2013年6月16日日曜日

必死剣 鳥刺し(‘10)     平山秀幸



<「葛藤・内省描写」の不足によって失った生身の質感を有する人格像の厚み>




1  「葛藤・内省描写」の不足によって失った生身の質感を有する人格像の厚み



映像総体には特段に破綻がなく、客観的には佳作と評価できるかも知れないが、私としては不満の残る作品となった。

何かが足りないのである。

その何かの不足のために、物語の訴求力が低下したことで、観終わった後の「言外の情趣」も拾えず、単に、「よくまとまった作品」以上の好印象を持ち得なかったのである。

何が足りなかったのか。

それを一言で言えば、主人公・兼見三左エ門(以下、兼見)の内側深くに迫っていくような「葛藤・内省描写」である。

「葛藤・内省描写」の不足によって、兼見の人格像に「厚み」が感じられず、「寡黙の美学」を印象誘導しただけの表層的な人物像しか持ち得なかったのである。

葛藤とは、内側に相反する感情が同時に出来し、それが、他の因子をも包含して、複雑に絡み合う心理状態のことである。

複数の異なる感情が、一人の人間の内面で衝突することで、往々にして、自我の内部で苛烈な火花を散らすのだ。

「葛藤・内省描写」の成就が、生身の質感を有する人格像に結ばれていくことで、多くの秀逸で、緊張感のあるドラマが構築されるのである。

葛藤なくして、人間は前に進めない。



兼見三左エ門
前に進めない心理的背景に、〈生〉に対する執着心の不足が関与するとも考えられる。

確かに、この性格傾向は、本作の主人公・兼見の人格像の肝に当ると思えるほど、その人物造形が際立っていたことは否定しない。

しかし、反転して考えれば、〈生〉に対する執着心の不足を強く印象付けるような、的確なシーンのインサートによる「葛藤・内省描写」が必要となるだろう。

本作では、それを拾うことも難しかった。

〈生〉に対する執着心の不足を強く印象付ける兼見の心象風景が、愛する前妻・睦江の逝去によって形成された感情であることが、幾つかの回想シーンで提示されていたが、その提示もまた、あまりに表層的だったからである。

帯屋隼人正
この辺りの「葛藤・内省描写」を不足させて、フラットに延長された物語は、「正義」と「正義」との直接対決(兼見vs帯屋)を経て、「悪の元凶」を「必死剣」で屠って自壊していくまでの、言わば、「静」から「動」に決定的に変容する、ラスト20分の「爆轟(ばくごう)と炸裂」のシークエンスのうちに収斂されていくが、私としては、「中途半端なミステリー」を優先させたことで失った代償を考えるとき、やはり本作は、巧みに演じ続けた俳優たちの生身の質感を活かし切れない、シナリオの瑕疵に起因する構成力の問題を無視できないのである。

ここで言う、「中途半端なミステリー」とは、死を覚悟したテロの遂行による処分があまりに寛大であり過ぎたことや(一年の蟄居閉門と禄高の半減化⇒地位と碌の回復)、近習頭取(主君の傍らにあって、秘書的な仕事に携わる者)の地位に復職させながら、兼見の顔を見ることを嫌悪する暗君のシーンを重ね合わせると、陰謀の仕掛け人が津田民部であるということが容易に想像できるにも拘らず、一貫して、この主人公・兼見は、処分の「理不尽なまでの軽さ」に疑念を抱きつつも、津田民部の意のままに動き、「テロリスト」としての「役割」を担ってしまうのである。

以下、津田民部から、「テロリスト」としての「役割」を求められる決定的シーンを想起したい。

「思うに、その剣を使うときには、半ば死んでおりましょう」

津田民部
件の津田民部から、誰も見たことがない「鳥刺し」が、なぜ「必死剣」と呼ばれるかと問われた際の、兼見の答えである。

誰も見たことがない「鳥刺し」の情報を、津田民部がどのように手に入れたかについて疑問に持つところだが、ここは若気の至りで、友人の「誰か」に語ったということでスルーしよう。

「それでも、必勝の技に違いないのだな?」

念を押す津田民部。

首肯する兼見。

兼見が、直心流の達人、帯屋隼人正の殺害を命じられたのは、この直後だった。

かくて、津田民部の差配によって、近習頭取の地位に復職した兼見は、民部の意のままに動き、使役されていく。



2  「政治のリアリズム」に精通していなかった者の現実離れしたロマンチシズム



本篇で語られる映像には、重要な台詞が拾われていた事実を忘れてはならないだろう。
  
 「津田様は、よほどお主が気にいったんだなぁ。お主の処分を決めた執政会議でも、一度は斬首に決まった流れを、津田様の一言が変えたと聞く。上様を説き伏せたのも、津田様とのこと。いずれは、筆頭家老も間違いあるまい。藩はこれから長く、津田様の時代になるだろうなぁ。お主の出世も間違いなしだ。連子様を斬ったお主が立派であったのだ。とは言え、お主がやったことが、本当に報われたどうかは疑問だが…」
  
兼見保科十内
これは、蟄居(ちっきょ)閉門が解けて、現在は、元の役職の近習頭取に復職した兼見に語る、友人の物頭・保科十内の言葉である。

普通、これだけの内輪話を耳にすれば、自分の処分を軽微にした津田民部の意図が、どこにあるかということが判然とするはずなのに、「正義派」の帯屋の殺害を命じられた兼見は、唯々諾々と津田民部の手先になって、主君に会いに来た帯屋と斬り合い、彼を殺害するに至るのだ。

恐らく、その辺りの事情に流れる漠然とした危惧を察知していたからこそ、保科は兼見に、「お主がやったことが、本当に報われたどうかは疑問だが」という言葉を添えたのだろう。

津田民部
決して、友人の兼見に対して、嫌味含みで語った訳ではないが、藩の複雑な事情に通じている保科には、「政治のリアリズム」が理解できているのである。

だが、「連子殺し」で溜飲を下げている藩士にとって、能のステージで酔い痴れていた直後のテロは、斬首を免れない「狂気の沙汰」とも言うべき行為だったが故に、そのテロを遂行した兼見への視線には、「命を賭けた義挙」に喝采を博する心情が張り付いていたはずである。

保科もまた、そんな藩士の一人だっただろうが、「命を賭けた義挙」への処分の軽さを鑑(かんが)みるとき、「このままで済む訳がない」という思いを強くしていたと考えられる。

そんな保科と比較すると、兼見の見識は、あまりに「政治のリアリズム」と無縁であり過ぎた。

甘いのだ。

帯屋隼人正と兼見
その甘さが、ラスト20分の「爆轟(ばくごう)と炸裂」のシークエンスに入り込むに及んで、初めて、津田民部の陰謀を知るという鈍感さは、決して「主君絶対」という、中級武士(注)の制約の状況性の悲哀の文脈によって説明し得る範疇を越えて、殆ど、「政治のリアリズム」に精通していない、現実離れした拙いロマンチストの極致と言っていい。

しかし、ここで私はハタと考えてしまう。

あのとき、兼見には、一体どんな選択肢があったのだろうか。

思いも寄らない軽い処分を無視して、勝手に自害したならば、兼見の縁者に害が及んだであろう。

連子と藩主・右京太夫
「主君絶対」という武家倫理の不文律の中で、しばしば暗黙裡に遂行された、「主君押込」という名のクレバーなクーデターの手段を選択するには、せめて、目付クラス以上の身分の高い幹部級でないと困難であるだろう。

然るに、「主君押込」は最後の手段であって、簡単に伝家の宝刀を抜けるものではなかった。

従って、兼見のように、限りなく上士に近い中級武士の身分であったとしても、「主君絶対」の武家倫理の中で呼吸を繋ぐ者たちには、藩の財政を逼迫させる、連子という藩主の側室を屠っていく手段は、結局、あの行動以外にはなかったのかも知れない。

そして兼見は、自分の命を引き換えに「白昼のテロ」を遂行した。

兼見の選択肢の中で、彼は最も分り易く、「死」を予約できる「白昼のテロ」を遂行したのである。

だが、生き残されてしまった。

もう彼は、中老職の津田民部の野心の具現のために動いていく、取って置きの道具としての役割を果たす以外になかったのである。

元気だった頃の妻(中央)と、右は兼見の世話をする里尾
もし、兼見が妻の逝去によって、生きる望みを断たれていたとすれば、藩に迷惑をかけないという戦略の下に、病死を装って自害するしかなかったのではないか。

しかし、もう手遅れだった。

ラスト20分で露わになった、「政治のリアリズム」の痛烈な洗礼を受けた兼見は、裏切られた者の憤怒を炸裂させた後、ほんの少し遅れただけの「死」の運命を辿っていったのである。

残念ながら、「政治のリアリズム」に精通していなかった者の、現実離れした拙いロマンチシズムを晒しながら、彼は絶命していく人生を閉じていったということである。


(注)庄内藩の事例で言えば、100石以上の碌を得ていたら上士とされる。まして、200石以上の碌があれば下級武士と言えない。



3  「寡黙の美学」という名の、「死に狂い」せんとした「真情」を「担保」にされた男の脆弱性



蟄居閉門中の男の「寡黙の美学」
ミステリー仕立ての構成によって、「葛藤・内省描写」が捨てられた物語の不具合を回避するためか、そこに整合性を持たせるために、主人公の人格像の肝に、そこだけは存分の訴求力を持たせたような「寡黙の美学」を張り付けていく。

恐らく、この辺りが、「武士道」という、この国にまともに形成・確立したことがない、厄介な幻想を信じる年配の観客たちの心を捉えたことで、一部で高い評価を得たのだろうが、これは的外れの見方という外にない。

「寡黙の美学」とは、単に、「黙りこくる」というだけの意味しかない「黙して語らず」ではなく、「不必要なことを語らない」ということである。

だから、「語るべきときには語る」という態度こそ、「寡黙の美学」の本質である。

然るに、主人公・兼見は、「連子殺し」の目的を真摯に問いかけてきた菩提寺の尼さんに対しても、「黙して語らず」という態度を貫いたのだ。

何の利害関係もなく、ただ、人間としての根源的疑問を提示してきた人物に対する兼見の態度は、不誠実という外にない。

「死に狂い」せんとした自分の「真情」を、相手が勝手に理解できないと判断しても、「武士」という厄介な記号を捨てて、人間としての「心情」の一端を吐露すべきであった。

まして彼は、まもなく、「政治のリアリズム」に捕捉されていくのだ。

狡猾なる「政治のリアリズム」
「死に狂い」せんとした「真情」を「担保」にされた男の脆弱性が、ここから醜悪なまでに露わにされていくのである。

「寡黙の美学」という幻想など、木端微塵に砕ける事態に立ち会って、初めて「政治のリアリズム」の怖さが理解できても遅いのだ。

「寡黙の美学」という印象誘導の挿入の方略は、単に、ミステリー仕立ての構成を壊さないための、「葛藤・内省描写」を相当程度、希釈化させてきた物語の言い訳でしかないのである。

しかし、それが充分に表現されていなかったために、反転して、「政治のリアリズム」が理解できない男の脆弱性が際立ってしまったということか。

以下、括りとして一言二言。

平山秀幸監督
正直言って、とかく説教に振れやすい傾向がある、山田洋次監督の「時代劇三部作」(「隠し剣 鬼の爪」は例外)とは切れて、同じ藤沢周平の作品でありながら、山田監督が回避してきた「エロティシズム」や、血糊を使ったアナログな撮影による血飛沫の画像の挿入、或いは、「予定調和の物語」のうちに流れない本作を観る限り、私自身、どちらかと言えば、平山監督のリアリティ溢れる殺陣のシーンに賛同する思いが強いが、しかし、縷々(るる)書いてきたように、本作を佳作と評価しながらも、どうしても受容できない瑕疵があったので言及してきた次第である。

思うに、四人の主要登場人物に特化して描いたヒューマンドラマの傑作と評価して止まない、「しゃべれども しゃべれども」(2007年製作)の秀逸さを考えるとき、誰一人、「捨て駒」になるような人物造形に流れることなく、それぞれが抱えた内面世界を、的を射た「葛藤・内省描写」によってまとめあげる力量を示した作り手であるならば、難しい状況に置かれた本作の主人公の心象風景を、精緻に描き出すことが可能だったであろう。

それが惜しまれてならないのである。

(2013年6月)






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