2013年5月3日金曜日

暗殺の森(‘70)        ベルナルド・ベルトルッチ



<「正常」と「異常」という、薄皮の被膜一枚で繋がれた厄介な問題から逃れられない人間の脆弱性>




 1  「正常」と「普通」という記号を手に入れんとする男の防衛戦略



スタイリッシュな映像美の鮮度が全く剥落することがないのに驚かされるが、何より特筆すべきは、スタイリッシュな映像が提示した絵柄が、圧倒的な色彩感覚による対比効果や、緻密な光線支配の陰翳感の強度に補完(ヴィットリオ・ストラーロの力量の出色)されることで、物語の主人公の内面の揺動を表現する構図への変換に成就し、それが、際立つ芸術性を確保し得ていたということに尽きる。

シナリオの構成力に不満が残るものの、説明的台詞を削ぎ落した構築性において、まさに、本作は「映像」と呼ぶに相応しい一篇だった。

ここでは、「正常」の象徴としてのファシストにも、「普通」の代名詞としての大衆にも同化し得ず、その人生の総体のうちに、観念的・実存的意味を付与することが叶わなかった男の究極の孤独の様態について言及したい。

男の名は、マルチェロ・クレリチ(以下、マルチェロ)。

大学の講師として一定の社会的成功を収めたマルチェロは、盲目の友人イタロを介し、ファシスト党に入党するに至った。  

「なぜ、誰もが我々に協力したいと思うね?恐怖から協力する者。金が目的の者も多い。だが、ファシズムの信奉者は少ない。君は違う。君の動機は全く別だ。君の目的は何かな?」

これは、マルチェロと面接した際の、ファシスト党政権の官房長官の言葉だが、本質を衝いていて了解可能。

ともあれ、「君の動機は全く別だ」と言いながら、マルチェロの入党の真意を計り兼ねていても、直ちに任務を遂行したいと反応する男に、結局、ファシスト党政権は重要な任務を与えるに至ったのである。

マルチェロ
そこだけは明瞭に答えなかった、このマルチェロの「動機」とは何か。

それを一言で言えば、その自我の奥深くに抱える否定的自己像を払拭するためである。

マルチェロが抱えた否定的自己像を構成するのは、以下の二つのネガティブな情報に要約される。

一つは、恐らく、ミュンヘンでヒトラーの演説を聞き、ナチズムの攻撃的暴力に関与したことが原因で精神を病み、その無機質な白の石材で囲繞された精神病院に捕捉されている父と、お抱え運転手を愛人に持ち、夫の死を平気で口外する、モルヒネ中毒に罹患している母。

「正常」や「普通」というイメージと乖離した、こんな両親の血が自分にも流れているのではないか。

それが、気の弱い男の恐怖感を再生産させているのである。

マルチェロのトラウマ
もう一つは、13歳のとき、友だちからの虐めの現場を救ってくれた、ファシスト党員のリノという男の自宅に連れられた挙句、性的虐待を受けたリアクションで、その男から渡された拳銃で、思わず射殺してしまったという、言語を絶するネガティブな記憶であり、この「事件」が13歳の少年の自我を食い潰すほどのトラウマと化していたこと。
    
後者こそ、マルチェロが抱えた否定的自己像の核心を成していたと言っていいが、この二つは、マルチェロの内側で、決して切り離される類の何かではなかった。

この二つのネガティブなイメージを繋ぐ観念 ―― それを「狂気」への恐怖感と呼んでいい。

マルチェロの自我には、この恐怖感が内側にベッタリと張り付いていて、それが、いつ炸裂するか分らない不安に怯えていた。

彼の場合、この恐怖から自我を守る戦略は一つしかなかった。

精神病院で(左から父、マルチェロ、母)
それが、「正常」を象徴するファシスト党への入党と、それによって「普通」の代名詞である大衆に同化することだった。

だから彼は、異性感情を持ち得ないにも拘らず、知的レベルにおいて全く不相応なジュリアと結婚する。

そのジュリアの自宅に訪問したときの印象的なエピソードがある。

「“お嬢様とクレリチ氏の結婚は、過ちよりひどい。犯罪行為です。クレリチ氏の父親は精神病院に入院中だが、原因は梅毒です。遺伝性の病気なので、結婚は中止すべきです”」

 この匿名の手紙を読むジュリアに対して、マルチェロは、即座に「検査を受けます」と反応するが、全く取り合わないジュリアの母。

彼の表情は、「遺伝病」という言葉に鋭く反応し、必死に抗弁するのだ。

この一件は、後に、妻のジュリアが60歳の叔父と、6年間もの間、インセストの関係を延長させていたが故に、匿名の手紙の主が件のであった事実が判明するが、大学時代の恩師・クアドリ教授に対する情報収集という密命を受けたマルチェロが、恩師が亡命しているフランスへの新婚旅行を装う旅の中で、新婦ジュリアから、インセストという由々しき事実を聞かされても、特段に動揺しないの反応を見れば、新婦への愛情の脆弱さが露わにされていた。

一切は、「正常」の記号を手に入れるための生き方なのである。

そんなマルチェロが、盲目の友人イタロと会話する重要なシーンがある。   

盲目の友人イタロ
「秘密警察の仕事をする気分は?」とイタロ。
 「君に話した“正常”な人間に、やっとなれた気がする」 
 マルチェロは、そう答えたあと、イタロに問いかける

 「君にとって“正常”な人間とは?」
 「正常な人間は、通りを行く美人の尻を振り返って眺めて、それが自分だけではなく、他にも5.6人いると知り、満足する。自分に似た人間がいると満足する。自分と同じ人間が好きで、自分と違う人間を警戒する。正常な人間とは、真の兄弟。真の愛国者」

 このイタロの分りやすく、的確な反応に、マルチェロは間髪を容れず答えた。

 「真のファシスト」

マルチェロにとって、「真のファシスト」に化けることだけが、「正常」の記号を手に入れる唯一の防衛戦略だったのだ。

新婚旅行前の、司祭への告白のシーンも、この文脈で了解可能である。

「何とか、私の正常さを作りあげたい」
「信仰の中に」
「信仰とは離れて。神は優しい。聖母は情け深い。キリストは慈悲深い」
「罪を悔いなさい。赦しを乞うのだ」
「罪は悔いた。赦しは社会から受けたい」

13歳のときの殺人事件を告白する、容易ならない空気に驚く司祭に対して、マルチェロは、赦しを社会から受けることで浄化されると答えたのである。

「真のファシスト」に化けることによって、「正常」の記号を手に入れるというマルチェロの〈生〉の基本命題が、そこに収斂されるのだ。

だから彼にとって、「真のファシスト」に敵対する者たちに対する攻撃は、社会から赦しを受けることの最も可視的で、実感的な方略だったのである。

そこに、何ら特筆すべき属性を持ち得ない様態である、「普通」という概念の獲得こそ、「正常」の記号の検証であった。

「普通の市民」の感覚に最も寄り添い、それを強化する役割を果たすのが、「真のファシスト」に敵対する者たちに対する攻撃を身体化する行為でしかなかったということだ。

クアドリ教授(ラストシークエンスの「暗殺の森」で)
この把握のうちに、具現されていったのが、大学時代の恩師クアドリ教授に対する情報収集活動だった。

「反ファシスト」の記号を具現するクアドリ教授への、敵対的対峙を鮮明にする行為のうちに、「正常」の記号の実感的な獲得が可能になるという心理の様態は、もはや自明であるだろう。



2  冥闇の深い森の中枢に拉致された男の存在の喘ぎ



クアドリ教授との再会に成就したマルチェロは、クアドリ教授夫人のアンナの妖艶で、蠱惑(こわく)的な官能美に惹かれ、敵意を抱かれながらも男女の関係を持つに至る。

そんなマルチェロに、党の上層部から殺害指令が下り、マルチェロに同行する特務情報員のマンガニエロは、その機会を虎視眈々と狙っているが、肝心のマルチェロに任務遂行の強い意志が見えず、苛立つばかりだった。

アンナ(左)とジュリア
その間、ダンスホールを妖艶な舞いで占有するアンナとジュリアの、レスビアンをイメージさせる官能美は、ブルーで染められたマルチェロの内面世界と対極を成し、頽廃と近接する暖色系のゾーンに束の間潜入する男の情動の、優柔不断な振れ具合を露わにさせて、そこから開かれる風景の変容のシークエンスが鮮烈に提示されていく。

殺害指令の遂行から、せめて、アンナだけは救いたいというマルチェロの思惑が裏目に出てしまい、雪の白に鮮血の赤を染め抜く、「暗殺の森」でのシークエンスが開かれるのだ。

アンナを同乗させた車が、急停止した。

前方に停車している車のドライバーに異変を感じたクアドリ教授は、自ら下車し、様子を見に行く。

車内で不安視するアンナは、後方から追って来る車が気になっていたから、夫の振る舞いを止めようとするが、ヒューマニストの夫は他者の事故を放っておけないのだろう。

その直後、クアドリ教授は、森の奥から出現した幾人ものテロリストによって、繰り返し刺され、殺害されるに至った。

左からマルチェロ、アンナ、マンガニエロ
相貌の見えないテロリストによる夫の惨殺を視認し、震え慄くアンナは車外に出るや、後方に停車していた、マルチェロが同乗する車に駆け寄って、窓ガラスを激しく叩き、救いを求めるが、後部座席に座ったままのは動かない

視線が合っても動かない男の表情は、憐れみの感情とは無縁な、突き放したような酷薄さを露わにする。

本作のエッセンスが凝縮されているシーンであると言っていい。

黙殺する男の救済を断念した女は、静寂の森の奥深くに逃走する。

このとき、マルチェロを護衛する役割を担っていたマンガニエロは、憤怒の感情を抑えられず、マルチェロを睨みつけるや車外に出て、内的言語を激しく結ぶ。

「何て奴だ!どんな仕事もするが、卑怯者の相手はごめんだ。銃殺してやりたい」

雪の白に鮮血の赤を染め抜いて、アンナが銃殺されたのは、その直後だった。

1943年のこと。

マルチェロは、ジュリアと幼い娘と共に、一見、平和そうな家庭生活を送っていたが、時代の変化は目まぐるしく変わり、今や、ムッソリーニが失脚し、ムッソリーニを批判していたピエトロ・バドリオが、国王から首相に任命され、事実上、ファシスト党は自然消滅するに至った。

ジュリアの暗い表情
クアドリ教授とアンナの事件に拘り、時代の変化に不安を持つジュリアの暗い表情とは切れ、「私は義務を果たしただけだ」と答えたマルチェロは、イタロからの連絡があって、妻が止めるのを耳に貸さず、外出していった。

イタロと再会し、盲目の彼を連れ、夜の町を彷徨していたとき、聞き覚えのある言葉を耳にしたマルチェロの心は、一瞬にして凍結した。

その言葉の主は、彼が殺害したはずのリノだった。

振り返り、リノに迫るが、拳銃所持の一件も何もかも否定し、リノは、その場から走り去っていく。

あのときと同様に、少年に声をかけ、男色の行為を続けていたリノには、日時を特定されても、成人化したマルチェロの記憶の残像すらも生き残されていなかったのだろう。

リノとマルチェロ
確かな事実は、マルチェロの殺害行為の記憶が妄想に過ぎなかったことである。

リノから受けた、13歳のときの性的虐待の衝撃が肥大してしまって、憎悪が殺人記憶に変換されたまま、マルチェロの自我には、拭い難いトラウマとして張り付いてしまっていたのである。

最も由々しき過去の記憶が崩れ去っていったとき、それが心理的推進力になって、執拗に「正常」への同化に拘泥し、ファシストとしての自己像のうちに、否定的自己像を払拭する行為を繋いだ人生の根柢が揺らいで、もう、復元不能なまでに冥闇(めいあん)の深い森の中枢に拉致されてしまったようだった。

ファシズムの崩壊の渦中で、群衆の雄叫びがラインを成す中で、自分を頼りにするイタロをファシスト呼ばわりして、なお、新たな自己像を立ち上げようとする存在の喘ぎが、虚空を舞っていた。



3  「正常」と「異常」という、薄皮の被膜一枚で繋がれた厄介な問題から逃れられない人間の脆弱性



本来、社会的に支持された規範体系の、その価値の高さである「正義」という観念が堅固に結べないような時代の空気感の渦中では、「正常」と「異常」の価値観が揺らいでしまっていて、一種のカオス的状況を呈するだろう。

その「正常」と「異常」の価値観が、被膜のように繋がっている社会に呼吸を繋ぐ人々は、多くの場合、自分たちの不満を巧みに吸収する勢力に加担することによって、自己の拠って立つ「正義」を確認していく以外に適応機制を張ることが困難である。

「正義」を声高に叫ぶことで、権力の基盤を築いた勢力への同化だけが、辛うじて自己防衛戦略を相対的に成就する。

なお、そんな社会の不安定要素が求め合うように集合するとき、そこに爛れ切った頽廃的文化との共存が可能になるのも、カオス的状況性の産物である。

そんな社会にあって、個人史的に否定的自己像に搦(から)め捕られてしまった男が、「正常」と「異常」の価値観を分ける仕切りが崩され、そこで惹き起こされた心理的混乱の中で、男の本来的な醜悪さだけが置き去りにされたのである。

男の殺人記憶が妄想であると知ったとき、中途半端に仮構してきたファシストとしての自己像の総体がその根柢から崩されてしまった。

空洞化された自我になお、「正常」の観念を埋め込んでいくために、男はなお、新たな自己像を貪るように求めていかざるを得ない。

一切は男の内側に巣食っている恐怖のルーツである「狂気」に拉致されないためだ。

男の人生には、その内実を豊饒にさせる価値の欠片すらも拾えなかった。

男の人生に、「意味」を埋め込む営為すら遂行し得なかった。

ここで、男の手引きによって暗殺されるに至った、クアドリ教授との会話が想起される。

「洞窟に写る炎の影」とマルチェロ。
「事物の投げる影だ。イタリアで君たちの身に起こっている」とクアドリ教授。
「洞穴の人々が話せたら、彼らの“幻覚”を“現実”と呼ぶのでは?」
「その通りだ。現実の影を現実と思い込む」
   
これは、プラトンの「洞窟の比喩」である。

その意味は、分り易く言えば、人間は生まれながら、洞窟の中に縛られて閉じこめられた囚人のように、自分の眼に写る事物を、事物の投げる影だという真実に決して気付くことがなく、生涯、無明の世界で生きることしかできないという比喩である。

クアドリ教授は、この「洞窟の比喩」を卒論のテーマにしたマルチェロに、イタリアの現実もまた、真実に気付くことがない国民をミスリードする危険性を指摘したのだ。

クアドリ教授(右)とマルチェロ
結局、教授が言うように、男の人生の内実は、一貫して全体像を見ることができず、空洞化された自我に、「正常」の観念を埋め込んでいくことによってしか成り立たない、幻想への執拗な希求それ自身の悲哀であって、「現実の影を現実と思い込む」空しい営為を繋いでいく、言わば、「洞窟の囚人」の無明の世界をトレースする時間の累加だったのである。

過剰な自己防衛戦略の発動の挙句、今や、全てを失った男は、更に、内実の確かな時間を手に入れるための方略に縋りつけず、それでも、「正常」という名の揺らぎの激しい観念の影を求めて呼吸を繋いでいくしかないのだろう。

これは、ファシズムそのものをテーマにした映像というより、元々、曖昧な、「正常」と「異常」という、被膜一枚で繋がれた厄介な問題から逃れられない人間の脆弱性を、一人の男の醜悪だが、しかし、人間の、一つの悪しき範型の凝縮とも言える様態を通して問題提示した映像であるというのが、本作に対する私の基本的理解である。

(2013年5月)

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