気迫の映像に絶句する。
前作の「ファーザー」同様、秀逸な構成力と抜きん出た映像構築力。
人間の心の病へのケアの難しさを、ここまで精緻に描き切った傑作に言葉を紡げない。
観る者の心を抉(えぐ)ってくるのだ。
ヒュー・ジャックマン、完璧な表現力だった。
1 「…お前が傷つくと、私も傷つくんだ」「父さんは母さんを傷つけ、僕も傷つけた
ニューヨークの一流弁護士のピーターは、妻のベスと産まれたばかりの息子セオと仲睦まじく暮らしている。
そこに突然、元妻のケイトが息子ニコラスの不登校の相談に訪れた。
「ニコラスがひと月近く登校してない…それだけじゃない。様子が変なの。ニコラスと話してあげて。父親が必要なのよ。ピーター、あの子を見捨てないで」
ピーター(右)とケイト |
「見捨てるだと?またそう言うのか」
「分かった。聞いて。この前、あの子に頼んだの。確か、お皿を下げてとか。そしたら、あの子、私を見る目が…憎しみに満ちてた。まるで私を…あの子が怖いの」
「分かったよ。明日会いに行く。仕事終わりに寄ろう」
ベス(右) |
翌日、仕事を終えピーターは、ニコラスを訪ねた。
「お前がつらくて、私に怒るのは分かるが、話すくらい、いいだろう。なぜ学校に行かない?」
「分からない」
「分からない?学校に行かない選択肢はない…問題が?なぜ、溜息を?」
「理由はない」
「あるはずだ。言ってみろ」
「話したくない」
ニコラスは立ち上がり、自分の部屋へ行った。
「黙ってたら手を貸せない。毎日、何をしてどこへ行ってた?」
「歩いてた」
「歩いてた?一人でか…大学の適性試験が始まるんだぞ。退学の可能性もある」
ピーターはニコラスの横に座り、肩に手を置く。
「母さんは、もう限界だ。全寮制がいいのか?」
「嫌だ」
「何とかしろ。このままじゃダメだ」
「僕には何もできない」
学校に問題があるのかなどと問い詰めるが、ニコラスは答えられない。
「…うまく言えない」
「自分の言葉でいい」
「人生だよ。潰されそうだ…変えたいけど、何か分からない」
ニコラス |
涙ながらに吐露するニコラス。
「だから、たまに考えるんだ。できれば…父さんといたい…母さんとうまくいかない。母さんには無理だ。ここにいると、悪いことばかり考える。弟と暮らしたい」
「それは…」
「寮なんて気が変になる…僕は本気だ。頭が爆発しそうだ…たまに頭がおかしくなりそうなんだ」
「バカな」
「本当だよ。自分でもわけが分からない」
ピーターはニコラスを抱き締めた。
「大丈夫だ。何とかしよう。任せろ」
家に帰ったピーターは、ベスにニコラスとの同居について話し合う。
ベスの反応は否定的で、ピーターはニコラスへの思いをぶつけた。
「傷痕だ。腕にあった。ショックだった。大事な息子だ。君の言うとおりだ。罪悪感がある。無関係のふりはできない。出て行ったのは私だ」
「彼の不調の責任はない。難しい時期にいるのよ」
「だが他に手はない。放っておけない」
「分かったわ。いいのよ。分かったから」
ニコラスは荷物をまとめ、ケイトに別れを告げ、ピーターの家にやって来た。
「来てくれてよかった。一緒に過ごせる」
「ベスは僕が来ても平気なの?」
「もちろん彼女も喜んでる。ここはお前の家だ」
ニコラスは新しい学校に転入したが、授業中に不安な表情に襲われる。
ピーターは上院議員の選挙活動の新たな仕事で忙しくなる中、ニコラスが心配になり電話をするが返事はない。
翌朝、ニコラスを起こそうと何度も声をかけても返事がなく、ベスは苛立つ。
突然、部屋から出て来たニコラスは、ソファで下を向いて辛そうにするので、ベスが優しく手を掛けるが、それを振り払い立ち上がる。
振り返ったニコラスがベスに質問する。
「父さんは既婚者だった。知ってた?」
「ええ。でも彼に言われたの」
「何て?」
「お父さんと話して」
「母さんは、父さんが家を出てから、ものすごく苦しんだ。父さんをののしり続けたけど、僕はずっと父さんを尊敬してた。体が2つに引き裂かれるようだった」
「分かるわ。難しい状況だった」
「やめなかったね」
「何を?」
「父さんに妻子がいても、あなたはやめなかった」
「何て言ってほしいの?」
「何も。くだらない話だね」
「いいえ」
「行かなきゃ。またね」
ニコラスはピーターが依頼したセラピストの診療を受ける。
「同世代と合わないと言ってたね」
「みんなバカみたいだ。パーティーとか遊ぶことだけ。僕は興味ない」
「何に興味が?」
ニコラスはその質問に鼻で笑う。
「今の年齢が嫌いか?」
「いや、そうじゃなくて…」
ケイトはニコラスに会いたいとメッセージを送るが返事がなく、心配になってピーターに会って様子を聞くことにになった。
「あの悲壮感は何が原因なの?」
「ティーンエージャーだぞ。幸せいっぱいだと思うか?」
「でも、あの子は、他の子たちと違う」
「何を根拠に?」
「特には…」
「愛に失望したんだろう」
ベスの様子を聞かれたピーターは、最初は戸惑ったようだが慣れてきたと答える。
「あの子は彼女を困らせてない?」
「いや、いい子だ。努力してる。弟がかわいいようだ」
「よかった」
「ああ、きっとうまくいく…君を傷つける気はなかった」
見る見るうちにケイトの表情が曇っていく。
「私は母親失格よね…息子が家を出ると思わなかった。息子まで…あなたの元へ」
「あいつに頼られるとは意外だった」
「私のせいよ…私と住みたがらないし、電話にすら出ない」
「落ち着け。時間が必要なだけだ」
ケイトはコルシカ島へ家族で行った時の、幼いニコラスの写真を見せる。
「あの子に泳ぎを教えたわね。あの子の顔…すごくおおらかで日の光のようだった。私の小さな太陽…今思うと、あの頃の私たち家族は、輝いてたわ。何が起きたの?あの子を愛してた。あなたも。あなたを愛してた。どれだけ愛してたか」
「感情的になるな。君は立派な母親だ。息子の苦しみは君のせいじゃない。きっと、すぐに元の生活に戻れる。必ず戻る。信じてくれ」
ニコラスは数学でAを取り、パーティーにも呼ばれ、少しずつ新しい生活に慣れてきたことにピーターは安堵し、ジャケットを買いに連れ出す。
試着したニコラスは笑顔を見せる。
そのジャケットを着てパーティーに行くように言うと、ニコラスは踊れないので行かないと話すので、家に帰ってピーターはニコラスにダンスを教える。
その姿が可笑しくてニコラスは大笑いし、ピーターを真似して一緒に踊り、ベスも加わって溌剌とした笑顔でダンスに興じるのだ。
しかし、最後には浮かない表情のニコラスだった。
ベスに対する違和感を感受したからである。
ジョギング中にベスから連絡を受け、家に戻ったピーターは、ニコラスがベッドの下に隠していたナイフを確認する。
それをニコラスに問い質すと、「念のために置いておいた」と返答。
ピーターは腕を見せろと命じ、嫌がるニコラスを捕まえて袖を捲(めく)る。
「なぜなんだ?自分を傷つけるのはやめろ」
詰め寄るピーター。
「逆だ。和らぐんだ…痛いと、その時は、苦痛を実感できる」
「何の苦痛だ?どんな苦痛を言ってる?…もうやらないでくれ。今後は一切禁止だぞ。いいか?」
「はい…ベスが見つけた?」
「…荒れたベッドを整えたんだ」
「…護身用のつもりだった」
「何から身を守る?まったく道理が通らない」
「父さんも銃を…洗濯機の後ろに銃がある」
ピーターはだいぶ前に、狩り好きの父から贈られたものだと説明する。
「狩りも道具も大嫌いだ…お前の気持ちが分からない」
「だよね」
「…お前が傷つくと、私も傷つくんだ」
「父さんは母さんを傷つけ、僕も傷つけた」
そう言って、ニコラスは部屋に戻った。
ピーターは会議中も全く上の空で、仕事に身が入らない。
ピーターは、DCに住む父を訪ね、予備選に立候補する議員の選挙戦の手伝いを頼まれたが、チームに参加するかどうかを迷っているという話をする。
「時期が悪い。ニコラスは難しい年頃だ。17歳になった。うちに来てマシになったが、まだ危うい。だから、あまり離れるのは…」
その話を聞いた父親は、笑い出す。
「自分はいい父親だと言いに来たか。明らかだ。私より倫理観が優れていると示したいんだろ。息子のために野心を捨てると見せつけに来た。私と逆だとな」
「違います」
「まだ固執してるのか。私を責めるが、40年も前のことだぞ…いいかげん成長したらどうだ。情けないぞ。50歳の男が、10代の過去に引きずられてる。助言してやろう、ピーター。さっさと乗り越えろ。まったく」
ピーターの父 |
久々の外出でベスがドレスを着て、イヤリングを探しているがどこにも見つからず、ニコラスに見なかったかと訊ねる。
「人生を楽しみたきゃ、子供は要らない」
ベスはルージュを塗りながら思わず口にした言葉を、「冗談よ」と否定するがニコラスは真に受ける。
そこに、ピーターがベビーシッターが来られないと連絡が入ったと言い、ベスは「やっと出かけられるのに」と嘆くのを見て、ニコラスが「僕が見ようか?」と申し出る。
「いえ、その気持ちは本当にうれしいけど…」
「いいのか?フランクにキャンセルを」
ニコラスは「じゃあいい」と部屋に戻る。
ピーターはニコラスの親切を断ったことに対し、ベスに不満をぶつけた。
「何だ?君はいつも悪いほうばかり見る」
「悪い面をまるで見ないよりマシよ」
「悪い面?言ってみろ」
「ニコラスはうつで不安定だし、悪いけど、息子をあんな…」
「何だ?セオを預けない理由を言え」
「彼は気味が悪いのよ。あの視線はゾッとする。認めてよ。彼は頭がおかしい」
そこにニコラスが立って話を聞いていた。
慌てたピーターは、お前とは関係ないと誤魔化すが、ニコラスはベスに近づき、廊下に落ちていたと、イヤリングを渡すのである。
不穏な空気が収まらないのだ。
2 「つらくても傷ついても人生は続くの」「続かない。続くわけがない」
ニコラスはケイトの家に戻った。
「お父さんは順調だと言ってた」
「そう願ってた。でも僕の居場所はない。あの家では僕は邪魔者でしかないし、重圧がキツいんだ」
「お父さんの?」
「気づいてないけど、学校の話ばかりするんだ。人生のすべてみたいに」
「あなたが心配なのよ」
「本当の僕より、成功が大事なんだ…期待に応えられない」
「お父さんは、あなたの幸せを願ってる。あなたを愛し、信じてるわ。2人は違う人間なだけ」
「それだけじゃない。僕は何かおかしい…僕は他の人たちと違う。たまに、この人生が重すぎる…それでも毎日力を振り絞ってやってる。でも、それにも向き合えない。だって苦しんだ。ずっとそうだよ。それに疲れた。苦しむのに疲れた」
「母さんがいる。ここよ。どこにも行かない。私が乗り越えさせる。約束するわ。泣かないで。私の太陽。大丈夫」
仕事中、ベスからニコラスを公園で見たと連絡があり、家に帰ってニコラスを問い詰める。
ニコラスは新しい学校へ初日だけ行って、それ以来一度も登校していなかったと校長から聞かされたピーターは、厳しく叱責する。
学校に行かなくなるニコラス |
「ずっと何をしてた?散歩してたのか。立ち直る機会を与えたのに、何してる?前と同じじゃないか。ただのウソつきだ。説明しろ」
ニコラスは落ち着きなく貧乏ゆすりをし、爪を噛み、何も答えられない。
「お手上げだ。正直に言って分からない。お前の話を聞き、そばにいようとした。強さと自信を与えようと努めたのに。気の向くまま、生きていけると思うか?学校を出て、責任を避けて、成長を拒むのか?どう生きるんだ。お前はどうなる?答えられないか」
ニコラスは何も答えず、ピーターを見つめ、目で訴える。
「私をにらむな。父親を威嚇する気か?そんなことはムダだ。私には通用しない。いいか、はっきり言っておく。明日から、行きたくなくても学校に戻れ。いいな」
「嫌だ。学校には戻らない」
ニコラスは立ち上がり、明言した。
「どうしたいんだ?私の母は病気だった。父親が帰らず、私は金に困った。だが闘った。いつも必死だった。何がそんなに大変で、他の子のように登校できない。答えろ!」
ニコラスは部屋に戻りかけ、振り返り叫んだ。
「できないんだ!」
「何ができないんだ」
「生きることだよ。父さんのせいだ!…胸糞が悪い。偉そうに人生や仕事を語って、僕らを簡単に見捨てた」
「何だと?」
「正論を振りかざすけど、最初からただのクズだ!」
「今のは取り消せ。いいか、すぐに取り消せ」
「クズ野郎!」
「クズだと?この私が?お前のために尽くし、何年も結婚を続けた。それなのに、なぜだ?教えてくれ」
興奮したピーターはニコラスの腕を掴み、大声で問い詰める。
「他の女を愛したのが罪か?関係ないだろ。私にも権利がある!私の人生だぞ。私のだ!」
ニコラスは倒れ、怯(おび)えた表情でピーターを見上げる。
「すまない。我を忘れた」
ニコラスは部屋に逃げ込む。
直後、ニコラスがバスルームで自殺を計り、ベスに発見され、直ちに病院へ搬送された。
職場から駆けつけたピーターとケイト。
「申し訳ない。あいつの力になりたかった。それなのに、こんな…」
処置室から出てきた医師から、処置が早く、傷も深くないので安心するようにと説明を受ける。
「イラ立ってるようですが、よくある状態です。私どもは慣れていますし、ニコラスを観察すべきだと考えています。病棟に空きがあります。何をしたか、彼に理解してほしいんです。本人が問題を軽視する間は油断できません。繰り返させたくない」
仕事でニューヨークを離れる予定をキャンセルし、オフィスで悶々としているピーターに、ケイトから電話が入り、主治医からの伝言で、ニコラスへの面会を数日間控えるように言われる。
「あの子は離婚のことをよく話すらしいの。あなたの新しい生活や私たちが険悪だったことも…」
「面会を禁じるなんて」
昨晩のベスと喧嘩したピーターは謝り、セオを連れ実家へ帰るベスから、一緒に来れないかと誘われるが、ニコラスが入院中なので無理だと断る。
「自分の嫌いな役を、全力でやるのは悲しい。この数週間ずっと、若い頃、父に言われた言葉を言い続けてきた。父を憎むようになった言葉だ。今度は私の番だ。まったく、これじゃ、父と同じじゃないか…自分が情けなさすぎて」
出かけるベスに、ピーターは改めて謝罪する。
「もう、あんなケンカをしたくない。この数週間は…」
「分かってる」
「分かってない。あなたは外に出て、ずっと働いてた。私はここで独り。そうよ、ずっと独りでいたから、すごく疲れたの。それに…セオも息子よ。父親が要る」
「ベス、頼む。もうやめよう」
「分かった」
ピーターはセオを抱き上げ、優しく語りかけ慈しむ。
月曜日になり、ピーターとケイトはニコラスと面会する。
ニコラスは「会いたかった」とケイトに走って抱きつき、ピーターともハグする。
セラピストが5分だけと部屋を出るや、ニコラスは「早く出して」と猛烈に訴えてくる。
「…僕を薬漬けにしている。病人扱いだ…家に連れて帰ってよ。お願いだ」
担当医が入って来て、ニコラスの病状を説明する。
「ニコラスは急性うつ病です。入院を続けたほうが安全でしょう」
「よくなった。家のほうがいい」とニコラスが激しく貧乏ゆすりをしながら口を挟んでくる。
「そう信じるのは分かるが、私の経験では…」
ニコラスは立ち上がり、「何が分かるんだ!このバカは分かってない」と担当医を罵倒するので、ピーターとケイトが、ニコラスを落ち着かせる。
「自殺衝動は、見極めが非常に難しい。患者自身にも分からないが、あるのは確かです。再び起こる可能性が極めて高い、まだニコラスは、現実との隔たりを感じ、あらゆる不安にさいなまれている。これは治療できます。まず彼の精神を安定させ、それから退院の見通しを立てたい」
「いつですか?」
「ママ」
「聞いただけ」
「医療チームのケアだ。医師と療法士と指導者…」
「陶芸で治せるのか?…僕より病んでる連中といて治ると思う?ずっと考えてたんだ。人生について。することがないから。よく分かったよ。もう繰り返さない。電気ショックを受けてるようだ…もう普通の生活に戻れる。学校にも戻れる気がする。信じてよ。ここから出してくれなきゃ、僕はダメになる…父さん、分かるよね…ここの連中には分からない。頼むよ、父さん。僕を見捨てないで」
「息子を退院させる方法は?」
「未成年の権限は保護者にある。あなた方の決断次第です。ですが、私の言うことを聞いてください。彼は退院できる状態じゃない。保護者のサインで退院できるが、医師としてリスクを警告する…ご両親の役目じゃなく、精神科医の仕事です」
ニコラスは「チャンスが欲しい」と必死に退院を両親に訴える。
「僕の苦しみを分かってほしいんだ。もう絶対にしない。誓うよ」
「ご両親は分かってる。ご決断を聞かせてください」
「今?」
「ええ。医療チームへの指示を彼に理解してもらいたい。罪悪感は要りません。愛情の問題じゃない。彼を守るためです。このような状況で、愛は力不足です。愛だけでは治せない」
ケイトとピーターは顔を見合わせ、答えに窮し、ニコラスは涙ながらに救出を訴える。
「父さん、連れて帰って」
ピーターも涙ながらに返答する。
「すまない、ニコラス」
「ウソだ!なんでたよ、信じてたのに!」
激しく動揺し暴れるニコラスをスタッフが抑え、部屋から連れ出す。
病院から出ようとしたところで、ピーターは立ち止まった。
そして、ケイトとピーターは書類にサインし、ニコラスを連れて帰る。
ほっとした様子のニコラスは、家に着いてキッチンで二人にお茶を沸かす。
「正しい決断だったのかしら」
「息子の言葉を信じるしかない。数日で改善しなきゃ、入院させよう。今は親と家にいるほうがいい」
この先、登校は回復を待ってからで、当面、日中一人にしておけないので、本人が良ければケイトの家に住まわせ、ピーターの職場でインターンをさせるなど、二人は今後について話し合う。
「予備選の誘いは断る。政治など、どうでもいい。大切なことに集中したい。今は、ここにいることだ。ニコラスのために」
ピーターがお茶を運んで来て、二人に振る舞い、気分を聞かれたニコラスは「一緒に過ごせて嬉しい」と答える。
ケイトが映画に行こうと提案し、ニコラスは前にシャワーを浴びたいと言う。
「病院のは汚くてさ。シャワーを浴びてないんだ。一週間も」
両親の笑顔を前に、「いい光景だ。久しぶりだね。つまり、3人一緒にいるのが…昔みたいだ」と心情を吐露する。
シャワーに入ると立ち上がったニコラスは、両親の方を振り返る。
「今までのこと、本当にごめんなさい。2人とも悪くないのに。許してほしい。これだけは言わせて。愛してる」
「私たちもだ…行ってこい。待ってる」
ケイトは映画にピーターを誘い、昔、二人で観に行った時の話をする。
その時、一発の銃声音がした。
猟銃の引き金を引いたのである。
慌てて浴室へ駆けつけた二人は、必死にニコラスに呼びかける。
「ママを見て!目を閉じないで、お願い、目を開けて…」
ここで、現実と過去が錯綜してゆく。
海を怖がる幼いニコラスの手を持ち、泳ぎを教えるピーター。
「そうだ。自分を信じろ。息を吸って、その調子だ」
ピーターは手を放し、ニコラスは必死に自分の力で泳ぎ始める。
「パパ、泳いでるよ!」
「やったな!」
ピーターはニコラスを抱き上げる。
「いい子だ。すごいぞ!誇らしいよ。ああ、泳げたな!」
コルシカ島でのニコラスとの思い出を想念していたピーターは我に返り、ベスに「大丈夫?」と声をかけられる。
来客の準備をピーターに任せ、ベスはセオを風呂に入れるため部屋から出ていった。
玄関のチャイムが鳴り、ピーターがドアを開けると、ニコラスが立っていた。
「中に入れ。彼女は?」
「母親のところに寄ってる」
ニコラスは大学生でトロントに住んでおり、彼女のレナと暮らすとピーターに報告する。
「おめでとう。朗報だ」
「早く紹介したい」
ニコラスはピーターにプレゼントがあると言い、カバンの中から“「死は待てる」ニコラス・ミラー作”と表紙に書かれた一冊の本を手渡した。
「僕のデビュー作だ…まず父さんに渡したかった」
「死は待てる…すごいな。発売は?」
「2か月後。中を見てよ。父さんへの謝辞がある」
ページを捲(めく)ると、“父へ 僕にしてくれたすべてに”と記されていた。
「…父さんたちの苦労の日々だ。でも、いい結末に。それに、最初に渡したかったのは…父さんがいなきゃ、今頃、僕は…」
「誇らしいよ。やったな。お前が誇らしい」
ピーターはニコラスを強くハグする。
「セオをハグしに行っていい?」
「もちろん。セオは兄貴の話ばかりだ」
ニコラスは振り返り、柔和な笑みを湛え、ピーターを見つめる。
ピーターもまた、ニコラスのほうを見つめ立ち竦(すく)んでいると、ベスから声をかけられる。
「何してるの?どうしたの?…ニコラスのこと?」
「もっと見てやればよかった」
「できることはやったわ」
「考えてた。あいつは才能があった。それにすごく賢かったんだ。繊細だった。きっと、素晴らしいことを成し得た。私が、もっと見てやれば…私のせいだ…」
床に崩れ落ち、嗚咽するピーターを抱き締めるベス。
「大丈夫よ。落ち着いて。つらいのは分かるけど、人生は続くのよ。セオも私もいるわ。あなたが必要よ。つらくても傷ついても人生は続くの」
「続かない。続くわけがない」
「落ち着いて…セオはもうすぐ4歳よ。あの子を考えて。大丈夫よ」
ニコラスの自殺から3年経っても、甚大なトラウマを抱えるピーターは、なお過去を引き摺って煩悶する〈現在性〉を繋いでいた。
ベスにしっかり抱き寄せられて、ピーターはベスの手を握り返し、少しずつ落ち着きを取り戻していくのだった。
3 無知と恥は痛みを引き起こす
「未成年の権限は保護者にある。あなた方の決断次第です。ですが、私の言うことを聞いてください。彼は退院できる状態じゃない。保護者のサインで退院できるが、医師としてリスクを警告する…罪悪感は要りません。愛情の問題じゃない。彼を守るためです。このような状況で、愛は力不足です。愛だけでは治せない」
精神科医のこの言葉が、脳裏に灼きついて離れない。
「愛だけでは治せない」という言い切った精神科医の問題意識の中枢にあるのは、無数の鬱病患者のハレーションの振れ具合を客観的に分析・観察してきた専門医の確信的言辞である。
だから、敢えて警告せざるを得なかった。
帰宅を許可したら、何が起こるか分かっていたからこそ警告したのである。
この警告を受け入れながらも、ピーターがニコラスを退院させたのは、病院に対する芝居じみた罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせつつ、翻(ひるがえ)って「チャンスが欲しい」と両親に訴え、「僕の苦しみを分かってほしいんだ。もう絶対にしない。誓うよ」というマヌーバー(術策)で籠絡(ろうらく)されたからである。
要するに、生涯自殺率が15%にも及ぶ鬱病の破壊力に対する「無知」と、「父さんは母さんを傷つけ、僕も傷つけた」・「僕らを簡単に見捨てた」という言語暴力を被弾され続け、今回も強制入院させてしまったことで恨みを買うことで累加された「恥」の観念が膨れ上がってしまったからである。
「もう、捨てられない」
この罪悪感の相応の強度がピーターの自我に固着していたのだ。
「母さんは、父さんが家を出てから、ものすごく苦しんだ。父さんをののしり続けたけど、僕はずっと父さんを尊敬してた。体が2つに引き裂かれるようだった」
ピーターにとって、ここまで誹議(ひぎ)されれば「ニコラス受容」という選択肢しかなかったと言える。
「無知」と「恥」によって、より凄惨な痛みを引き起こす事態に流れ着く悲劇が教えるのは、「正しく持ち得る問題意識」の重要性である。
酷なようだが、ピーターに欠落していたのは、鬱という精神疾患に罹患する息子の行動様態に対する極めて理知的な対応を模索するという、その一点に関わる問題意識の在りようだった。
「正しく持ち得る問題意識」の欠落を革(あらた)めていく態度の構築こそ、この映画から私たちが学ばざるを得ない教訓だったと言える。
ここで、ニコラスを骨の髄まで食む鬱病について、一言添えておく。
セロトニンやドーパミンの機能低下が起こり、「急性期・回復期・再発予防期」という3つのステージで遷移すると言われる鬱病の破壊力が、急性期に集中するのは自明である。
鬱病の回復過程 |
これが鬱病の「病前性格」である。
DSM-5によると、鬱病の必須な基本症状は二つある。
①少なくとも2週間の間、殆ど一日中、ほぼ毎日のように悲しみや空虚感を感じている(抑鬱気分)
②興味や喜びの著しい喪失
この2点である。
鬱病の基本症状 |
鬱病の破壊力の前に震えるニコラスは、これだけは犯してはならないピーターの怒号によって、復元困難な心的状態にまで追い込まれてしまったのである。
ピーターが抱える「無知」と「恥」という、「正しく持ち得る問題意識」の致命的欠落の不幸が難しい事態を招来させてしまったということ。
残念ながら、「愛だけでは治せない」のである。
「彼は気味が悪いのよ。あの視線はゾッとする。彼は頭がおかしい」(ベス)とまで見限られたニコラスの行動様態への対応には、薬物療法(抗鬱剤)と生活リズムの安定なしに困難なのだ。
この意味を認めない急性期真っ只中のニコラスには、地上から自らを物理的に消し去り、消えていくという自死以外の選択肢しか持ち得なかった。
だから、「正しく持ち得る問題意識」の欠落を延長させていたピーターのウイークポイント(「無知」と「恥」)を衝き、退院を具現化し、ピーター、ケイト、ニコラスという本来の家族像を一時(いっとき)仮構して、見捨てられ不安の負荷を畳み込んだ後、自死に至った少年の心的風景だけが生き残されたのである。
ニコラスが求める家族像 |
思えば、ピーターは自己基準で生きた父と折り合えずに青春期を送り、父を超えると信じるナラティブを掴み取ったはずなのに、「50歳の男が、10代の過去に引きずられてる。さっさと乗り越えろ」とまで見下され、反駁(はんばく)できない脆さを曝け出してしまう。
そんなピーターがニコラスに対して高圧的な行為に振れるのは、無意識のうちに他人(ここでは父親)の価値観や態度を自分のものとして重ね合わせる「取り込み」という心理学で説明可能である。
「お手上げだ。強さと自信を与えようと努めたのに。気の向くまま、生きていけると思うか?学校を出て、責任を避けて、成長を拒むのか?どう生きるんだ。お前はどうなる?答えられないか」
「いいか、はっきり言っておく。明日から、行きたくなくても学校に戻れ。いいな」
この不穏当な言語暴力こそ、父に会ったばかりのピーターが、その父からの「取り込み」の中で、直近の経験的情報の影響を受ける「プライミング効果」 という形で露呈されていたのである。
プライミング効果 |
「ピーターもまた息子です。しかも痛みを抱えた息子です。彼は、自分の父親よりもよい父親になろうとして苦闘する。だからピーターは現在に対処することができない。完全に過去にとらわれているからです。そして彼は、自身の父親が自分のなかにいることに気づきます。少年のころに父親から投げかけられた言葉が聞こえ、ニコラスに対してそれを反復してしまう。受け継いでしまったこの内なる声に支配されないようにするには、さらなる勇気が必要となります」
フローリアン・ゼレール監督(左)とヒュー・ジャックマン |
フロリアン・ゼレール監督のインタビューでのブリーフィングである。
ニコラスに対して、「強さと自信を与えようと努めた」ピーターの行動様態それ自身が、エリート弁護士として成功を収めた者の「無知」と「恥」を曝すだけだったのである。
「自分の嫌いな役を、全力でやるのは悲しい。この数週間ずっと、若い頃、父に言われた言葉を言い続けてきた。父を憎むようになった言葉だ。今度は私の番だ。まったく、これじゃ、父と同じじゃないか…自分が情けなさすぎて」
このピーターの述懐が、今や、覆水盆に返らずという現象を上書き不能にしてしまったのだ。
ここまで被弾されたニコラスが、「僕の居場所はない」と実母ケイトに吐露し、自らを責め抜くのは必至だった。
「この人生が重すぎる。苦しむのに疲れた」とまで言い捨てて、自己を追い込んでいく時、もう、そこで可視化される風景が炙り出すのは、〈死〉と最近接する孤独な少年の悲壮感以外ではなかった。
私は映画の序盤で、ニコラスの繊細な気質について、米国の精神分析医エレイン・アーロンによって提唱されたHSPと捉えていたが、鬱病の急性期であると認識したことで、ニコラスを囲繞する状況から推量すれば、ハリウッド好みの予定調和のハッピーエンドに流れようがないと考えざるを得なかった。
HSP |
エレイン・アーロン |
【HSPとは、生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質もった人」と定義されるが、精神疾患ではない】
そこまで追いつめられた少年の時間が滅び尽きていく。
それはまるで、家族の心の偏流を象徴するかの如く洗濯機の機械音が止まるシグナルを受けて、ニコラスの自死が決定づけられたようだった。
ニコラスが自殺未遂を起こし、入院するに至った時、繰り返し回転していた洗濯機が止まる |
「つらくても傷ついても人生は続くの」
「続かない。続くわけがない」
このラストの夫婦の会話で閉じる映像は、立ち直る余地すら見えないほどの心的外傷を抱え込むピーターの復元の命運が、ベスのサポートに拠っていることを示唆している。
【「無知と恥は痛みを引き起こす」という用語は、フロリアン・ゼレール監督のインタビューでの言葉である】
(2024年7月)
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