2023年12月29日金曜日

評議('06)    人が人を裁くことの重さ  伊藤寿浩

 


1  「私たち9人が知恵を出し合い、真剣に議論を行えば、きっとみんなが納得できる結論に至るはずです」

 

 

 

平成21年(2009年)

 

裁判員が参加する刑事裁判が始まった。

 

被告人・中原敦志(以下、中原)の婚約者・川辺真由美(以下、川辺)の証言。

 

「私は中原さんと婚約していながら、彼の親友である朝倉さんと一度だけ、浮気をしてしまいました。朝倉さんは、私のことを愛してくれていたと思います。でも、私は中原さんのことを愛していました」 

川辺

「僕は裁判に参加することになった」(裁判員・大沢祐介のナレーション/以下、ナレーション) 

大沢


藤原裁判長が緊張する裁判員たちを、評議室のテーブルに案内する。 


1日目。

 

「裁判所初日の手続きが終わりました。皆さん、いかがでしたか?」と藤原裁判長。

 

小池裁判員(以下、小池):「裁判を見るのは初めてなんで、すごく緊張しました」

小池

西出裁判員(以下、西出):「私は、ただもうびっくりで…だって、三角関係のもつれから人を刺すなんて、まるでドラマよね。まさか、自分がその裁判にかかわるなんて思ってもみませんでした」

西出(にしで)

岩本裁判員(以下、岩本):「…被告人は婚約者を奪われた上に、こんな事件を起こしてしまった。まだ若くてこれからだと言うのに、全く哀れとした言いようがありませんな」

 

「哀れ?」と反応した大沢裁判員(以下、大沢)に、皆の視線が集まる。

 

「担当した事件は、殺人未遂事件だった。会社員である被告人が、学生時代からの友人である被害者を果物ナイフで刺したというものだ。被告人は婚約者と同棲していた。その婚約者が被告人の友人と親密な関係になってしまったのだ。それを被告人が知るところとなり、今回の事件となった。検察官は殺人未遂罪が成立し、被告人の殺意は強かったと主張」(ナレーション) 


中原被告人/「検察官は殺人未遂罪が成立し、被告人の殺意は強かったと主張」

法廷。 


中原(被告人):「ナイフはたまたま背中に刺さってしまったんです」

 

「逃げていた被害者は、持っていた果物ナイフが刺さってしまった。つまり…殺意はなく、傷害罪が成立する」(ナレーション)

 

弁護人:「傷害罪が成立するにとどまります」 

弁護人


評議室。

 

大沢:「僕は被告人は果物ナイフを持ち出すべきではなかったと思います。彼女の心はナイフとかじゃなくて…もっと正しい手段で取り戻すべきだと思います」

岩本:「若ければ、カッとなることもあるだろう」

岩本

藤原裁判長:「意見や疑問、何でもざっくばらんに話をしていただければと思います」

藤原裁判長

千葉裁判員(以下、千葉):「あの。…これから被告人をどんな刑にするかってことを話し合うんですよね?」

千葉

藤原裁判長:「最終的にはそうなります」

小池:「全治1カ月の大ケガをしたということですよね。ってことは、被告人の罪はかなり重いんじゃないですか」

田村裁判官:「まずは被告人の行為が殺人未遂になるのか、傷害になるのか決めなければなりません。そして、殺人未遂か傷害かは、被告人に殺意があったかどうかによって決まります」

田村裁判官

小池:「同じように人を刺しても、殺意があれば殺人未遂罪、殺意がなければ傷害罪で、罪の重さが全然違ってくるってことですか?」

田村裁判官:「そうです」

松井裁判員(以下、松井):「私の判断が被告人の方の人生を左右するなんて肩の荷が重すぎます」

松井(右)

西出:「毎日、家計のやりくりや夕飯の献立に悩んでいる普通の主婦に、いきなり殺意がどうのなんて…分かりません」

 

6人の裁判員たちは、それぞれに緊張し、不安な面持ちである。

 

藤原裁判長:「私たち9人が知恵を出し合い、真剣に議論を行えば、きっとみんなが納得できる結論に至るはずです」

岩本:「私は小さな町工場をやってるただの親父です。法律のことなんて、からっきし分かっちゃいません。それでも裁判員として必要とされて、今ここにいる。それなら、最初っから無理だと決めつけるのではなく、素人なりにできる限りのことをやってみよう、そう思っています」


藤原裁判長:「岩本さんのおっしゃる通り、法律のプロとは違った視点を持つ皆さんのご意見は、判決を下すうえで、大変貴重なものとなるはずです」

西出:「あたしは…あたしなりの意見でいいってこと?」

松井:「一人では不安ですけど、皆さんご一緒ならなんとか」

大沢:「殺意があったかどうかなんて、本人にしか分からないことだと思うんです。それはあくまで被告人の心の中の問題であって、僕たちが話し合いによって決めるなんてできるんでしょうか?」


藤原裁判長:「被告人の心の中の問題についても、被告人の行動から、ある程度、推測することができるのではないでしょうか…ビルの10階から人を突き落とせば、それも殺意があったと言えるでしょう。では、5階だったら、3階からだったら、1階のベランダからではと考えていくとどこかで殺意という言葉を使うのが不自然にはなりませんか」


大沢:「つまり、この事件では、検察官は10階から突き落としたようなものだから殺意があると主張し、弁護人の方は、1階のベランダ、いや、庭で突き倒したようなものだから殺意なんかないって言っている。そういう感じですか?」

藤原裁判長:「その通りです。今の段階では、そんなイメージだけ持っていただければ十分だと思います」

岩本:「まずはナイフがどうやって刺さってたかってことか…」

小池:「あの…本当に3日で終わるんでしょうか?」

山本裁判官:「裁判所と検察側、弁護側とで事前に打ち合わせて、この事件は今日から3日間で審理を終える予定です」 

山本裁判官


2日目。

 

法廷。

 

「2日目は被害者の証人尋問から始まった」(ナレーション)

 

検察官の質問に対し、一流商社に勤務し、長身で体格も良い朝倉は、中高と野球部のキャプテンを務めていたと自信たっぷりに受け答えする。

 

「いきなり中原に後ろからナイフで刺された」と朝倉は主張する。

 

検察官:「被告人は『朝倉、待て』と叫んだところ、あなたが急に立ち止まったので、ナイフが突き刺さってしまったと主張していますが、実際はどうだったんでしょうか?」

朝倉:「途中で立ち止まってなんかいません。中原にも『朝倉、待て』なんて言われていません」

朝倉
 
 

「このあと、目撃者、被告人の婚約者、被害者を診察した医師の証人尋問が行われ、再び評議が行われた」(ナレーション)

 

小池:「被害者はきちんと私たちの目を見て話してたでしょ。被害者の話は信用できると思います」


西出:「それなら被告人だって、まじめそうで嘘をつくような人には見えなかったわ」

岩本:「一度、事件の流れを整理してみませんか?」

大沢:「そうですね。まず被害者が婚約者を訪ねていき、被告人と別れるように説得していたんですよね。すると、そこに被告人が1日早く出張から帰って来て、鉢合わせになった」

松井:「そのとき初めて相手の男の気持ちを知り、被告人は男を怒鳴りつけた。すると今度は、男が被告人に対して…」

小池:「真由美の心は『もうお前から離れてるんだって』って言って、すでに彼女と関係を持ったことを告白した。それで愕然となった被告人が、彼女に問い質すと、彼女は何も言わずに部屋を飛び出していった。そして、被害者も『悔しかったら、力尽くで取り返してみろ。お前みたいな意気地なしにできるわけないけどな』と捨て台詞を残して、彼女を追って部屋を飛び出して行った」

「それで愕然となった被告人が、彼女に問い質すと、彼女は何も言わずに部屋を飛び出していった」


大沢「すると、後ろから来た被告人に肩をつかまれ、それを振り払おうとしたときに、被告人の持っていた果物ナイフが、被告人の肘をかすった。そして被害者は、振り向きざまに被告人の顔を殴りつけ、その時初めて、被告人が果物ナイフを持ち出したことと、自分の肘の傷に気が付いた」

「そして被害者は、振り向きざまに被告人の顔を殴りつけ…」


田村裁判官:「言い分が食い違ってくるのは、このあとのことですよね。被告人は婚約者のほうへ行こうとした被害者を追い駆けながら、『朝倉、待て』と叫んだところ、意外にも被害者が急に立ち止まったので、持っていたナイフが背中に突き刺さってしまったと主張しました」

小池:「でも被害者は、自分が立ち止まってないんいないし、被告人の『朝倉、待て』という声も聞いていないって」

大沢:「刺さってしまったと刺されたとじゃ、全然違うよな」

岩本:「たまたま刺さったということも、あり得ないわけじゃない」

小池:「それにしても、婚約者の真由美さんの証言は、なんであんなにはっきりしないんだろう。一番近くにいたはずなのに…」 



法廷で、検察官の尋問に曖昧な返答をする川辺。

 

被害者が被告人にナイフで刺された時のことを聞かれ、「一瞬のことだったので、よくわかりません」と言い、『朝倉、待て』と被告人が叫んだことについても、「言ったような気がします。でも、絶対に言ったかどうかと言われると、はっきりしません」と答える。 



藤原裁判長:「確かに、あの婚約者の証言は曖昧でした」

小池:「でも、事件の原因を作ってしまったことには…とっても責任を感じているみたい」

岩本:「それは、被害者も同じだろうなあ」

松井:「そうでしょうか?」

 

朝倉は法廷で、弁護人から被告人の婚約者を奪おうとした責任を問われると、「奪うなんて…彼女は中原と婚約したことを後悔していたんです」と反論している。 



松井:「被告人の踏みにじられた気持ちを考えると、やりきれないわ」


千葉:「だからって、人を刺しちゃダメでしょう」

 

そこで裁判員たちは、藤原裁判長に意見を求めると、まだ無理に結論を出す必要はなく、明日の被告人の話を聞いてからということになった。

 

3日目。

 

弁護人に、被害者に仕返しをしようと部屋を出て行ったのかを聞かれた中原は、それを否定し、「僕は真由美のことが心配だったんです。このまま、どこかに行ってしまうんじゃないかって。朝倉さんと違って、僕は中小企業のサラリーマンです。でも、まじめに一生懸命働いて、彼女を誰よりも幸せにしたかった」と答えた。

 

弁護人:「あなたは部屋を出るとき、果物ナイフを手にしています。それはなぜですか?」

中原:「真由美のことを追い駆けようと思ったんですが、朝倉さんに邪魔をされたらと不安になって」

弁護人:「あなたは最初から、ナイフで被害者を刺すつもりだったんですか?」

中原:「いえ、刺すつもりなんてありませんでした。ただ僕は朝倉さんに比べて体も小さいし、運動もあまり…だから、もし彼に反撃されたらと思って、やむをえずナイフを持ちました」

 

続いて、検察官に、ナイフを持ち出したのは、朝倉を殺さなければ婚約者を取り戻せないと考えたのではないかと問われると、中原は強く否定し、更に、殴り倒された時の気持ちを聞かれた中原は、その心情を吐露した。

 

「殴られて倒れる瞬間、真弓が見ているのが分かりました。すごく惨めで悔しかったです…本当に悔しかった」 


裁判員が発言を求められると、まず、小池が被告人に質問する。

 

「真由美さんのことは、今はどう思っているんでしょうか?」


「私は、今でも彼女を愛しています。戻って来て欲しいです」
 



「3日目はこのあと、検察官、弁護人が意見を述べて、審理を終えた」(ナレーション)

 

 

 

2  「人の意見を聞いて納得したうえで自分の意見を変えることは、全然恥ずかしいことではないのです。最終的にみんなで知恵を出し合って良い結論を出せればいいんです」

 

 

 

検察は論告で、被告人を殺人未遂罪で懲役5年を求刑し、弁護人は最終弁論で殺意を否定して、傷害罪を主張した。

 

藤原裁判長:「今日ですべての審理が終了しました。最終評議を行います」

 

田村裁判官がボードを使って相関図を説明し、裁判員もそれぞれ発言して、事実関係を確認し合う。

 

被告人と被害者は高校の同級生で親友、被害者は積極的な性格で大学を卒業後、外資系の商社に就職し、幹部候補生としてニューヨークで研修していた。

 

一方、被告人は性格はどちらかというと引っ込み思案で、高校を卒業後、上京して就職し、そこで真由美と知り合い、事件の半年前に同棲を始めていた。 


その頃、ニューヨークの研修を終え東京に戻り、偶然、新宿で二人と再会する。

 

真由美に一目惚れした被害者が電話やメールでアプローチし、一回だけ関係を持ってしまった。

 

藤原裁判長:「まずは、殺意があったかどうかを決めます」

松井:「私は、ますます分からなくなりました。被告人も被害者も嘘をついているようには思えないんです」


大沢:「僕は被告人の“持っていたナイフがたまたま刺さってしまった”というのが、どうしても引っかかるんです」

岩本:「被害者が急に立ち止まったのならおかしくはないだろう」


大沢:「でも、被害者はすでにナイフで肘を切られているんですよ。立ち止まったら危ないことぐらい分かるはずです。被告人の言い分は、やっぱり不自然ですよ」


小池:「あたしもおかしいと思います。普通に考えれば、被告人の言い分は不自然ということで有罪ですね」

藤原裁判長:「刑事事件には、“疑わしきは被告人の利益に”という原則があります。証拠を、偏見を持たずにきちんと検討し、有罪にすることについて、少しでも疑いが残るときは被告人に有利に判断することになります。被告人の言い分をおかしいと思わない方もいるでしょう。結論を急がずに、慎重に証拠を検討し、事実はどうだったかということを一緒に追究してみませんか?」 



そこで、法廷での目撃者の証言を検討する。

 

被告人と同じマンションに住み、目撃していた主婦は、被害者が落ちている果物ナイフと、左肘から血が出ていることに気付いて驚いた様子だったが、「真由美!」と叫んで走り出した。


そして、肝心の被告人が被害者を刺す瞬間は木の陰で見えなかったが、「朝倉、待て」という叫び声は聞いていないと、はっきり証言した。 

証言する目撃者

裁判員らは、マンションの立地条件や、前後の明瞭な目撃証言から、この主婦の証言内容に信憑性があることを確認する。 



次に婚約者・川辺の証言では、「気が動転してよく覚えていない」と曖昧な証言となっている。

 

大沢:「彼女は本当のことを語ろうとはしていないんです」

岩本:「君の言うことが正しければ、婚約者は被告人を庇うわけでもなく、さりとて真実も語っていないということになる。なぜ、そんなことをする必要があるんだ?」


大沢:「そうか…もし被告人を庇うつもりなら、被告人の『朝倉、待て』と言うことを聞き、被害者が急に立ち止まったって言うはずだよな」


 

法廷で、弁護人から率直な気持ちを聞かれた川辺。

 

「朝倉さんは、私のことを愛してくれていたと思います。でも、私は中原さんのことを愛していました」

弁護人:「被害者の情にほだされ、一度だけ関係を持ってしまったものの、それは、恋愛感情ではなかったということですね」

川辺:「朝倉さんにも心を惹かれたことは否定しません。でも…もう一度やり直したい。私は中原さんと、やり直したいです」 



評議室。

 

小池:「被告人とやり直したいっていう真由美さんは、できれば被告人を庇いたいって思ってるはずよ…その一方で、事実を曲げるようなことはしたくないっていう正義感もある。曖昧なことばかり言っちゃうのは、そんな複雑な立場に追い込まれた彼女なりの証言だったんじゃないかな」

岩本:「やっぱり、被告人の言い分はおかしいってことか。しかしこうなると、今までの主張を全面的に変えることになってしまうな」

 

「被告人を信じていたのに、これじゃ面目丸潰れだわ」とぼやく西出に、藤原裁判長が「気になさることはありません」と声をかける。

 

藤原裁判長:「裁判官の世界には、“評議は乗り降り自由”という言葉があります。人の意見を聞いて納得したうえで自分の意見を変えることは、全然恥ずかしいことではないのです。最終的にみんなで知恵を出し合って良い結論を出せればいいんです」 


そこで、あらためて事実関係について確認の評議を進めていく。

 

大沢:「つまり、立ち止まることなく急いでいた被害者を、被告人が果物ナイフを拾って追いかけ、いきなり後ろから刺したというのが自然な流れですね」

西出:「要するに、被害者の供述通りってことね」


藤原裁判長:「では、被害者の供述は信用でき、被告人が果物ナイフで被害者の右背部を一回刺したということでよろしいですか?」
 


全員が頷く。

 

そして、被告人が意識的にナイフを突き刺したということを前提に、被告人の殺意の有無についての検討に入っていく。

 

凶器の果物ナイフは刃渡り10センチで、殺そうとするには小さすぎるが、背中の傷はほぼ体の中心で、その位置から検察は殺意ありと主張している。

 

田村裁判官:「ですが、傷の深さは6センチで、根元まで刺さったわけではありません。傷の状況から殺意があったとまで言えないと思います」

 

検察官は、自宅から果物ナイフを持ち出した時点で被告人には殺意があったと主張しており、この点について意見を求められた千葉は、被告人も「刺すつもりでナイフを持ち出した」と言っており、検察の言う通り、その時点で殺意はあったと主張する。 


そこで、大沢の提案で刺された時の状況を再現してみると、右利きの被告人は右手で被害者の肩を押さえ、左手でナイフを持っていたことが判明し、もっと大きな刃物を持ち出すこともせず、最初から殺意があったとは考えられないという意見が提示され、複数の裁判員が頷く。

 

その流れで、「被告人が被害者の背中を刺す時にも、殺意はなかったってことになるのか」と指摘する岩本に対し、大沢が反駁する。

 

「ちょっと待ってください。すでに被告人の肘を傷つけているにも拘らず、それでもあえて背中を刺しているんですよ。この時点で殺意がなかったとするのは、少し強引じゃないですか?」 


松井も大沢の意見に同調し、背中を刺す時に被告人が利き腕でナイフを持っていたことを指摘する。

 

田村裁判官:「ですが被告人は、その後の救護活動にも協力しています」


岩本:「被告人は被害者にその場で謝りながら、出血箇所を押さえ、更に救急車が車で待っている。死んでもいいと思っていたなら、そんな行動を取るはずがない!」
 


そこで大沢は、そのときの被告人の気持ちになって考えてみようと提案する。

 

被告人の心の葛藤に着目し、一流企業に勤める朝倉へのコンプレックスや、事件当日、「悔しかったら力尽くで取り返してみろ」、「お前みたいな意気地なしにできるわけないけどな」と言われ、部屋を出て行った被害者を追い駆けた被告人は被害者に殴られ、倒される瞬間を真由美に見られているのが分かったと、その時の心境を証言している。

 

「すっごくみじめで、悔しかったです。本当に悔しかった」

 

大沢は、その被告人の気持ちを読み取っていく。

 

「婚約者の前で殴られて、ひどい屈辱を味わされたうえに、さらに婚約者を連れて行こうとする様子を見て怒りが爆発したんじゃないでしょうか?その後、被告人は被害者を刺しているんです」 


田村裁判官も「被告人の置かれた状況を考えてみると、殺意ありの意見の方が説得力があるように思えてきました。これで被害者が死んでしまうかもしれないという思いがあったけれども、あえて刺した」と述べた。

 

岩本:「そういうのも殺意ありということになるんですね」

田村裁判官:「はい」

 

ここで、「殺意あり」ということで全員一致をみた。 



休憩時間に、大沢が心境を吐露する。

 

「会社も休まなくちゃならないし、正直言って、迷惑な役目を押し付けられたもんだって思ってたんですけど、皆さんと話し合いを進めて行くうちに、この裁判員の仕事にやりがいを感じてきています」 


皆も同じように手応えを覚えているようで、事件についても、それぞれ自分の境遇に引き寄せて語るのだった。

 

「これから僕たちは、“被告人はとっさに殺意を抱いて果物ナイフで刺した”という認定を前提とし、どのような刑がふさわしいのかを決めなくてはならないのだ」(ナレーション)

 

量刑を決めるにあたって、田村裁判官が説明する。

 

「殺人未遂罪は条文では、死刑、無期懲役、5年以上20年以下の懲役で処罰されることになっています。ただ、未遂による減軽(げんけい/刑を軽くすること)と、情状酌量による減軽もできますので、1年3カ月が最短となります」 



法廷での検察の論告。

 

「被告人には殺人未遂罪が成立しますので、被告人を懲役5年に処し、押収してある果物ナイフ一本を没収するのを相当と考えます」 


弁護人の最終弁論。

 

「被告人に殺意はなく、傷害罪にとどまります。被告人は十分に反省をしていますので、執行猶予の寛大な判決を求めます」 



「刑は今回と似た事件の量刑を参考にして検討するということで、意見が一致した。今回の事件は、“ナイフを使った”、“ケガが一カ月程度”、“殺意の程度は絶対に殺すという激しいものではない”、“被告人には前科がない”、“被害者が被告人を許している”といった特徴を持っているので、同じような特徴の事件がいくつか紹介された。ところが、実刑にした事件も執行猶予にした事件もあり、どちらにするかが問題となった」(ナレーション) 



岩本:「被告人は、被害者と婚約者に裏切られたうえに、殺人未遂の犯人にまでなってしまった。これで十分、罰を受けたことにはならないだろうか。執行猶予でいいと私は思う」


千葉:「ええっ、そうは言っても殺人未遂ですよ。もし、被害者が死んでたらどうするんですか?」


小池:「ナイフで人を刺しているのに、執行猶予にしていいの?」

西出:「被告人は嘘をついていたわけでしょ。それ考えるとちょっとね」

田村裁判官:「すでに治療費や慰謝料も支払っていますし、被害者も被告人を許すと言っています。私は執行猶予でいいと思いますが」

松井:「確かに許すとは言ってたけど、それって本当かしら。だって被害者の朝倉さん、やけに自信満々でしたよ…きっと、あの人はもう一度真由美さんを口説くつもりなんだわ」

 

千葉は、また三角関係が始まり、被告人は今度こそ被害者を殺すかもしれないと憶測を言い始めると、岩本がそれを正す。

 

「実刑か執行猶予かは、被告人の今後の人生を左右する重大な問題なんだから」

「そうよね。それにあたしは真由美さんの法廷での言葉を信じてる…」と小池。

 

法廷。

 

「被告人は服役のため、何年か刑務所に入る可能性があります。それでもあなたは、やり直すと言い切れるんですか?」(検察官)

 

ここで、冒頭の川辺の言葉が再現される。


彼女は涙を浮かべ、きっぱりと言い切った。

 

「刑務所に入っても、出て来るのを待ちます。私は今回の事件で自分の気持ちがはっきりとわかりました。私は…中原さんを愛しています」 



評議室。


藤原裁判長が現時点での判断を訊くと、執行猶予が6名、実刑が2名となった。 

執行猶予(西出、以下5名)

実刑(千葉)

実刑(山本裁判官)


この場合、最終的には多数決によって決めることになるが、藤原裁判長は話し合いの続行を求めた。

 

「こういった男女の仲というのは、見方によってずいぶん印象も違います。皆さんの納得がいくまで話し合っていきましょう」 


山本裁判官:「被害者を執拗に追いかけて刺したというのは悪質ですし、検察官の主張通り、実刑が相当と判断しました」 


更に、失業して妻に逃げられたという千葉は、「一度壊れた男女を修復するのは難しい」と自身の経験に絡めて持論を述べた。 


「まして被告人は失業して貯金もない。いくら執行猶予にして被告人を婚約者の元に返したって、それで二人が元のとおりにうまくいくとは限らないでしょう」

 

すると、岩本が「ここは、若い二人の可能性に賭けてもいいんじゃないのか?」とすかさず反論する。

 

松井:「私は定年退職をした主人と二人暮らしです。今でこそ静かな暮らしですけど、若い頃には、そりゃあ、山あり谷ありで、いろいろなことがありました。でも、それを乗り越えて行くのが二人で作っていく人生です。私も真由美さんの覚悟を信じてみたいと思っています」


千葉:「確かに二人に賭けて、もう一度チャンスを与えるっていうのは、いい気もする。それに、もともと被害者が人の婚約者に手を出したことが原因なんだし、被害者も責任を感じてるなら、執行猶予の方がありがたいかも知れないな。うん、意見を変えます。執行猶予」

 

残る山本裁判官に、皆の視線が集まる。

 

「犯行は悪質ですが、皆さんの意見を伺っていて、執行猶予という選択もあるのではないかと思えてきました。意見を変えて執行猶予にします」 


そこで、藤原裁判長が意見を述べる。

 

「この事件で、ひょっとしたら、被害者の命が失われることになったかもしれません。被告人の責任は決して軽いものではないと思います。従って、被告人を実刑にするという意見も十分な理由があります。しかし、被告人が婚約者の期待に応えて、社会の中で立派に立ち直っていくということも、大事な償いの一つであると思います。皆さん方に指摘していただいた点を考えると、私も執行猶予という意見です」 


こうして、被告人の執行猶予が決定した。

 

法廷。

 

藤原裁判長による判決が言い渡される。

 

「あなたに対する殺人未遂等被告事件について、判決を言い渡します。“主文 被告人を懲役3年に処する。ただし、この裁判が確定した日から5年間、その刑の執行を猶予する…”…この判決には、あなたが厚生することを信じ、これから二度とこのようなことがないようにしてほしいという、私たち9人の切なる願いが込められていることを、どうか忘れないでください」 


「はい」と返事をして、深々と頭を下げた被告人の目から涙が零れ落ちる。 



裁判が終了し、安堵した裁判員たちを前に、藤原裁判長が裁判員制度の感懐を述べる。

 

「裁判員制度は、裁判員と裁判官が一つのチームとなって協力し合い、充実した議論をして良き結論を出す協働作業だと思っています。皆さんの発言のお陰で、被告人、被害者、そして、婚約者の心まで踏み込むことのできた素晴らしい評議を持つことができました。私も、これまで以上に新鮮な気持ちで判決を言い渡すことができました」 



映画のラストは、充実した表情を浮かべる裁判員が裁判所を出て別れていくシーンで閉じていく。 


岩本から握手を求められて応じる大沢

 

 

2  人が人を裁くことの重さ

 

 

 

最高裁判所が制作した広報映画であるにも拘らず、映画の内容はとてもいい。

 

難しいテーマについて話し合う時の範を示していて、「評議」はこうあって欲しいと思わせる内容になっていた。

 

裁判官と裁判員が公平な立場で議論し、被告人の刑を決めていく。

 

そこに至るまでの議論それ自身と、その向き合い方の大切さを改めて考えされられた。

 

「被告人の責任は決して軽いものではないと思います。したがって被告人を実刑にするという意見も、十分な理由があります。しかし、被告人が婚約者の期待に応えて、社会の中で立派に立ち直っていくということも、大事な償いの一つであると思います。皆さん方に指摘していただいた点を考えると、私も執行猶予という意見です」 


被告人の量刑を決める際の裁判長の言葉である。

 

この裁判長の言葉で思い起こすのは、シドニー・ルメット監督の「十二人の怒れる男」。

 

有罪になったら死刑になる被告人の少年を裁く陪審員裁判の評決のスポットで、有罪に傾く11人を論理的に説得する一人の陪審員が八面六臂(はちめんろっぴ)で弁舌を振るい、空間を支配する。 

「十二人の怒れる男」より

まるで超人的なヒーロー譚のようなスーパーマンだった。

 

ハリウッド好みの映画だったが、我が国の裁判員制度にはスーパーマンが不要であることを改めて認知した次第である。

 

また、この限りなくフェアな裁判長によって映画のメッセージがインサートされていた。

 

「裁判官の世界には、“評議は乗り降り自由”という言葉があります。人の意見を聞いて納得したうえで自分の意見を変えることは、全然恥ずかしいことではないのです。最終的にみんなで知恵を出し合って良い結論を出せればいいんです」 


物事を真摯に考える際に、意見を変えることは恥ずかしいことではなく、寧ろ、その重要性への認識こそ共有すべきことを思い知らされる。

 

然るに、裁判員制度における評議での議論の要諦(ようてい)を知ることができないのが残念である。

 

守秘義務があるからだ。 

裁判員の守秘義務


これは改善の余地があるだろう。 

裁判員制度『市民からの提言2018』」より



辞退せずに、裁判員を経験した人の90%以上が「良い経験だった」と回答している現実を知る限り、見知らぬ人たちが与えられたテーマに対して責任感を持って話し合うことの意義を感じ取り、議論の価値を見出しているのである。 

裁判員の経験者の反応



「正直言って、迷惑な役目を押し付けられたもんだって思ってたんですけど、皆さんと話し合いを進めて行くうちに、この裁判員の仕事にやりがいを感じてきています」 


若き会社員・大沢裁判員の吐露である。

 

人が人を裁くことの重さ。

 

大沢裁判員は、このことを自らの経験を通して肌身に沁みたからこそ、裁判員の仕事にやりがいを感じ取ったのだろう。 


人が人を裁くのではない。

 

裁判員制度で裁くのは人ではなくて、どこまでも「事件」なのである。

 

人が犯した「事件」を、その「事件」に向き合う人たちが、自らの意見を表現し合う時間を積み上げ、結論を導き出していく。

 

そして、それを広く共有していくことで、少しでも私たちの国の民主主義が鍛え上げられていくのである。

 

【時代の風景「裁判員制度は民主主義を鍛え上げる」を参照されたし】

 

(2023年12月)

0 件のコメント:

コメントを投稿