<「逆オートロック」の「理想家族」という絶対規範の本質的矛盾>
1 「逆オートロック」の「理想家族」という絶対規範の本質的矛盾
「人類の家族は、人類特有の孤独と死の恐怖を解消できないまでも、いくらかは軽減するために発明された文化装置であると思われる。・・・依然として、孤独と死は個人の最大の恐怖であり、この恐怖をいくらかでも鎮めるのに役立つ幻想は、広く世界を見渡しても家族の他にはほとんどないし、家族は自我の起源であるとともに延長でもあるから、家族と言う文化装置は、現在、混乱と破綻の危機に曝されているが、今後とも消滅することはあるまいと思われる」(「古希の雑考」文春文庫)
これは、「孤独と死への恐怖」から家族を作ったという岸田秀の家族論の仮説である。
この岸田秀の仮説の一つの範型が本作にあると思えるので、引用した次第である。
本作のヒロインである絵里子は、不必要なまでに長いモノローグの中で、「自己史」の中枢に潜む情感文脈を吐露している。
それは、「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず、できるだけ、すべてのことを分かち合う。それが、私たち家族の決まり」という冒頭のモノローグと、唯一、乖離する「秘密」であった。
以下、不必要なまでに長いモノローグを、洩らさず再現していく。
「京橋家は、私の完全なる計画のもとに作られたということだ。マナは予想外にできちゃったわけではない。基礎体温は15の時からつけていた。家庭を作ることができる男子を探し、男子の目に留まるよう、オシャレと美容に命を賭け、同時に出産育児、家事一般だけを学んで、高校の3年間を過ごした。輪に加わらない私は、クラスメイトから変な仇名で呼ばれ、ほぼ、集団無視された。不毛な、絶望的に無意味な高校時代だった。帰るところは家しかなく、家に帰れば、母といるしかなかった。高校を卒業後、勤めていた会社にバイトに来た貴史と出会い、一ヶ月観察して確信した。貴史のバイトが最後の日、飲みに誘ったら簡単についてきて、そのままホテル『野猿』に私を連れて行った。そういう男なんだろうと思ったけれど、そんなことは私の計算にあまり関係がなかった。肝心なのは、子供ができたと告げた時、渋々でも受け入れるか、逃げるか・・・」
結局、渋々でも受け入れた男と結婚する。
男の名は貴史。
当然ながら、それは、貴史が放つ「性的な臭気」に惹かれて結婚した訳ではない。
「子供ができたと告げた時、渋々でも受け入れる」ある種の人の良さを感じさせ、最終的に結婚を受託してくれればいいのだ。
そんな貴史と結婚した絵里子は、少なくとも、自己の計画的な「理想家族」のイメージを抱懐して、「家族作り」を実践躬行(じっせんきゅうこう)していく。
「この団地に引っ越して来た時、私は光り輝く新しい未来にやって来たと思った。あの大嫌いな家を反面教師にして、私は新しい家族を作った」
まさに絵里子は、「あんな子、産むんじゃなかった」と勝手に思い込んでいた、母・さと子との、暗欝な幼児・児童・少女期で被弾した「心の傷」を完全に浄化し、払拭するために、確信的に「理想家族」を仮構したのである。
この「家族作り」が成功裡に結ばれたと確信し得たからこそ、元々、性的欲求の希薄な絵里子が、夫との間に5年間もセックスレスの関係を延長させてしまったのだろう。
このような「理想家族」を仮構した絵里子の、その心理に深々と横臥(おうが)しているのは、岸田秀の言う「孤独と死への恐怖」であると言っていい。
ERIKO GARDEN(イメージ画像・ブログより) |
「ERIKO GARDEN」という標札によって特化された、ルーフバルコニーというスポットで、「理想家族」を占有する愉悦感。
一人の王妃の心を慰撫するために造園された「バビロンの空中庭園」のように、この特化されたスポットこそ、絵里子の「理想家族」のイメージを凝縮させたものである。
「理想家族」を仮構した絵里子にとって、まさに、「家族ごっこ」を愉悦することだけが「幸福」であるが故には、息子・コウの家庭教師のミーナの指摘に微動だにしなかった。
不動産屋に勤めるミーナの存在は、ここでは単に、夫貴史の愛人である以上に、「理想家族」を破綻の危機に追いやる記号的人物として、物語の中にインサートされたと考えた方が分り易い。
「そうか、学芸会や。これは学芸会なんや。だって、幼稚園の学芸会にそっくりやもん。皆、分っているのに、幸せな家族の役を演じている」
これは、ミーナが、母・さと子との抱き合わせで開かれた誕生パーティーに招待された際、ワインに泥酔した只中でのモノローグ。
ミーナ |
その直後、ミーナは、「分った!これ学芸会だ」と放言する台詞のくどさが気になるが、ここでは、絵里子の反駁を引き出させるものとして理解しておこう。
「学芸会で何が悪いのよ。これだけは、18の時から止められないの」
これが、絵里子の反駁。
当然ながら、絵里子は、外部の人間の「不法侵入」によって、「理想家族」が破綻の危機に陥る事態を恐れている。
と言うより、絵里子の自我は、自らが仮構した「理想家族」のパワーの脆弱性を認知しているから、余計、「笑みで包んだ反駁」を必至にするのだろう。
なぜなら、絵里子の「理想家族」の内実は、「何事もつつみ隠さず、タブーを作らず、できるだけ、すべてのことを分かち合う」というルールで糊塗しているが、「無菌室」のイメージの時空を繋いできただけで、その本質的矛盾を、「完全解放系」のルールのうちに飛び交う「タブーの言辞」の放出によって拡散させているだけのこと。
「学芸会」という表現は、まさに言い得て妙だった。
「ウチ、逆オートロックだからな」
このコウの表現は、「理想家族」の本質的矛盾を衝いていた。
外部の人間の「不法侵入」への警戒感以上に、母が作ったこの「理想家族」には、寧ろ、家族内部に潜む「見えないオートロック」が存在している現実こそ、厄介な何ものかである。
要するに、外部に対して閉ざされている普通のオートロックではなく、本来、裸形の自我を晒すことで、往来自由の「特権」を手に入れているはずの家族内部で、成員の「秘密」を隠し込むための「見えないオートロック」が作り出されているということ。
これが、家族の心を散り散りにさせる危うさを内包していると、コウは感受したのだろう。
一見、「完全解放系」の「理想家族」のルールを遵守せねばならないという縛りこそ、「窓のないラブホテルの部屋」のように、内側からの往来自在の「出入り口」を持たない、「家族ごっこ」の「閉塞性」をシンボライズするものだったということか。
従って、「隠しごと禁止」という、「京橋家限定」のルールを作ってしまったが故に、肝心の絵里子の特殊なケースを含めて、皮肉にも、京橋家の他の3人の家族成員が、京橋家を離れるや、「窓のあるラブホテルの部屋」を求めるように、個々相応の「隠しごと」の「完全解放系」の世界で、存分に呼吸を繋ぐ事態を必然化することを意味するだろう。
それは、「学芸会」という拙劣な「お芝居」の時空から、見え透いた「役割」の欺瞞の垢を落とす洗浄のイメージに近い。
こんなルールを完璧に守り切れるほど、人間の自我はメカニカルに構造化されていないからだ。
「孤独と死への恐怖」から家族を作ったという岸田秀の家族論に倣えば、完璧な「単独者」として生きていけないからこそ、「安らぎ」だけが要請される、「パンと心の共同体」である現代家族の基本命題には、裸形の自我を晒せるスポットの安寧感の保証が求められるのである。
それ故、無理難題なルールで縛られた、「逆オートロック」の「理想家族」を延長するのは、メカニカルに構造化されていない人間の自我の能力の範疇では十全に処理し得ず、早晩、限界ラインの際(きわ)での突沸(とっぷつ)を約束させてしまうのだ。
2 「血の雨の被浴による浄化」へと変容していく、白尽くしの再生譚
記号的人物としてのミーナ |
記号的人物としてのミーナは、「理想家族」を破綻の危機に追いやる「役割」を閉じたら、故障したバスから、同乗するコウに別れを告げ、「スーパーウーマン」のように颯爽と飛び降りて去っていった。
「理想家族」の本質的矛盾を衝いた女の「役割」は、「理想家族」の「逆オートロック」の楔 (くさび)を解き放つという一点にしか設定されていないが故に、映画的には、もう、コウの家庭教師であるばかりか、もう一人のセフレ(セックスフレンド)の執拗な攻勢に脳まされる、夫・貴史の前からも姿を消すだろう。
家庭教師のミーナと共に、「窓のないラブホテルの部屋」を「見学」に行った、中学生のコウの建造物のプログラミングの趣味に変化がなくとも、「自立する中学生」と無縁な少年や、ショッピングモールで一日の大半を過ごしている不登校の娘のマナも、誕生パーティーでの「卓袱台(ちゃぶだい)返し」の勢いで、母に逆らいながらも、「自立行の旅に打って出る高校生」の心理的推進力を持ち得ない。
従って、「逆オートロック」の「理想家族」の息苦しさから、一時しのぎの「逃亡」を図った者たちが帰る場所は、一つしかない。
バビロンの空中庭園(ウィキ) |
皮肉にも、絵里子が待つ「疑似解放系」のスポットである。
然るに、「京橋家限定」の絶対規範の拠点は、今や、ルールの策定者である絵里子の「叛乱」が惹起しつつあった。
記号的人物としてのミーナによって、「理想家族」を破綻の危機に追いやられたことで、もう、「学芸会」という拙劣な「お芝居」を延長させることが困難になったからである。
「逆オートロック」の「理想家族」の造形的なマスクを剥ぎ取られてしまったら、裸形の自我を晒す以外にないだろう。
絵里子の自我の底層に封印されていた陰鬱な感情が、今、母に向かって放たれていく。
それは、それまで見せていた絵里子の相貌性と切れるものだったが、しかし、その相貌性こそ、彼女の人格の本質的な様態であった。
これが大きかった。
「お母さん、もう死んじゃえば」
「なよ子」とバカにされ、引きこもっていた少女期の事実を、それを知らない家族の前で放言され、遂に絵里子は、内側で封印していたネガティブな感情を表出するに至るのだ。
そして、絵里子もまた、誕生パーティーでの「卓袱台返し」のモメンタムで、畳み掛けるように攻め込んでいく。
「私が学校行けなかったのは、あなたの責任よ。母親はね、子供を愛して、肯定して、大切に育てて、いらない憎しみや悪意からちゃんと守ってあげて、正しいものや綺麗なものに目を向けさせて、絶望だとか恐怖だとか、そういうものから守ってあげるの。それが母親よ。そういう家を作ってあげるのが母親なのよ!あなたなんか、母親になるべきじゃなかったのよ。母親失格。・・・今度生まれ変わって来たらさ、あたしがあなたの母親になって、ちゃんと育ててあげるから、だからもう死んで」
その間、母は、「繰り返し、やり直し」という言葉を、呪文のようにリピートするだけ。
「自分の記憶を良い方に書き換えているのよ」
フェスティンガー |
この母の言葉は、心理学的に説明すれば、アメリカの心理学者・フェスティンガーの言う、「認知的不協和理論」に包括される言辞であると言っていい。
不快な継続力を有する、心の中で生まれた矛盾を解消するために、自分の都合のいいように、自我が解釈の再構成を行うという、フロイト流の「防衛機制」の心理技法である。
娘の「攻撃限界点」の侵攻を、「繰り返し、やり直し」という言葉によって相対化した母が、程なく、ICU(集中治療室)のペイシェントとなって、そこに見舞いに来た兄から、絵里子と母の関係が良好であった事実を知らされるに至った。
そんな折、コウの行方が知れない事態が出来する。
5月18日のこと。
夜の10時過ぎても、コウは帰宅していないのだ。
コウの行方を知っていると考えた絵里子は、コウの家庭教師のミーナの所在を、夫の貴史から確認しようと連絡する。
これが、夫の反応だった。
当然の如く、絵里子は激昂する。
「あんたのバカげた告白なんて聞きたくないの。わざわざ、自分の秘密語って、自分だけ守らないでよ!秘密を持たないという我が家のルールを守ってよ」
不安な時間の中で気を揉む絵里子の元に、突然、母から電話がかかってきた。
「夢見たのよ、夢。いつだったか、あんたがさ。私は誕生日に、家族からおめでとうって言ってもらったことがないって、わんわん泣いたの覚えてる?私は正直、分け隔てしたことないんだけどね。それでさ、はっと思ったら、今日18日じゃない。12時過ぎる前にと思って、慌てて、入れ歯はめて電話したのよ。お誕生日、おめでとう・・・これでゆっくり眠れるよ」
点滴スタンドを傍らに置き、病院の公衆電話から、娘の誕生日に、自分の思いを伝えたくてかけてきた一本の電話。
コウの行方が分らず、苛立っている絵里子は、恐らくいつもそうであるように、自分の誕生日を忘れていた。
「私はどこで仕込まれたの?命を授けられた場所。出生決定現場」
ここで絵里子は、「京橋家限定」の会話を、安心して電話を切ろうとする母に、唐突にぶつけていく。
絵里子の表情は、一変している。
会話の内容の尖りのうちに、それを必死に弄(まさぐ)る真剣な情動が乗せられていた。
「バカ。そんなこと聞くもんじゃないよ。本当に大事なことはね、お墓の中まで持っていくものだよ」
母の反応には、本人の意思とは無縁に、「京橋家限定」の会話の欺瞞性を衝く重量感があった。
ここで「間」ができる。
「分った?」
母から確認を求められた娘は、素直に「うん」と反応する。
明らかに、娘は、母の柔和な情感ラインのうちに吸収されていた。
それは、「お母さん、もう死んじゃえば」という悪意を身体化した女の、心の封印を解いた激しい情動と切れていた。
自らの内側の劇的な変化を表現する術がない絵里子は、弾丸の雨が暴れるベランダに出て、この雨を全身に浴びるのだ。
「思い込んでいると、本当のことが見えない」
コウの言葉が、絵里子の脳裏をよぎった。
鮮血の赤を浴びて、叫びを上げる絵里子。
絵里子の叫びは止まらない。
いつしか、絵里子の全身を嘗め尽くす弾丸の雨の風景は、「血の雨の被浴による浄化」へと変容していく。
絵里子の自我を呪縛していたネガティブな感情が、溶けていくようだった。
溶けていったのは、母に対する「許しがたさ」に集合する感情である。
その感情が決定的に反転していく心的行程と軌を一にするように、京橋家の戸外でも、風景の変容が起こっていた。
京橋家の他の3人が帰宅して来たのである。
絵里子は緩やかな歩みで、玄関に向かっていく。
京橋家の帰宅者の中には、当然、絵里子の心配の種だったコウもいる。
それぞれ、白いチューリップ(コウ)、白い熊のぬいぐるみ(マナ)、そして、ケーキの入った白い箱を手に持つ夫からの、絵里子への誕生日プレゼントが用意されていた。
それは、鮮血の赤を浴びながら、産声を上げる胎盤回帰を経て、「再生」して生まれ変わった絵里子への象徴的絵柄であるだろう。
「おかえり」
フェードアウトした画面の白の中で、元気良く放たれた絵里子のラストカットで、物語は閉じていった。
3 「心の共同体」としての現代家族の生命線
かなり極端な設定だが、「一切は母が悪い」という強い「思い込み」を延長させてきた娘が、その少女期までの暗欝な経験の中で、「孤独」と「死」への恐怖から、脱却していく自己像を立ち上げていくのは、「諸悪の根源」としての母との関係の中で作られた「家庭像」を、全人格的に払拭していく以外になかった。
その結果、仮構された「理想家族」というイメージに、一切を収斂させていく。
しかし、「諸悪の根源」であった母との関係が、自分の強い「思い込み」に起因すると知ったとき、それまで仮構してきた「理想家族」を延長させていくには、もう一度、根源的に「現在の京橋家」の様態を凝視する必要があった。
結局、「家族再生」のイメージを持ち得たのは、形式的ルールによって縛られた家族成員が内包する「秘密」が、現代家族の本来的な生命線である、「情緒の共同体」を破壊する危うさを持っていなかったことに尽きるだろう。
夫の浮気 |
子供たちの「秘密」は、ごく普通に見られる現象であり、まだ同時に、夫の浮気は、妻との関係の中で満たされないストレスの発散であるとも考えられる。
物理的共存を深めるほど、関係は中性化するので、「性の脱色化」は時間の問題だったとも考えられなくもない。
「パパ、ちゃんとママのこと、愛してあげてる?最近、何か変なんだよね」
「京橋家限定」の会話の延長上の娘の問いに、父は、長々と自分の思いを語っていく。
「大学止めて、北海道自転車一周の夢あきらめて、腹くくって結婚して、団地の部屋見つけて、必死で仕事探して、ちょっとでもええ仕事があったら、それに飛びついて、恥を忍んで親に金借りて、遊んでも朝にはちゃんと帰宅して、ママはもう5年間、チューすらさせてくれへんけど、でもな、そんなんしてまでも、あのしょーもない団地の家守るなんて地味なこと、愛がなかってできるかい!」
正直な吐露だろう。
それにしても、この説明的な台詞のくどさ。
こんな台詞なしに、観る者は、浮気夫の真情が理解できているのに、ここまで語らせてしまう演出に、私は大いに違和感を持つ。
なぜ、もっと観る者に考えさせないのか。
正直、観る者の思考力を奪う邦画の甘さに辟易する。
「理想家族」 |
ともあれ、この家族の「再生」を可能にしたのは、京橋家の情緒的結合力が自壊していなかったこと。
それが全てだった。
だから、少しくらい「秘密」があってもいいのだ。
「パン」の問題を、大方、克服した現代家族の求心力は、「情緒」の紐帯の継続的な安寧を確保する方向に流れていかざるを得ないだろう。
今や、現代家族の求心力は、「パン」の確保のためのものではなく、「心の共同体」の能力の有無こそが生命線となったのだ。
そこでは、気の合わない家族と共存する思いは、より稀薄化されていく。
そこでは、気の合わない家族と共存する思いは、より稀薄化されていく。
ゲップが飛び交い、放屁と鼾(いびき)が宙を舞い、裸の肉塊が空間をよぎっても、誰もそれを不思議に思わないような空気が、そこにある。
このことは、現代家族の使命が、子孫の継続的伝承という中枢のテーマを除けば、「愛情」と「援助」の自給という二本柱に拠っていることと関係する。
愛情は、「共存感情」と「援助感情」をコアにする。
愛情は、「共存感情」と「援助感情」をコアにする。
情緒的共存度の深化が「援助感情」を濃密に育て上げ、物理的・精神的援助の供給を可能にするのである。
家族には、ときめきも緊張も昂揚も不要である。
ただ、「安らぎ」だけが要請されるのである。
家族とは、大いなる「安らぎ共同体」なのだ。
緊張の発生はあっても、殆ど一過的なものでなければならない。
そこで、一過的に成員の関係の均衡を崩すことはあっては、時間の自然な経過のうちに関係の修復が為されていなければなら ないし、そのレベルでの緊張の発生でなければならないのである。
だから、誰も家族の崩壊を簡単に信じたりはしない。
だから、誰も家族の崩壊を簡単に信じたりはしない。
成員の自我の安定 が、その家族に深く依拠しているからだ。
自らが依拠する基盤を、誰が好んで壊したりするだろうか。
家族の復元力を信じるからこそ、人はそこに甘えるのである。
緊張の発生も、早晩、中和され、本来それがあるべきところのものに、予定調和的に導かれていくに違いないことを、誰もが信じているのである。
この共同幻想の力が、成員の自我をたっぷりと洗浄する。
この共同幻想の力が、成員の自我をたっぷりと洗浄する。
自我を裸にするということは、こういうことなのだ。
そして、言葉の真の意味で、京橋家という名の家族は、自我を裸にする時空の律動感を感受する、特化されたスポットとは切れていた。
それでも、「情緒」の紐帯の継続的な安寧を必要とする思いまでもが、それぞれの家族成員の中で遺棄されていなかった。
だから、ハッピーエンドに繋がったという風に考える以外にないようである。
思うに、「孤独と死への恐怖」から、確信的に「理想家族」を仮構した絵里子の「城」には、常に「逆オートロック」の楔(くさび)が打ち込まれていて、それが絶対規範の本質的矛盾を晒していたが、然るに、その〈内的状況性〉を、「理想家族」を求める思いの強さと解釈すれば、絵里子の自我に巣食う「病巣」が払拭されることで、無難な軟着点に振れていく可能性を、あながち否定することもできないだろう。
4 「思い込み」という一語によって収斂させてしまう「赦しがたさ」の軽量感
本稿の最後に、本作を通じて、私の中で最も違和感を覚えた点だけを書いておきたい。
ディスカバリー・センター |
更に、説明的な台詞のくどさ(ヒロインのモノローグや、娘に対する浮気亭主の吐露)と、あまりにベタな伏線描写(「産まれてくるときは、皆、泣きながら産まれてくるんだよね。血塗れでね」と、「バビロンへようこそ」)等々、幾らでも挙げられるが、これらを、「理想家族」の崩壊と再生をテーマにした「ブラックコメディ」と括れば、我慢できなくもない。
それにしても、この「血の雨の被浴による浄化」という伏線描写など、全く必要がない。
母親の子宮内の羊水の中で、頭を下にした状態で育った赤ちゃんが、血塗れの状態で産まれてくるのは、当然のことではないか。
だから、「血の雨の被浴による浄化」のシーンが、何をメタファーにしているのか誰でも分ることだろう。
こういう余計な描写が、この映画が、実はシリアス基調なのに、ごてごてな絵柄を挿入することで、何でもありの「ブラックコメディ」として、敢えて、テーマを拡散させるような視覚刺激のうちに物語を流し込んでしまうのだ。
これは違和感と言うより、不快感と言っていい。
閑話休題。
何より、私の違和感は、以下の点に尽きると言っていい。
豊田利晃監督 |
それを一言で言えば、「映画化するに当たっては『抽象的な表現は避けるように気をつけた』」、「テーマから画づくりをした」(シネマカフェ)という作り手の言葉で検証できるように、過度の説明的な台詞の連射によって、物語の基幹メッセージを無媒介に見せてしまう分、より視覚刺激満載の絵柄をパラレルに提示することによってしか、観る者に映像的インパクトを与えられなかったという点である。
本来なら、映像的インパクトは、視覚刺激によってのみ生み出すものではなく、あくまでも、テーマの表現の深さによって提示されるべきものなのではないのか。
その辺りの瑕疵を最も感じられたのは、まさに、基幹テーマに関わる関係描写である。
即ち、この物語展開のキーワードとなっている、「思い込み」に関わる母子関係の感情的縺れによる落差が、ラストシークエンスでの軟着点に至るまでのエピソード挿入の中で、母に対するフラットな「糾弾」の台詞の畳み掛けだけであっさり済ませてしまって、兄との会話や、息子コウが指摘する、「思い込み」という台詞の取って付けたような伏線的挿入を挟んでも、そこに、深い内面的掘り下げを構築的なショットのうちに結ばれていなかったように思われるのだ。
本来なら、この「思い込み」による縺れを解していくに足る、必要な心理描写を不可避とするはずなのに、その問題意識を意に介さず、そこに生まれた物語の空白を、視覚刺激満載のホラー紛いの絵柄で埋めていくという手法。
この過剰な演出が、私の違和感の根柢にある。
何より、ヒロインの「血の雨の被浴による浄化」を導いた人物である、当の母親の人物造形の不可解さ ―― 私の違和感の根柢には、これがある。
左からさと子、コウ、ミーナ |
自分の娘を「なよ子」と呼び、「引きこもり」の過去さえバラして見せるばかりか、あろうことか、「死にぞこない」と自称しているにも拘らず、孫の家庭教師の女とバトルを繰り返すほど、開けっ広げで度胸が据わった、アクティブな性格傾向の持ち主が、娘の少女期に限ってなのか、たとえ、ろくでもない亭主を持ったディストレスに起因する反動であったにしても、件の娘の自我に深刻なトラウマを刷り込むような養育、例えば、精神的・肉体的虐待の常態化とか、或いは、過干渉・過保護による占有感情の暴走等々に大きく振れる、ネガティブなキャラクターイメージと全く結びつかないのである。
思うに、娘から「もう死んじゃえば」とまで悪態をつかれた母が、物語の終盤で、突然、「慈愛に充ちた母」に化け切っていくという印象を与えるような、重量感溢れる決定的なエピソードをインサートするならば、「理解力ある鑑賞者」を前提にした多くの観客に、「ブラックコメディ」の「映画的自在性」の範疇で処理することを求めない限り、この母の得体の知れないキャラクターイメージの統合性において、心理学的な説得力を持ち得ないのだ。
母・さと子と息子のコウ |
恐らく、開けっ広げで、誰に対しても本音を言ってしまうこの母の性格傾向は、一貫して変わらなかったであろう。
それ故、思春期の娘を育てる時期に、平気で娘を傷つけるような「暴言」を吐いたであろうことは容易に想像できる。
傷つけられた娘は、あまりに性格の違う母との圧倒的な心理的距離を感じ、その距離感が嫌悪感にまで膨張していく心的行程の中で、「母親失格」というラベリングが加わって、「母に対する憎悪」が、娘の自我の深いところに張り付いてしまったのだろう。
それらの集合的感情が、長年にわたる母への「赦しがたさ」に繋がったとしか考えられないのである。
だから、この母子関係の根柢に横臥(おうが)しているのは、両者の感情的縺れに起因する「思い込み」などではなく、単に、性格の不一致による、母に対する娘の嫌悪感情が継続力をもって、憎悪に近い感情にまで膨張していっただけなのだ。
そして、この感情が、18日の夜の母からの電話によって「浄化」されただけで、特段に、「血の雨の被浴による浄化」という、大袈裟なショットのうちに軟着させるような話ではないのである。
少なくとも、私には、そう思われる。
それが、呆気ない程の「母子和解」のショットを印象づけたのである。
大体、過去の「深刻なトラウマ」を引き摺っているはずの娘が、それによって母との物理的距離を堅持することで、「断絶状態」を延長させ、自我の安寧を守ってきたにも拘らず、あろうことか、末期癌に苦しむ母に対して、「もう死んじゃえば」とか、「あなたなんか、母親になるべきじゃなかったのよ。母親失格」と言ってのける馬力が備わっているなら、「諸悪の根源」との軌道修正、或いは、関係の最低限の「修復」を果たし得る微調整を果たす機会は、これまでも幾度もあったはずである。
しかも、兄の話だと、母娘関係が良好だったという事実。
しかし、この兄がイメージした実感的事実を受容しない娘の、母に対するネガティブな、本来的に一過的な情動が継続力を持ち得るのは、そこに、愛情関係が途絶した母子の感情ラインが凍結した状態で、娘の自我をロックドイン(意思疎通の完全遮断)されている〈状況性〉を不可避とするだろう。
ところが、本作のヒロインを、「血の雨の被浴による浄化」によって救済する、大袈裟なショットの挿入を導いた人物との「和解」が、そのヒロインの誕生日を祝う1本の電話で氷解する程度の「深刻なトラウマ」を、この映画は、前述したように、「思い込み」という、殆ど論理的過誤と言っていい一語によって収斂させてしまうのだ。
決して駄作とは言わないが、少なくとも私には、この作り手の作品からは、残念ながら、シャープな人間洞察力を感受させるような、映像構築力の力量を感じられなかったのは事実である。
(2013年7月)
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