2012年7月15日日曜日

冒険者たち(’67)         ロベール・アンリコ


<「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体の蠱惑的な相貌性>



 1  致命的な破綻の中から拾い上げた冒険行での匂い立つ青春の炸裂



冒険とは、恐怖指数(投資リスク)の高さを抱懐しつつ、特定的な目的の遂行の故に、非日常の状況の渦中に我が身を全人格的に投入すること。

これが、冒険に対する私の定義。

物語は、この冒険の挫折を、観る者に提示することから開かれる。

この冒険の主体は三人。

向う見ずの若いパイロットのマヌー、フォーミュラーカーの新型エンジンの開発に取り組む中年エンジニアのローラン。

若さ故の軽薄さを有するマヌーに対して、地道な仕事の継続力に支えられたローランの性格の相違があっても、実現困難な夢を捨てないメンタリティにおいて、似た者同士の彼らには相互補完的な友情関係が形成されていた。

因みに、「友情」とは、私の定義によると、「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」という構成要件を包含するもの。

冒険行でのマヌー(左)とローラン
これらの要件が、この二人には均衡良く保持されていたのである。

とりわけ、「夢追いの心情的共有」という心理的因子は、二人の男の「友情」の推進力となっていたと言えるだろう。

ところが、この男たちの「友情」に、一人の若い彫金アーティストが闖入(ちんにゅう)して来たことで、その武骨な風景に鮮やかな彩りが添えられるに至る。

その名は、レティシア。

美人の闖入によって形成される関係には、二人の男の「友情」に特段の破綻を招来させることがなかった。


レティシア(左)とローランの出会い①
後述するが、レティシアの距離の取り方がクレバーであったからだ。

そんな三人が、ほぼ同時に、冒険=夢の破綻を経験する。

中でも、若い二人の冒険=夢の挫折には、深傷を負った者の苛酷さがあった。

深傷を負った二人の冒険=夢の挫折。

パイロットのマヌーのケースは、パリのエトワール凱旋門の下を飛行機で潜り抜けるという途方もない挑戦行為が、騙された果ての企画だったことで、パイロットの命であるライセンスを没収されたこと。

彫金の素材を集めるレティシア
また、彫金アーティスト・レティシアのケースは、全身全霊を賭けて生命を吹き込んだ彫金アートの個展への評価が、「個性がない。ありきたりな美学だ」という、アーティストのアイデンティティを深々と侵蝕し、意欲を阻喪させるに足る、これ以上ない酷評を受けたこと。

とりわけ、レティシアにとって、身を置く場所の喪失感というシビアな現実を招来するに至り、それは殆ど致命的な冒険=夢の破綻と言っていい何かであった。

この破綻の中から拾い上げた、途方途轍もない冒険行。

それは、全てを失った若いパイロットのマヌーが、ローランと組んだギャンブルのしくじりによる持ち金の損失を補填するばかりか、呆れるほどに、一攫千金を狙った大博打への冒険行だった。

この冒険行にレティシアが吸収されていったのも、彼女の自我の空洞を補填する内的必然性がもたらしたもの。

かくて、繰り出したコンゴ行き。

コンゴ動乱に紛れて莫大な財宝を手に入れ、脱出を図った富豪の軽飛行機がコンゴの海に墜落したという、マヌーを騙した保険会社員の情報が確度の高いものであると確信したマヌーのイニシアチブによって、そこだけは変わらない3人の「夢追い人」は、極めて恐怖指数の高い冒険行を愉悦するのである。

オーシャンブルーの海で弾ける青春
果敢な「夢追い人」であるという一点において、青春を卒業できない中年エンジニアのローランを含めて、匂い立つ青春の炸裂が、オーシャンブルーのコンゴの海で弾けるのだ。

今でも私は、この辺りの描写だけは、物語の中で最も愛着の深いシークエンスを構成しているが故にか、相当に青臭いノスタルジーを掻き立てるものになっている。

いつの時代でも、「大いなる旅」は、そのプロセスにこそあるからだ。

ここでは、詳細な梗概へのフォローを省く。

この種のヨーロッパ映画の着地点は、ハッピーエンドのハリウッド映画とほぼ確信的に分かれて、大抵、財宝を手に入れたか否かに拘らず、その財宝を狙うギャングたちとの「戦争」の末、「喪失と破綻」がもたらす哀感を余情にして閉じるというパターンに流れ着くから、野暮な解説は不要だろう。

本作もまた、シンプルなタイトル(原題:Les Aventuriers)に収斂される物語の展開をトレースする。

だからこそ、この冒険行のプロセスで表現される三人の生き生きした躍動感こそ、本作の生命線であると言っていい。

初対面で意気投合するマヌーとレティシア
そこでは、ドロドロした三角関係に流れない三人の関係様態が基本的に維持されていて、そこでの情動氾濫の抑制的な出し入れの中で、物語の中枢を支配する「冒険者たち」のエランビタールを、実に新鮮に表現して見せていた。



2  「喪失と破綻」による深傷を負った男の哀感が捕捉されて



映像は、彼らの冒険行の成功をあっさりと描いて見せた。

但し、そこからの展開は、物語の風景を変容させるアクション映画の世界にシフトしていくのだ。

トレジャーハンターたちの財宝の分配
彼らの能力の範疇から完全に逸脱した冒険行によって手に入れた財産は莫大であったが、それが、決して踏み込んではならないダークサイドのノワール気分とは無縁な、未熟なトレジャーハンターたちの冒険行へのペナルティであるかのように、物語は、何ともベタな本物のフィルムノワールの表現世界を包含して、エランビタールで弾ける匂い立つ青春の炸裂との対比を強調していくのである。

このベタなフィルムノワールの展開で、若い二人の命が奪われていった。

流れ弾に当たって、あえなく命を落とすレティシア。

「海に浮かぶ島を買うわ。そこを改装するの。ラ・ロシェル市よ。波の中にいる気分で創作するわ。もう、発表しない」

冒険行の成功を前にして、弾ける青春の炸裂の延長線上に、マヌーに吐露したレティシアの言葉である。

レティシアが夢に描いた「洋上のパラダイス」
彫金アーティストとして、世に出ることへの決定的挫折感を受容したレティシアには、子供の頃から継続する、「洋上のパラダイス」への夢の乗り換えを果たしていたのである。

どこまでも、思春期気分から卒業できない夢追い人」が、極めて恐怖指数の高い冒険行に自己投入する、厄介な獏の如き「冒険者たち」の仲間に同化し、冒険行の成功をあっさりと手に入れたとき、この夢追い人」の夢の賞味期限が切れてしまったという訳だ。

次いで、レティシアが夢に描いた「洋上のパラダイス」が、彼らの財宝を狙うギャングたちとの「戦場」に変容したとき、途方もない夢追い人」の一人であったマヌーが「戦死」するに至った。

ヨーロッパ映画の着地点には、このように、物語の哀感を強調するために何某かのスケープゴートを必要とせざるを得ないのか。

では、物語の哀感を深々と張り付けるためのスケープゴートの、特化された対象人格とは、一体、誰なのか。

言うまでもない。

ラストシーンの俯瞰ショット①
鮮烈なラストシーンの俯瞰ショットで捕捉された、一人の中年男である。

三人の「夢追い人」の中で、フォーミュラーカーの画期的なエンジン開発に一生を賭けてきたローラン以外に、「喪失と破綻」による深傷を負った男の哀感を表現できる者は存在しないからである。

自らが一生を賭けてきたエンジニアとしての人生を放棄してまで、男は密かに愛し、愛された女への追憶のために、異郷の地で、未だ枯渇していない自給熱量をフル稼働させ、夢の乗り換えを決断したのである。

マヌーが運んだヘリの客をもてなす、ホテル兼レストラン」

ローランの新たな夢である。

しかし、人生は甘くない。

件の夢への決定的な乗り換えを決断した、まさにそのとき、ローランは全てを喪うに至った。

「友愛」を結んだ女への贖罪と追憶の旅①
「洋上のパラダイス」への夢の乗り換えを果たしていた女と、ローランの新たな夢に乗り換えようとする男との二つの青春が、物語のスケープゴートの如く、呆気なく散ったあとに残されたのは、「喪失と破綻」による決定的な深傷を負った中年男の夢の残像だった。

映像が若い二人の命を奪ったのは、恐怖指数のマキシマムな冒険行をローランに持ちかけたマヌーの軽佻浮薄さと、その冒険行に悪乗りしたレティシアへのペナルティであったと言えなくもないが、ヘイズ・コードに縛られることも、リーガル・モラリズムに流れることもないフランス映画であるが故に、ここでは、限りなく〈性〉を脱色した三人の関係様態をクリアに描く冒険譚を根柢から支える、二人の男の「友」の物語の着地点に、所帯じみたエピソードをインサートする愚昧さを回避し、最後まで抒情性の濃度の高い、「映画の嘘」のエンターテイメント性を貫流させたかったと読解すべきなのか。

そのことで、最も大切なものを喪った中年男の哀感を、ラストカットの空撮の構図によって、淡々としたヨーロッパ的な括りのうちに表現したかったのか。

一切は不分明であるとしか言いようがない。



3  「男二人+女一人」という、「友愛」のミニ共同体の蠱惑的な相貌性① ―― 「突然炎のごとく」との比較を通して



ここでは、 本作の三人の関係様態の本質に言及したい。

それこそが、私の関心事であるからだ。

元より、この三人の関係様態には、「友情」という概念のうちに包括的に括られる印象が強かった。

フリッツ・ハイダー
自分が良好の関係を保持する特定他者の親友に対しては、自分も好意を持つという、フリッツ・ハイダー(オーストリア出身の米の心理学者)の「バランス理論」を援用すれば、男同士の友情の中に入っていく女性は、異性としての裸形の身体をストレートに投入することのリスクを無視し難いだろう。

前述したように、二人の男が「友情」の推進力となった心理的因子が「夢追いの心情的共有」にあると思えるので、そこに裸形の異性の身体が剥き出しのまま投げ入れられれば、その関係に微妙な歪みを惹起させるに違いない。

これは、同じフランス映画である、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」(1962年制作)と比較すれば瞭然とするだろう。

些か長いが、トリュフォーの放った、抜きん出て蠱惑的(こわくてき)な「大人の映画」について考えてみたい。

「青春期」の映画鑑賞の通過儀礼のような、丸ごとファンタジーの本作との相違点が、より際立つからである。

性格の異なる二人の男同士の継続的な友情関係の中に、ジャンヌ・モロー扮する「女王」(カトリーヌ)が、丸ごと裸形の〈性〉を侵入させることで、この三者の関係は、常に非日常の危うさを含んだ関係様態を晒すに至った。

「女王」と二人の男・「突然炎のごとく」より
「女王」の感覚的な基準によって策定されたラインは、常に、「女王」が築いた「パーソナルスペース」によって恣意的に弄(もてあそ)ばれることで、瞬時にして、行動傾向が動いてしまう頼りなさを持っているから、まるでそれは、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のようであった。

そんな「女王」に翻弄された二人の男(ジム、ジュール)の会話を、少し長いが、ここに引用する。

「彼女をどう思う?」とジュール。
「結婚も育児も成功と思う。少し落ち着いて、勤勉になったようだ」とジム。
「用心したまえ。彼女は家の秩序と調和は保っている。だが、万事が好調過ぎると不満になる。態度や言葉が変って来るのだ」
「彼女もナポレオンなのだ」
「世界は富んでいるから。少しは誤魔化していいと言うのだ。それを前もって、神に赦しを求めている。彼女は僕らを見捨てそうだ」
「まさか!」
「いや、既に彼女は一度捨てたよ。半年間だ。もう、帰らんと思った。また出て来そうな気がする。僕だけの妻ではないのだ。3人も情夫がいたよ・・・僕は必 要ではない。自制が効かない女なのだ。僕は彼女の不貞に慣れっこになっている。だが、出て行かれたくはない・・・僕は彼女を諦めている。人生に期待したことも諦めた」
ジム(左)とジュール(右)「突然炎のごとく」より
「彼女は、君の仏教僧のような面を愛しているよ」
「彼女はいつも優しく寛大だが、自分の真価を認められないと思うと、恐ろしい女になり、突然に発作を起こし、極端から極端に走る」

 それでもジュールは、自分の子供まで儲けた「女王」の甘美な支配から脱却する意志を持たなかった。

 それは、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いだ男の宿命だった。

そんな「女王」が、婚約者のいるジムを支配しようとする。

「僕らは絶対にうまくいかない。僕らの友情でも苦しい。時には、僕は君を嫉妬し、僕は嫉妬しない君を憎む」

精神的に追い詰められたジムの言葉である。

「女王」から執拗に「呼び出し」を受けた結果、「女王」の元に戻って来たジムは、「君と結婚する希望はない」と言い放ったことで、当然の如く、「女王」の憤怒を買った。

「突然炎のごとく」より
「女王」にとって、自分で策定した「パーソナルスペース」の範疇に、予約されたかの如く深く入り込んでいたジムとの関係を、相手の恣意的な行為によって相対化されることに厭悪し、その「我儘」を破砕するという、常識的には考えられない行動に打って出たのである。

如何にも映画的なラストシークエンスの中で、「女王」から離れようとして、もう離れられないジムは、「女王」の運転する車の暴走の果てに自壊し去ったのだ。

壊れた橋から転落する車の中に、かつて、瞬間的に燃え上がった男と女がいた。

「女王」の覚悟のドライブは死出の旅となったのである。

以上が、「突然炎のごとく」の中で展開された、「男二人+女一人」の関係様態の赤裸々な相貌だった。

ハイダーの言う格好の最適なバランス関係が、「女王」の放つフェロモンの劇薬によって自壊するという物語の結末は、殆ど心理学的問題提示を孕んでいたと言えるだろう。

フランソワ・トリュフォー監督
まさに、思春期の通過儀礼に成り得ない「大人の映画」が、そこにあった。

ここで、本作に戻ろう。

思うに、「友愛」と「性愛」の決定的相違点は、〈性〉の出し入れが、その関係を壊すに足るほどに露呈されているかという一点にある。

〈性〉の出し入れによって、嫉妬感や独占感情が生まれるのは必至である。

そのことを思うとき、本作の三者の関係様態は、「バランス理論」に即した良好度の高い構築性を作り出していた。

 原理的に言えば、こういうことだろう。

「バランス理論」を援用すれば、即ち、「男―1」,「男―2」、「女―3」という3者の関係において、そこで形成される3通りの関係が、「友愛」を決定的に逸脱することがない限りにおいて良好であれば、3通りの関係の積が正になる(正×正×正=正)ので、そのバランス状態には特段の問題を惹起させることがないのである。

これは、「夢追いの心情的共有」によって堅固な「友愛」の関係を継続的に立ち上げていた、二人の個性豊かな男たちに対する、レティシアのクレバーな距離の取り方によって形成された関係様態であることを認知せねばならない。

彼女は〈性〉を捨てたのではない。

〈性〉を上手に隠し込んで、自らを中性化したのである。

中性化することによって、「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体が仮構されたのである。

だから本作には、〈性〉に関する描写は一切捨てられていた。

彫金アートに取り組むレティシア
中性化された女の〈性〉が、上手に隠し込まれていたからである。

しかし、この「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体が、微妙に変容していく。

トレジャーハンターの呆気ない成就という、過分なビギナーズラックによって微妙に変容していくのである。

以下、稿を変えて言及していく。



4  「男二人+女一人」という「友愛」のミニ共同体の蠱惑的な相貌性②



いとも簡単にトレジャーを手に入れたことから開かれた世界は、まさに「夢を具現する能力」が、その具現した夢を日常性に繋げていく能力の検証にまで及ぶに至る。

〈性〉を上手に隠し込んで、自らを中性化していくことで、「男二人+女一人」という、「友愛」のミニ共同体の仮構を継続させていたレティシアの中で、自らを中性化していく行為のフラットな延長に微妙な誤差が生じてくるのだ。

その契機は、トレジャーを手に入れる可能性が高まってきたことで、殆ど同年代と思える若いマヌーから、実質的なプロポーズを受けたこと。

 「海に浮かぶ島を買うわ。そこを改装するの。ラ・ロシェル市よ」
 
 前述したように、これがレティシアの夢の内実だった。

この言葉を耳にしたマヌーは、魚釣りするレティシアの背後から、自らの腕を回して抱え込み、言葉を返す。

「大きな家に一人かい?きっと寂しいよ。君の島は素敵そうだ。一緒にどう?嫌かい?」

一瞬、嫌悪感を露わにしたレティシアは、その表情を悟られまいとして、ゆっくり答えた。

「勿論、二人とも大歓迎よ」

唐突なマヌーの実質的なプロポーズに、レティシアは、さりげなぐ躱(かわ)すのだ。

それは、「友愛」のミニ共同体を壊すまいとするレティシアの配慮というよりも、自らの反応の意味をマヌーが理解し、受容してくれることによって、もう、二度とプロポーズさせまいとする彼女の堅固な意志が結ばれた表現だったと言える。

以後、マヌーの行動様態から、この類の反応が消えていった事実は、この短い会話が内包するインパクトを検証するものだった。

一切は、このエピソードから開かれていく。

 まもなく、一人当り一億フラン以上の財宝を手に入れたトレジャーハンターが、嬉々として財宝を分配していく。

レティシアが、ローランに愛の告白をしたのは、財宝を手に入れた面々(ここでは、「夢の案内人」となった失踪したパイロットも加わっていた)が、落ち着きを取り戻した直後だった。

その辺りを再現してみる。

「残念だが、都会には住めない」とレティシア。
「帰ったら、アトリエを買うのかい?」とローラン。

この後の、レティシアの言葉には、明らかに真実味がこもっていた。

「いいえ、あなたと暮すわ」

唐突なレティシアの告白に、ローランは一瞬、反応する言葉を失った。

「俺と?だが・・・マヌーは?」

適切な言葉を返せない中年男の心の動揺が、映像の中で明瞭に映し出されたのだ。

「だが・・・マヌーは?」という言葉の中に、既に、レティシアのプロポーズを受容する中年男の思いが包含されている。

しかし、そこに僅かの「間」が生まれていた。

「友愛」のミニ共同体を延長させてきた、「男二人+女一人」という特殊な関係の中に、沈黙のカットを、映像は初めて映し出して見せたのである。

しかし、「男一人⇔女一人」という睦みの関係の継続力は、瞬時の時間の悪戯でしかなかった。

その直後に、「臨検」という名のギャング団の襲撃によって、〈性〉を闖入させた二人の関係の進展は、レティシアの死という、あってはならない事態の惹起の内に呆気なく崩れ去ったからである。

ここで、考えてみたい。

〈性〉を上手に隠し込んで、自らを中性化していくことで、「男二人+女一人」という、「友愛」のミニ共同体の仮構を延長させていた三人の関係様態が、美女の放つフェロモンの芳しさを初めから脱色させることによって保持される、関係のバランスという虚構の世界を保証していたのは疑う余地がないだろう。

確かに、「男二人+女一人」という、「友愛」のミニ共同体を仮構するのは非現実的なものではない。

大体、「男と女の友情はあり得ない」という決めつけこそ愚昧な把握であることは、人生経験を経ていれば常識的ですらあるだろう。

然るに、本作の「男二人+女一人」という関係様態は、この種の常識の枠内で処理できない空気感があった。

それは単に、レティシアが、男の眼を引くに足る希有な美女であるという理由からではない。

レティシアローランの出会い②
彼女が〈性〉を上手に隠し込んで、自らを中性化していくことで、「男二人+女一人」という、「友愛」のミニ共同体の中枢のうちに、その圧倒的な存在感を表現している印象を感受させる現象それ自身が、充分に異性の臭気を放つ魅力を撒いていたのである。

それは、彫金アーティストとして、世に出る期待を込めて、自費で工面した華やかな個展を開催し、そこで〈性〉を不必要に隠し込まない、着飾った出で立ちを自己顕示している姿形を、ローランとマヌーが視界に収め、彼女へのアプローチに逡巡して、早々と退散したエピソードを想起すれば瞭然とするだろう。

ローランとマヌーは、そこで、〈性〉を不必要に隠し込まない一人の、魅力的な美女の存在を視認してしまったのだ。

二人の男の中で捕捉された、レティシアに対する二つの異なった情報。

それが、レティシアへの彼らのアプローチの敷居を高くしてしまったものと言っていい。

今まさに、彼らの視界に捕捉されたレティシアに関わる情報の中枢には、新進の彫金アーティストとして成功を収めるであろう、一人の蠱惑的な異性身体が立ち塞がっていて、それが、途方もない冒険に明け暮れる男たちの日常性の色彩をくすんだものにしてしまったのだろう。

まもなく、事態は急変する。

彼らの元に舞い戻って来たレティシアの、その固有の身体性から発色していたものの内実は、〈性〉を脱色することで中性化していた昔馴染みの情報の温もりだった。

彫金アーティストとしての挫折に、悄然とするレティシア。

彼女の身体から表現される情念系は、既に、二人の男がシフトしていた、途方もなく加速的な冒険行への、身を埋めるような自己投入を求める熱量だけが共振したのだ。

「友愛」を結んだ女への贖罪と追憶の旅②
この時点で、「男二人+女一人」という特殊な「友愛」のミニ共同体は、もうそれ以外に身の置き場のない、恐怖指数のマキシマムな、赤道直下への冒険行に雪崩れ込んでいくに至ったのである。

三人の未熟なトレジャーハンターが形成する「友愛」の肝には、二人の男がそうであったような、「夢追いの心情的共有」のうちに分かちがたく結ばれていたのである。

彫金アーティストとして、世に出ることへの決定的挫折感を受容したレティシアは、もう、そこにはいない。

そこにいるのは、三人の未熟なトレジャーハンターが、彼らの「夢の案内人」となった失踪したパイロットの手引きによって億万長者に化けた「夢追い」の、その裸形の人格像だった。

その裸形の人格像から、まず、今や〈性〉を不必要に隠し込まないレティシアへの、マヌープロポーズが放たれた。

一度露わにされた裸形の人格像は、敢えて中性化することで隠し込んでいた〈性〉を、継続的に封印する必要のない、圧倒的な解放感の全面展開の時間を作り出していくのだ。

未知のゾーンを開いたこの時間の渦中で、レティシアはローランに愛の告白をしたのである。

恐らく、海に浮かぶ島を改装した、世俗と切れた「全身アート」の静謐な世界を求めるレティシアが、相当程度、軽佻浮薄なマヌーより、本気で、エンジニアとしての大望に向かって地道な努力を重ねるローランの人格像に強く惹かれたのだろう。

幻想の冒険行
そして、ヨーロッパ的な哀感溢れるシークエンスに流れ着く、児戯性含みの「青春」の呆気ない「昇天の美学」による括り。

夢を喰い過ぎて繋いで来た「青春」を、「映画の嘘」をフル稼働させたような、「昇天の美学」の気障なカットの連射で消えてもらい、そこには、最も大切なものを失った中年男の哀感を、俯瞰ショットでさりげなく映し出したのである。



5  「大いなる思春期・青春期」の通過儀礼の如き、肥大し切った夢を自己完結し得ないロマンティシズムの芳香 ―― まとめとして



 ここで、改めて考えてみる。

ローランとマヌーの二人が、レティシアの故郷を訪ね、そこで、彼らなりの贖罪を果たす。

彼女の甥にあたる少年に彼女の取り分を委ね、少年が成人になるまで、公証役場に出向いて少年の財産保護を委譲する。

レティシアの甥にあたる少年との出会いは偶然だが、この行為のプロセスは、ローランとマヌーの旅の本来的目的の範疇を決して逸脱するものではない。

ところが、少年に案内された、海に浮かぶ要塞の島に踏み込むに及んで、ローランとマヌーの心は子供時代に退行したかのように、束の間、ノスタルジーの世界に遊弋(ゆうよく)し、身体疾駆する。

レティシア水葬
身体疾駆するマヌーの脳裏に、水葬に付し、赤道直下の海底に眠るレティシアの夢の語りがボイスオーバーする。

しかし、「贖罪の旅」を「追憶の旅」に変換させるには、マヌーは若過ぎた。

レティシアへの思いが虚空に舞ってしまった彼には、未だ「戻るべき場所」が確保されていたのである。

「パイロットの冒険野郎」という自己像を捨て切れない彼には、その自己像を繋ぐ大都市への生還以外に選択肢がないと確信しているようだった。

愛する女への「追憶の旅」を捨て切れないローランと別れて、単身、自分自身が最も住むに相応しいと考えている大都市パリに帰還する。

ところが、富豪に化けたマヌーにとって、大都市パリでの生活には、物理的に満たされるものがあるだけで、彼の自我の隙間の空洞感は却って肥大するばかりだった。

痛切なまでに孤独を感受し、なお虚空に舞うが、寄る辺なき思いを収斂できないでいるのだ。

「夢追いの心情的共有」の真の価値を実感した若者には、もう、自らの心を預け入れる場所は一つしかなかった。

誘(いざな)わられるように、自らの心を預け入れた海に浮かぶ要塞の島。

そこには、前述したように、「マヌーが運んだヘリの客をもてなす、ホテル兼レストラン」という、奇抜な夢を語るローランがいる。

意気投合する二人の男。

「夢追いの心情的共有」は、相当の継続力を持ち得ているのだ。

しかし、ベタなフィルムノワールの表現世界は延長されていたのである。

「夢追いの心情的共有」の最終到達点で、儚く命を落とすマヌーに寄り添うローラン。

虫の息のマヌーに、ローランは語りかける。

 「マヌー。レティシアは言ったぞ。お前と暮らすって」

 微かな笑みを湛えて、その一言を絞り出すための、バイタルサインの最後の欠片を、マヌーは吐き出した。

「この嘘つきめ」

血塗られた手で頭を抱え込むローラン。

言葉など、吐き出しようがないのだ。

ラストシーンの俯瞰ショット②
空撮の俯瞰ショットがローランを捉え、海に浮かぶ要塞の島を点景にして捉え、叙情的なBGMのうちに閉じていく映像の余韻は深く、スケープゴートなしに終焉し切れない、そこだけが特化された「夢追い人たち」の物語は、総括的に言えば、「非在のレティシア」の存在によって支えられた映画という強烈な印象だけを置き土産にして、中年男の哀感をフィルムに焼き付けていったのである。

結局、彼らは敵を仮構することによって、初めて成立する要塞を「極上のパラダイス」に変えることができなかったのだ。

ローランもまた、泡銭のような財宝を、「フォーミュラーカーの新型エンジンの開発」という自分の本来の夢に繋げることがなかった。

それは、レティシアの少女趣味の如き夢とは、その風景観において乖離するが、レティシアの夢を知らないローランには、レティシアの甥の少年の夢が、彼女の夢と重なったのだろう。

パイロットのマヌーの援助によって形成されるローランの、その肥大化した夢のイメージもまた、一貫して「非在のレティシア」の存在が支え切っているのだ。

しかし、所詮、それは「幻想のパラダイス」。

彼らは夢を追い駆ける能力だけは、はち切れんばかりに持っていたが、しかし、簡単に具現しそうもない夢がリアルに自分の時間の只中に立ち現われたとき、彼らは立ち現われた夢を堅固な日常性に繋いでいく能力を欠いていたのである。

ロベール・アンリコ監督
それは、どこまでも「幻想のパラダイス」を追い求める者たちが欲望の稜線を伸ばし切った挙句、命まで賭けて肥大し切った夢を自己完結し得ないロマンティシズムに弄(もてあそ)ばれた一篇だった。

それを、包括的に難しく括ると、こういうことだろう。

そこにドロドロした情動が暴れている内的風景が推進力となって、「甘美な死のロマン」とか、「怖れの感覚を希釈化させるに足る稚拙な状況認知能力」というような、非現実的な観念系の世界のうちに、半ば本気でじゃれ合うことが許容されると、甘え含みで信じる特殊な自我形成行程、即ち、自己抑制が困難な「大いなる思春期・青春期」の、ごく普通のサイズの氾濫の噴き上げの中で、恐らく、脳幹を構成する中脳の視覚が刺激的に捕捉する感傷過多な時間が、どうしても拾い上げてしまう類のカルチャーの訴求力によって誘(いざな)われる通過儀礼の如き一篇 ―― それが「冒険者たち」だった。
 
(2012年8月)

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