたのである。

散骨する韮崎夫婦
笹一の思いに沿うように、小舟から散骨する者たちのショットが映像提示されたラストシークエンス。   

 「帰ったら、仕事探さなきゃな」
 「大丈夫。あたしたち、生きていけるよ。あたし、結構強いんだから」

これは、瑞穂が紘に放った言葉。

無頼のような人生を送ってきた男の闖入によって生まれた「非日常」の揺動感の中で、現実を直視しない家族の風景が決定的な変容を迫られたことで、「役割共同体」としての家族の新たな再構築のイメージを乗せて、物語は閉じていく。

前述したように、時として、そこで更新された「日常性」の風景が、本人が抱懐していたイメージよりも遥かに強靭で、健(したた)かなランドスケープの情景を手に入れる可能性もあるということ ―― それを否定すべく何ものもないのだ。

言わずもがな、これは、「役割共同体」としての家族が内包する脆弱性を鍛え直すために、どんな状況下でも生き抜く男の侵入を反面教師として、それがほんの少し骨太のラインを成す共同幻想を再構築していく物語であった。

 このシンプルな読解に尽きるだろう。

(2013年2月)

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