2023年10月27日金曜日

ザ・ホエール('22)  時間の傷を溶かす距離の重さ  ダーレン・アロノフスキー

 


1  「うっ血性心不全よ。このままでは週末までに死ぬ。死んでしまう」「僕は最悪な人間だ。分かってる。すまない」

 

 

 

オークリー大学の遠隔始動プログラムのオンライン講師をしているチャーリーは、学生たちに向けた講義をしているが、アップされた生徒たちの画像に囲まれた画面中央の講師枠は真っ黒で、チャーリーの姿は写し出されていない。


月曜日

 

ゲイのポルノ動画を観ながら、オナニーする巨漢のチャーリーの元を、雨の中、突然一人の若者・トーマスが訪ねて来た。

 

苦しそうにしているチャーリーを見て、「大丈夫ですか?救急車を呼びます?」と声をかけるが、これを読んでくれと紙を渡す。 

過激な動画を見て興奮し、心臓に痛みが走るチャーリー
トーマス



「“見事な小説『白鯨』で、語り手は海での体験を話す”…」 


呼吸が落ち着いてきたチャーリーは、再びトーマスに病院へ行くように勧められるが、それを断って、エッセイを読んでくれたことに感謝し、帰るように促す。

 

「本当に大丈夫?」

「君は誰なんだね?」

「福音をご存じです?キリスト教の教えを人々に…」

 

トーマスは伝道師だった。

 

それを聞いて、チャーリーは看護士の友達を呼ぶからと言うので、トーマスは帰ろうとするが、まだ何が起こるか分からないと不安になり、しばらく留まってもらう。

 

トーマスがどうして文章を読ませたかを聞くと、「死ぬなら、もう一度最後に聞きたくて」と答えるチャーリー。

 

友人の看護士のリズが来て、「救急車を呼んで」とチャーリーに指示するが、「健康保険がない」と言って断る。

リズ


 

血圧は上が238、下が134に達していた。

 

様子を見ていた若者が帰ろうとすると、リズが「“ニューライフ”の人ね?」と声をかける。

 

その新興宗教の教会役員はリズの父親で、リズは赤ん坊の時に養子になったのだった。

 

「クソ教会」と罵るリズ。

 

「バカげた終末論ばかり…手助けには感謝するけど、彼を改宗させる気なら…」

「改宗ではなく、人々に希望を」

「あなたはいい人だけど、聞きたがらない…彼、すごく苦しんだから…彼氏が死んだの」

「つまり教会が…」

「彼のボーイフレンドを殺したのよ。私もニューライフには、散々苦しめられたから、あなたには来てほしくない。特に今週はね」

「なぜ?」

「来週は彼、たぶんいない」

 

トーマスが帰った後、トイレから出て来たチャーリーに、再度、病院行きを促すリズ。

 

「うっ血性心不全よ。このままでは週末までに死ぬ。死んでしまう」

「僕は最悪な人間だ。分かってる。すまない」

 

リズは宣教師を返し、再三再四、病院行きを進めるが、保険に入っていないチャーリーは何万ドルにもなるであろう治療費を返せないことを理由に行こうとしない。

 

「見てるのは、つらい。友達だもの」

 

夜になり、一人テレビを観ていたチャーリーは、上着を脱ぎ、『白鯨』についてのエッセイを暗唱しながら寝室に向かう。

 

「彼の人生のすべては、その一頭のクジラを殺すこと。悲しいと思う。なぜなら、クジラには感情などないのだ。ただ大きく、哀れな生き物だ。エイハブ(船長)のことも気の毒に思う。なぜなら彼は、自分の人生がクジラを殺せば、よくなると信じているからだ。でも、実際にはどうにもならない。私はこの本を読んで、自分の人生を考えた…」 

暗唱しながら、歩行器を使って寝室に向かう



ベッドに横たわったチャーリーは眠りに就く。

 

火曜日

 

パソコンで「うっ血性心不全」を検索し、血圧を入力したら、ステージ3であると知り、一旦は引き出しに戻したスナック菓子を再び取り出し、暴食するチャーリー。

 

電話をかけ、高校生になった娘のエリーを自宅に呼ぶ。

 

母親に内緒で訪れたエリーは、学校の様子を訊かれ、実習仲間の悪口を投稿して、今朝、退学になったと話すのだ。

 

「高校なんか、くだらない」

「大事だぞ。卒業しないと…」

「今頃、親ぶるの?」

「違うよ。悪かった。一緒に過ごしたいと思っただけだ」

「私はイヤ。おぞましい姿…外見じゃない。太ってなくてもサイテー。8歳の私を捨てて、家を出たクソ野郎。学生とヤるために」 

エリー


帰ろうとするエリーを「金を払う」と引き留め、卒業に必要な単位のために勉強も教えると提案すると、エリーはそれを受け入れ、エッセイの手直しを頼んでくる。

 

エリーに幾らくれるのかと訊ねられたチャーリーは、銀行にある12万ドルすべてを母親には内緒で渡すと言い、自分のために何か書いてくれと要求する。

 

「君は頭がいいから、一流の書き手になれる。ぜひ何かを得てほしいんだ」 


その言葉を無視して、「理解できないよ」と玄関のドアを開けたエリーは振り向くや、チャーリーにここまで歩行器なしで歩いてくるよう命令する。

 

チャーリーは言われた通り、ソファから立ち上がろうと手をついて、サイドテーブルが壊れてしまう父の姿を目視したエリーは、ドアを閉めて帰って行った。 



夕方、リズがやって来て、娘が来たことを知り、「関わってはいけないのよ」と言ってチャーリーを諭す。 


「8歳で別れたきりよ。宿題で絆を取り戻すの?こんな状態の時はダメ」

 

リラックスして、ストレスをコントロールするために深呼吸や汗の管理する機器を外してしまうチャーリー。

 

「あの子が心配なんだ」と吐露し、エリーが投稿しているブログを見せる。

 

とにかく来させてはダメと言うリズに、分かったと答え、リズに渡された夕食のサンドウィッチにかぶり付くや、喉に詰まらせ窒息しそうになり、リズが思い切り背中を叩き吐かせたことで、チャーリーは一命を取り留めた。

 

 

水曜日

 

オンライン授業で講義するチャーリー。

 

「…よく考えて書き、推敲し、主張の真実性を問うこと。バカらしいと思うだろうが、とても重要なことだ…」

 

その直後、エリーが宿題を持って来て、チャーリーが母親のことを聞こうとすると、帰ろうとする。

 

「帰りたいなら、帰れ。お金はあげる」


「私を知る気は?」


「あるとも。だがムリは言わない。君次第だ」

 

エリーは再びソファに座り、ママは元気で、酒があれば幸せ、11歳の時に町の反対側へ引っ越し、パートナーはいないなど、チャーリーの質問に答える。

 

「なぜ太ったの?」

「親しい人が亡くなり、そのことで影響を受けたんだ」

「彼氏ね」

「パートナー」

「教え子」

「大人だよ。夜学だし」

「彼を覚えてる」

 

なぜ死んだかを聞かれたチャーリーは、「今は話したくないよ」と答え、エリーに思いのままに書くようにノートを渡し、バスルームへ行って嗚咽する。

 

その声を聞いたエリーは、「大丈夫?死にそうなら、入るけど」と声をかける。

 

チャイムが鳴り、教会のパンフレットを届けに来たトーマスにエリーは、明日も来るようにと言って、帰って行く。

 

トーマスはニューライフの教義を語り始めるが、チャーリーは既に出版物は凡て読んでいた。

 

「救済に興味がないんだ。月曜のことは感謝するが、帰ってくれ」

「神が僕をここへ導き、あなたが必要な時、僕はドアを叩いた。力になれることはないですか?そのために宣教師になったんです」

「…トーマス、正直にいえ。私はおぞましいか?」

「いいえ。力になりたいです。力にならせて下さい」

 

チャーリーは落とした部屋の鍵をトーマスに拾ってもらうと、リズが肥満用の車椅子を運んで来た。

 

トーマスがいるので、リズは帰そうとするが、気が変わって話をすることにした。

 

外のデッキの椅子に座り、トーマスがアイオワのウォータールーから、大学の前に宣教師の活動をするために一人でやって来たことなどを聞き出す。

 

リズはトーマスの正面に座り直し、話を始めた。

 

「兄はニューライフの宣教師で、南米へ行った。私は“厄介者”で、12歳で教会を拒否した。父は私を見限ったけど、兄は心からニューライフを愛してた。数か月して“疲れた”と手紙が来たけど、結婚を嫌がり帰らなかった。父が決めた相手は兄がよく知らない教会の人の娘。帰国後、兄は別の人に恋し、新たな人生を築いたけど、父は教会と家族から兄を追い出した。兄は教会のことを忘れられると思ったけど、まるで癌のように心を蝕(むしば)まれ、夜も眠らず、食事もせず、痩せ細っていった。ある晩、戻ってこなくて、数週間後、ジョギング中の男性が、川岸で何かを発見した。アランだった。チャーリーの最愛の人で、私の兄…父は未だに認めない。信徒たちに“アランの死は、不幸な事故”と話した。兄のことを、最後まで否定する気よ」 


涙を眼に溜めながらリズが話し終わると、下を向いていたトーマスが応える。

 

「あなたは僕を信用しないし、僕は彼を数日しか知らないけど、最も必要とする今、神が僕を彼の元へ。救うために」

「いいこと!彼に救いは必要ない。数日できっと死んでしまう。あなたは引っ込んでて!私だけが力になれる」 


チャーリーが「リズ」と声をかけると、トーマスは帰って行った。

 

リズも夜勤へ出かけ、いつものようにピザ屋のダンが届けに来て郵便受けからお金を持って行く。

 

今日もまた、こうしてチャーリーの短い一日が閉じていくが、この短かさは男の命を縮めゆく時間の短かさだった。

 

 

 

2  「君しかいないんだよ!信じたいんだ。僕は人生でたった1つ、正しいことをしたと!」

 

 

 

木曜日

 

エリーが宿題を受け取りにやって来た。

 

もう少しで終わるので待っている間にノートの続きを書くように言うと、「もう黙って」と乱暴にノートを取り上げる。

 

チャーリーは溜息をつき、「ママと結婚したのは、人生の奇妙な時期で…」と話し始めると、「聞いてないよ!」と遮断する。

 

「知りたいかと…すまなかった…君の怒りは分かる。だが、世界中に向かって怒る必要はない。僕にだけ怒れ」


「じゃ、言ってやる!私をゴミみたいに捨て、8年後に父親ぶるの?男のため、私を捨てたのよ…でもよかった。大事なことを教えてもらったから。人間はロクデナシだって…せめて…私たちにお金を。貯め込んでいたなら、ママに送って欲しかった」


「送ったよ」

「養育費以外に」

「送ったとも。ママと別れた時、君に近づくなと言われた。いつか考えが変わるよう期待したが…」

「せめて電話くらい。長い年月、少しは…絆を持ってたかも」

「エリー。僕を見ろ。誰も僕との絆など望みはしない」

 

エリーはそれに応えず、「お腹すいた」と、キッチンでサンドウィッチを作り始める。

 

その様子を目を細めて見ているチャーリー。

 

「君はすばらしい。ぜひ、そのことを知ってほしい。望みようがないほど、最高の娘だよ」 


エリーはチャーリーに作ったサンドウィッチに睡眠薬を入れ眠らせると、大麻を吸い、部屋の中を見て回っていると、トーマスがやって来た。

 

トーマスをからかい、大麻を勧めると、意外にもそれを吸い始めるのだ。

 

トーマスが大麻を吸う姿を写真を撮るエリーは、ニューライフは嘘だとトーマスを追求すると、アランの部屋に逃げ込んだ。

 

ドア越しに語り始めるトーマス。

 

「宣教活動してた。教会仲間とウォータールーで。故郷のアイオワの町だ。大麻を吸った罰で父に命じられたから。本当は、僕を持て余して追い払っただけ…結局、僕はやめた。耐えられなくて…リーダーは、僕らを街角に立たせ、パンフレットを配るだけ。でも、毎日“大勢救ってる”と言う。本当に人々を救うなら、外に方法があると言おうとしたけど、彼には信仰の証しなど、どうでもよかった。僕は悩んだ。“人を助けてるか?”って」


「いいえ。助けてない」

「僕もそう感じ始めた」

「あなたは誰一人助けてない。“神を信じろ”なんて、誰の役に立つっていうの?」

「僕は思った。僕の家族や友人たちは、みんなとても幸せそうだ。僕もそうなりたい」

「なんでやめたの?」

「逮捕されるかもしれないから」

「大麻で?」

「盗みを働いた…」

 

ここで、エリーは携帯の録音を始めた。

 

「…ある日、パンフレットを捨て、僕は戸別訪問を始めた。ついに“誰かを助けてる”って思えたよ。本部に戻り、リーダーに報告すると、“そんなことはするな”と。僕は、“なぜ?”と尋ね、みんなの前で口論に。その夜、やめようと決めて、みんなが寝てる間に、現金を持ち去った…」

「幾ら?」

「2436ドルだ…バスに乗った。リーダーと親から何度も電話があって、電話を放り捨てた。しばらくして、この町で降りた。その金で布教しようと思った。“僕の信仰で、一人救えたら”と…でも、もう金も底を尽き、家にも帰れない。親に縁を切られるよ。どうすれば…」

 

そこまで話したトーマスはアランの聖書を見つけ、しおりが挟まれたページの“義務、肉体、悪行”の文字が目に留まる。

 

「あなたに興味が出た…だから、父を救うのね」

 

そこにリズがチャーリーの元妻、即ちエリーの母親・メアリーを連れて来て、トーマスは去って行った。 

メアリー


リズは睡眠薬で眠っているチャーリーを起こし、酸素ボンベをつけて手当てする。

 

「イカれた小娘がこれ以上飲ませていたら…」

 

リズはエリーを詰(なじ)るのだ。

 

「だから、たった2錠よ」と応えるエリーに、メアリーが唐突に「幾らくれるって?」と訊くと、エリーは困惑した表情になる。

 

メアリーは、「全額?」とチャーリーに向かって問い質す。

 

「知ってるの?」とエリー。

「当然でしょ。あんたが親切心で来るもんですか」

 

リズは、「お金なんかない」と笑い飛ばした。

 

メアリーはエリーの口座に10万ドル以上稼いだ金があるはずだと主張し、「ウソでしょ?」とリズが問うと、チャーリーは返答できずに下を向く。

 

「必要なものを揃えられた?特殊ベッドや理学療法士、健康保険も。トラックが壊れ、私は雪の中、歩いた」


「僕が“修理代を出す”と」

「貯金700ドルと思って、断ったのよ!」

「エリーの金だ。すべてエリーに。緊急事態の時は金を渡すつもりだった」

「どうだか」

「待ってくれ」

 

リズはチャーリーに裏切られた思いで傷つき、家を出て行った。

 

「全部、私のお金よ」とエリー。

「出てって。今すぐに!」とメアリー。

 

出て行くエリーにチャーリーが声をかける。

 

「僕を傷つける気はなかったよな?」

「あんたなんか、どうでも。気にもしてない。早く死んで!」 


直ちに「やめなさい!」とメアリーが叱りつける。

 

エリーはチャーリーから宿題のエッセイを奪うように受け取り、出て行く。

 

「すごくいいエッセイだ!」

 

残ったメアリーは、まじまじとチャーリーを見て、「なんて姿…お酒ない?」と酒を飲み始める。

 

メアリーはお金はエリーが家を出たら渡すと言う。

 

「今はまだ17歳で高校生なのよ。タトゥーか遊びに使ってしまう」

「あの子はもっと利口だよ」

「どうだった?娘との再会は?」

「すばらしい子だ」

「今も同じね。すべてに前向き。イラつく」

「君は皮肉屋だ。バランスが取れてた」

「今でも懐かしい…まさか、そんな状態とは」

「聞いてくれなかったろ?」

「あなたもでしょ?」

 

メアリーとチャーリーはすれ違ったそれぞれの言い分を話し、エリーを巡って激しく親権を争った過去に振れ、本音を吐露し合う。 


「多くの過ちを犯した。でも、いつだってあの子に会いたいと思っていた」

「自分のことばかり。今でもそうなのね。だから遠ざけた。あの子は最悪。違う?恐怖よ。あなたは私を責める」

「だから会わせなかったのか?僕が君を悪い母親と思うから?」

「最初はね。でも、あの子が15~16歳になると、傷つけそうで…認めたくないけど、母親だから分かる…チャーリー、あの子は邪悪」 


「邪悪なものか」

 

メアリーはその「邪悪さ」の証拠に、エリーがウェブに投稿するチャーリーの画像を見せた。 


「“彼が燃えたら、地獄に脂の炎が渦巻く”」

「気を悪くしないで。私は何度も登場してる」

「書く才能がある」

「それが反応!」

「邪悪じゃない。正直なだけだ」

 

二人はエリーを巡って口論となる。

 

「私だって悩んだ。あの子はあなたが好き。あなたは子供が欲しくて私と結婚!」

「何を言う!」

 

チャーリーが喘息の咳をすると、メアリーは音を聞かせてと、チャーリーの胸に耳を当てる。

 

「ふたりきりになったのは、9年ぶりだ。考えられるか?」

 

エリーと3人で海へ旅行した思い出話をするチャーリー。

 

メアリーは涙を流しながら、「ひどい音だわ」と言う。

 

「僕は死ぬ」

「なんて人」

「許してくれ」

「ひどいわ。確かなの?」

「聞いて欲しい。あの子は大丈夫だと言ってくれ。見捨てるな」


「見捨てたくせに。8歳のあの子を!」

「それでも見守りたかった。君とあの子を」

「病院へ行って!」

「それより、僕は確信を持ちたい。あの子がいい人生を送れると。人を大切にし、あの子も大切にされるように!あの子は大丈夫だと…」

「もう帰らなきゃ」

 

メアリーは急いで上着を着て玄関に向かう。

 

「君しかいないんだよ!信じたいんだ。僕は人生でたった1つ、正しいことをしたと!」


「お互い、役目は果たした。私は子育て。あなたはお金よ。全力を尽くした。必要なものは?出て行く前に。水は?」

 

反応がないので、即座にメアリーは出て行った。

 

ピザの配達人のダンに声をかけられ、大丈夫だと答えるが、外にピザを取りに来た姿を見られ、目が合ってしまう。 

姿を見られるチャーリー


「ウソだろ」とダン。

 

そこから、ピザを爆食いするチャーリーは、“最後の授業だ”と、オンライン授業のメッセージを送る。 


「エッセイなんて忘れろ。クソ食らえ。何か書くんだ。正直な気持ちを」

 

その後も、爆食に走るチャーリー。

 

嘔吐し、泣きながら咳き込んでいるところに、トーマスが訪ねて来た。

 

入って来るや、エリーにに話した、これまでの経緯を吹っ切れたように語った。

 

「まずい状況でした…娘さんが、大麻を吸う僕の写真と録音した会話をウォータールーの教会に送った。僕の親にも。皆、何て言ったと?“たかが、お金だ”。僕を赦し、愛してるから戻ってこいって。すごいことだ」

「エリーがやったのか?」

「救うためか、それとも傷つけるためか。彼女はナゾだ」

 

話を聞いて笑うチャーリー。

 

帰る前に渡したいものがあるとトーマスが聖書を出す。

 

苦しそうにするチャーリーに、「あなたを助けたいんです」と聖書の一説を読む。

 

「“私たちには義務がある。肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬけれど、霊によって肉の仕業を絶てば、あなた方は生きる” 」

「何のことだ?」

「これを読んで理解しました。神が僕を来させたのは、アランの死を説明し、あなたを救うため…アランは神の御心に背いて、あなたを選び、その一節から逃げられなくなった。霊ではなく、肉に従ったから。あなたはまだ間に合います。霊に従って肉の仕業を絶ち、生きるのです」

「彼が死んだのは、僕を選んだから?愛し合ったせいで、神が見捨てた?」

「そうです」

 

チャーリーは、怒りを抑えながら、ゆっくりと吐露していく

 

「昔は巨体じゃなかった…さほど美男でもないが、彼は僕を愛した。僕を“美しい”と。学期半ばから、彼は研究室の開放時間に来るようになり、お互いに夢中になった。でも、待った。大学が終わるまでは…」

「やめて下さい」

「その年の授業がすべて終わって、外の気温も心地よく、彼と植物園を散歩し、キスした」

「チャーリー、もういい」

「ひと晩中、ふたりで裸のまま横たわり、愛し合った。愛し合ったんだ。おぞましいか?」

「神が、お赦し下さる」

「神など、いてほしくない。来世もまっぴらだ。アランに見せたくない。今の、こんな姿を。ひどく腫れ上がった足。ただれた皮膚。肉のヒダのカビ。尻の可能性の潰瘍。茶色く変色した背中の脂肪腫。おぞましいか?」


「あなたはおぞましい!」

 

神の救済を拒否する男の怒りが虚空を舞い、震えていた。

 

 

 

3  「病院へ行って。手術か何か必要よ」「読んでくれ…助けたいなら…お願いだ」

 

 

 

金曜日

 

「諸君の苦情は聞き入れた。私は退任する」

 

オンライン授業の生徒たちに語るチャーリー。

 

「諸君は私に、とても正直だった。だから私も、諸君に正直になろう」

 

チャーリーは初めてオンライン画像に、自分の顔と体を晒け出したのである。

 

驚きと困惑の表情を見せる生徒たちに、「君たちの驚くほど正直な文章は、何より重要だ」と語りかけ、授業を終了しパソコンを投げ捨てるのだ。

 

リズが戻って来た。

 

「ひどい人。また私をこんな目に。アランの末期に、揺さぶり、叫び、食べさせようとした。壮絶だった!」


「僕もつらかった」

 

リズはチャーリーの食事の差し入れを持って、チャーリーの横に座る。

 

「これ以上、耐えられない」

「彼を救おうとした。僕が愛しさえすれば、彼には誰も必要ない。神ですら不要だと…」

「あなたが兄を愛さなかったら、兄はとっくに命を絶ってたわ。誰にも救えない。私は何年も努力した。人は誰かを救うことなどできない」


「彼は救われた。傷つけるのではなく、彼を救おうとした。そして家に帰してやった」

「誰が?」

「エリー。トーマスを救って、家に帰してやったんだ。考えたことはないか?どんな人であれ、誰かを気にせずにはいられない。人間はすばらしい」 



そこに、エリーが「何のマネよ!」と乗り込んで来た。

 

「死にそうなの」とリズ。

「救急車、呼んで!」

 

エリーは話があるので2人にしてと言うが、そばについていると心配するリズを、チャーリーが促すと、リズはチャーリーにキスをし、「誰か呼ぶ」と言って出て行く。

 

「チャーリー、下で待ってる」

 

これが献身的に寄り添ってくれたリズの最後の言葉になった。

 

一方、エリーはエッセイが不可だったと詰るのみ。

 

「最後に、また裏切るわけ?死ぬのは勝手よ。落第させるため、書いたの?」

 

エリーは必要がないと、提出したエッセイを読んでいなかった。

 

読んでみるように言われたエリーが目を通すと、エリーが8年生の時に書いた『白鯨』についてのエッセイの一節だった。

 

「ママが4年前に送ってくれた。学校での様子を尋ねたらくれたんだ。これほど見事なエッセイはない」

「なぜ嫌がらせするの?」

「してない。君を捨てて悪かった。僕は恋に落ち、君を置き去りに。ひどいことをした…なぜ、あんなマネができたのだろう。君は美しいよ…君はすばらしいよ。そのエッセイもだ。そのエッセイは、君自身だ」


「やめてよ。やめてったら!」

「君は僕の最高の作品だ」

 

泣きながらエリーに語るチャーリーは、胸の痛みに苦しみ悶えるが、エリーは出て行こうとする。

 

「君は完璧だ。幸せになれるよ。人を思いやれる」

「救急車が来る」

「もう助からない」

「病院へ行って。手術か何か必要よ」

「読んでくれ…助けたいなら…お願いだ」

「デブのバカヤロー!クソッタレ!」

 

エリーはチャーリーを罵倒し、玄関のドアを開け、外の光を浴びる。

 

「パパ、お願い…」 


泣きながらチャーリーの方へ振り返り、エッセイを読み始めたのだった。

 

「“メルヴィルの見事な小説『白鯨』で、語り手は海での体験を話す。本の最初でイシュメールと名乗り、海辺の小さな町でクイークェグと同宿してる。2人は教会へ行き、船で旅発つ。船長は海賊で片足のエイハブ。ある鯨を殺したがってる。白い鯨だ。この本の中で、エイハブは多くの苦難にあう。人生のすべては、その鯨を殺すこと。悲しいと思う。なぜなら鯨には、感情などないのだ。ただ大きく、哀れな生き物だ。エイハブは鯨を殺せば、人生がよくなると信じている。だが、そうはならない。私は登場人物たちに、複雑な思いを抱いた。鯨の描写の退屈な章には、うんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りにする。少しだけ”」 



それを聞きながら、チャーリーは意を決して、自力で立ち上がり、一歩一歩、エリーの方へと歩いていく。 


エリーもチャーリーに近づき、なおも読み続ける。

 

「“この本は、私の人生を考えさせ、よかったと思う”」 


チャーリーは満ち足りた表情で笑い、エリーもチャーリーを見つめ笑顔になるや、チャーリーは天へ昇って行った。 


昔、家族で泳ぎに行った海岸(ラストカット)

 

 

4  時間の傷を溶かす距離の重さ

 

 

 


僅か5日間の物理的時間の中に、人間の分かりにくい複雑な感情が詰め込まれていた。

 

これが物語を通して可視化され絡み合うことで、アンビバレントな感情で漂動する人間の矛盾と葛藤が晒されていく。

 

数年間にも及ぶ内的時間の傷が露わになり、この心的行程に関わる、絆が壊れ情緒的な交情を失った二つの家族の成員の、それぞれの自我が引き摺る時間の傷が炙り出されていくのだ。

 

言うまでもなく、この成員とは主人公のチャーリーと、彼の失踪によって破壊された妻子・メアリーとエリー。

 

そして、兄アランを喪ったリズと、その義父によって構成される4人のこと。

 

義父と共に物語に登場しないが、アランはコアになる人物なので、彼を含めた4人が負った内的時間の傷が心理ミステリーのように可視化され、観る者に映像提示されるが、決して単純明快ではなかった。

 

少しでも分かりやすくさせるためにか、新興宗教の宣教師をインサートする狙いが読み取れるが、それでもなお、舞台を固定化したドラマの風通しが良くならない構成力こそ、作り手の本領発揮の腕力の凄みなのだろう。

 

但し、キリスト教の終末論を武器に救済に傾注することで自己救済を図るトーマスの存在は、アランを喪ったリズとチャーリーに誹議される救済思想の、その欺瞞性を際立たせる物語の狂言回しであると私は考えている。 



物語の中で最も分かりやすいのは、愛するパートナーのために児童期の娘を捨てたエリーに対する贖罪を遂行せんとする父チャーリーと、それを繰り返し弾く娘との関係の歪みの可視化である。

 

「クソ野郎」

「早く死んで!」


「デブのバカヤロー!クソッタレ!」

 

全てエリーの攻撃的言辞である。

 

親権争いをしてまで娘を育てようとしたチャーリーの願いを振り切って、エリーを育て上げたメアリーだったが、「あの子は邪悪」とまで言わせてしまうことになった。 


そんなエリーを、「正直なだけだ」と言って庇う父チャーリーの内側に累加するのは、「君を捨てて悪かった。僕は恋に落ち、君を置き去りに。ひどいことをした」という悔いのみ。

 

だから、贖罪に振れていく。

 

この思いが、「パパ、お願い…」と吐露したエリーが受容することで、「人生でたった1つ、正しいことをしたと」と信じるチャーリーの贖罪が完結し、昇天していくのだ。 


それは、「大好きなパパ」に対する情動の歪みを延長させてきた少女の尊厳が復元する瞬間だった。 

自ら父に近づいていくエリー



思うに、児童虐待の克服課題はトラウマ・愛情・尊厳である。

 

「大好きなパパ」に遺棄された娘のトラウマの深甚さは、「見捨てられた子供」が一様に内包する「愛情欠損」の負荷意識を、裏切った父に対する人格の総体的な否定感情を身体化することで自我防衛を果たしていく。 


思春期に踏み込んだ娘が自立する道を拓いていくには、それ以外の選択肢しかなかった。

 

それでも尊厳を復元するには、自分の感情に届くに足る有効なアウトリーチを手に入れる外になかった。

 

それを理解する父の分かりやすく、情動に訴えるアウトリーチの連射は、自らの死に繋がる体躯の絶対表現という壮絶な行為として発現されたことで、二人の距離が最近接するに至る。

 

累加された時間の傷を溶かす距離の重さが、一気に宙に捨てられていくのだ。 



然るに、複雑に絡み合った関係の歪みが修復された時、一つの人生が終わり、もう一つの人生が拓かれていく。

 

それは、再び娘を置き去りにして散っていく男の〈生〉の総括の自己完結点と化したが、究極の贖罪を覚悟して実践した男にとって、それだけが自らの死に意味を持たせる唯一の安寧の結晶点だったのだ。

 

その時、男はもう一つの贖罪を完結させている。

 

不幸な最期を遂げた最愛のパートナーに対する贖罪である。

 

爆食いによるストレスの解消が、有効なストレスコーピングに昇華されていない現実を無化して、心不全という死への一里塚の行程をほぼ自覚的に辿っていく情景は痛々し過ぎる。 



一方、男の最愛のパートナーの妹には、兄の喪失による「悲嘆」(グリーフ)を抱えていた。 


なぜ、兄を救えなかったのか。


罪悪感があったとも考えられる。

 

リズとチャーリーが、共通の対象人格に対する悲嘆と罪悪感を抱えているのである。

 

この二人が贖罪意識を共有するのは必至だった。 



カルトの罠に嵌った兄を喪って煩悶するリズの憎悪の対象が、教団と一体化した義父であったことは昭然(しょうぜん)たる事実である。

 

その兄がチャーリーへの愛を捨てられず、義父に象徴される教団からの楽園追放の憂き目に遭って、彷徨し果てていく悲哀を目の当たりにしたリズのトラウマは、同様にパートナー喪失に被弾し、爆食いに沈むチャーリーのトラウマとラインを一(いつ)にした時、死に向かう男の時間の傷の深さに思いを寄せて架橋していく。 


男に対するリズの献身的介護は、この文脈なしに考えられない。

 

男を援助することは兄への贖罪を果たすことになる。

 

そう思ったのだろう。

 

しかし、チャーリーはリズの介護を受け入れても病院行きを拒絶するのだ。

 

だから、特殊ベッド・理学療法士・健康保険など、金のないチャーリーのために自費で援助していくことになる。 

「特殊ベッドや理学療法士、健康保険も。トラックが壊れ、私は雪の中、歩いた」


リズの援助が全面的介護になった所以である。

 

全面的介護になったことで深まった二人の関係。

 

これが一時(いっとき)破綻する。

 

チャーリーが大学の講義で受け取った相応の財産を持っている事実を知ったことが原因だが、その財産の全てをエリーに贈与すると言うのである。

 

エリーへの贖罪にチャーリーが向き合っている事実を知っていたとしても、エリーに対するリビングトラスト(遺産の生前信託/アメリカ)の意思を知らされて衝撃を受けたリズの根柢に潜むのは、「自分だけがチャーリーを守っている」という幻想の崩れだった。

 

独占感情の崩れであったと言ってもいい。

 

このことは、トーマスに対して、「私だけが力になれる」と言い放ったエピソードで明瞭に読み取れる。

 

然るに、リズとトーマスの対立を称して、「医学と宗教の対立」という構図を提示するのは大袈裟過ぎるだろう。

 

それは単に、兄アランの命を奪ったカルト教団の欺瞞性を忌避する看護師と、他者を救うことで自らの劣等感・自尊心の低さを克服し、他者に対する優越意識を手に入れる「メサイアコンプレックス」(救世主妄想)という厄介だが、巷間に溢れている心理学の世界でダッチロールする若者との、拠って立つ観念系の十分に世俗的な乖離であって、それ以外ではない。 


だから、キリスト教や「七つの大罪」との関連で、本作を解読しても大して意味がないと考えている。

 

ここで重要なのは、チャーリーが抱えているのは、エリーとアランに対する二つの贖罪であり、その初発点が後者であったという歴然たる事実である。

 

そして、後者によって生まれたリズとの絶対的な信頼関係。

 

何より肝腎なのは、アランに対するチャーリーの贖罪の完結が、同時に兄を援助し切れなかったリズのトラウマの贖罪の完結になるということ。


兄を救えなかった自己とパートナー(チャーリー)の煩悶が、そのパートナーの贖罪によって、自らが煩悶した分だけ報われるのである。

 

残酷なのは、リズの贖罪の完結が、チャーリーの死を前提にしているという紛うことなき現実。 


ほぼ、そこにしか流れていかないチャーリーの死のリアリティ。

 

誰よりも本人が、この現実を望み、ピザの配達人に自らの外形を見られるというイレギュラーが生じたことで、「正直になる」と括って自らの外形を晒し、オンライン授業を終了して爆食に走り、望んだ通りの行程を直往(ちょくおう)していくのである。 



男のケアの限界を知るリズにも止められない。

 

贖罪を完結させて逝くというチャーリーの思いの強さを知るリズには、最後まで寄り添っていくという選択肢しかなかった。

 

その性的指向の故に教団から追放された衝撃で出奔し、行き倒れした兄アランの悲哀を自ら負うようにして、逝くことを望むチャーリーの「約束された死」を、もう誰にも止められないのだ。

 

本作に心に染みるエピソードがインサートされていた。

 

以下、チャーリーとメアリーの会話。

 

「言えずに悪かったわ…つまり、その、お友達のこと」

「アランだ」

「知ってるわよ。一度、会った…元気そうじゃなくて、たぶん、もう…彼に向かって、いいたいことをぶつけようと思った。でも、“お手伝いします?”と聞いたの。買い物袋を車まで運ぶと、お礼を言われて、私は離れた。名前さえ言わずに」 


夫を奪ったアランを憎む気も失せたメアリーのこの言葉の中に、「アランの末期に、揺さぶり、叫び、食べさせようとした」チャーリーの衝撃の大きさが垣間見える。

 

爆食死と贖罪の完結がリンクしているのだ。

 

だから、凄い映画になった。

 

以上の視座がない限り、この映画は分からないのではないか。 


そう思った。

 

最後に、原題のThe Whaleについて。

 

感情がない鯨を殺すことに全てを懸ける男たちの行為に悲しさを覚え、「語り手は自らの暗い物語を先送りにする」と書いた8年生のエリーの思考と表現に感嘆する父チャーリーにとって、「白鯨」とは、このエリーの優れた考察の代名詞と考えた。 


これが原題のメタファーではないか。

 

私はそう思う。

 

【ダーレン・アロノフスキー監督の映画は、「レスラー」と「ブラック・スワン」しか観ていないが、本作同様に、いずれも人間の深層心理に迫る秀作だった】 

                    「レスラー」より


                   「ブラック・スワン」より


ダーレン・アロノフスキー監督



(2023年11月 )

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