2013年5月18日土曜日

終の信託(‘12)       周防正行



<根源的な問題の全てを、医師たちに丸投げする無責任さを打ち抜く傑作>


 
序  根源的な問題の全てを、医師たちに丸投げする無責任さを打ち抜く傑作



素晴らしい映像だった。

ラスト45分におけるヒロインの叫びには、震えが走るほどだった。

それは、そこに至るまでの殆ど無駄のない伏線的描写を回収していく、周防監督らしい知的な構築的映像の成就であると言っていい。

後述するが、正直、私にとって不満な描写もあったが、しかし本作は、そんな不満を払拭させるに足るだけの力強い映像になっていて、私は高い評価を惜しまない。

何より、とかく偏見視されやすい喘息患者の身体的苦痛と悶絶の極みを、覚悟を括った者のように描き切ったこと。


そして、尊厳死を求める重篤な喘息患者が、物語のような極限的状況に置かれたときの医師たちの困難な状況を、見事な心理描写によって問題提示したこと。

これが大きかった。

尊厳死に関わる重大なテーマが、今や看過し難い状況になっているにも拘らず、それについての国民的議論を積み重ねていく努力を回避しているように見えるマスメディアと、相変わらず、「厄介」な問題との対峙から逃避している、この国の立法機関等の怠慢によって、物語で描かれたような由々しき状況に追い込まれたときの、決して少なくない医師たちに、根源的な問題の全てを丸投げしてしまう無責任な空気が、この国に蔓延している状況の是非を問題提示したことの意味は、それだけで充分に価値がある。

良心的な医療関係者を孤立させてはならないのだ。

イメージ画像・行政書士 家族愛法務事務所より
日本尊厳死協会の会員でありながら、自分には殆ど無意味でしかない、リビング・ウィルをとうに済ましている私にとって、この映画は、「一人一人、ここで映像提示された問題を考えていかねばならない」という監督のメッセージが聞こえてきそうで、それを受容する思いで一杯である。

終末期の医療・ケアについての意思表明書
(リビング・ウィル)

私が、高齢となり意識を失うような状態におちいったり、あるいは、たとえ呼びかけには応じても 意識は朦朧としている状態になったり、あるいは、意識はあっても自分の意思を伝えることができない状態となり、自分で身の回りのことができなくなり、自分で飲むことも食べることもできなくなったときには、以下のようにしてください。

私が自分の力では水も飲めず、食べ物も食べられなくなったら、無理に飲ませたり、食べさせたり、点滴や栄養補給をしないでください。

ましてや、鼻管を入れたり、胃瘻を作ったりは、絶対しないでください。

私が自分の力で呼吸ができなくなっても、人工呼吸器をつけないでください。

万一、人工呼吸器がつけられている場合でも、一旦、電源を切っていただき、私の自発呼吸が戻らなかったら、人工呼吸器を取り外してください。

少々意識があっても、場所や日時をはっきり言うことができなければ、同じように扱ってください。

そうなったら、昇圧薬も輸血も人工透析も血漿交換などもやめてください。

私の苦しくみえる状態を緩和していただける治療をしてくださるなら、喜んでお受けします。

ただし、昇圧薬や脳圧低下薬などの延命のための治療はやめてください。

私の命を長らえるために努力をしてくださっている、お医者さん、看護師さんや医療・介護スタッフの方達には、心から感謝しています。努力してくださっている方達には、たいへん申し訳ありませんが、どうか、私の意思を尊重してください。

私はこの終末期の医療・ケアについての私の意思表明書を、意識も清明で、書いている内容を十分理解している状態で書いています。どうか、私の意思を尊重してください。




以上、リビング・ウィルの例文/医学博士・大野竜三氏のブログより




1  エリート女医の人物造形のうちに凝縮される物語の流れ



この映画は、草刈民代演じる、東大卒で初めての女性部長になった呼吸器内科の医師・折井綾乃の人物造形が全てであると言っていい。

 
高井と綾乃
本来なら不必要なはずの、同僚医師・高井との不倫の愛の破局によって、自殺未遂に至る顛末に関わる一連のシークエンスは、まさに、綾乃の人物造形の典型的な側面を描くものとして切り取られたエピソードであると考えられる。
 
「止めて。苦しい。息ができない。助けて。・・・もう、終わりにして」

これは、病院内で不倫した綾乃が、同じ病院内で睡眠薬自殺未遂して、手当を受けているときの叫び。

しかし、この叫びは届かない。

綾乃の意識の中の言語であるからだ。

この「届かない叫び」は、時間軸を現在にした検察庁での、「呼び出し状による公務としての取り調べ」の際の、彼女の真情吐露の伏線となっているが故に、高井との不倫の愛の顛末の映像提示となっていることが判然とする。

「お前、どうすんだ?こんなみっともないことして」

これは、綾乃の病室を訪ねた高井の言辞。

 
高井
「俺、結婚するなんて言ったっけ?」と言い放った高井との、不倫の愛の破局が契機になった綾乃の自殺未遂の発火点は、まさに、この醜悪な言辞に求められるが、それは同時に、こんな男に下半身の処理をされる役割しか果たしていない女の、ある種の身持ちの悪さを検証するものだった。

このエピソード挿入は、そこから開かれた重篤な喘息患者である江木との、プラトニックな濃密な絡みへの反転の心理的推進力になったばかりか、自殺未遂を惹起させるほどの脆弱性を表現する上で不可避なシークエンスであった。

 即ち、検察庁からの呼び出しから始まる、この映画のヒロインである、47歳の綾乃という人物の、自己に深く関わる特定的な対象人物に対する「のめり込み」の様態 ―― これが、呼吸器内科のエリート医師・綾乃の極めて特徴的な人物造形として、一貫して映像提示されていたのである。

 常識的に考えれば、重篤な喘息患者である江木との、プラトニックな濃密な絡みは、「共依存」の関係への傾斜を厳として戒められている、「医師」と「患者」という、「越えられない壁」を倫理的規範として策定している医療文化のフィールドの中にあって、タブー視されている現実であるだろう。

然るに、その「見えないルール」の縛りを呆気ないほどに越えていく、二人の人間関係の構築性の高みを具現していく内的行程には、人間的に最も信頼する医師の綾乃に対して「終の信託」を委ねる喘息患者と、その「終の信託」を引き受けていく複雑な心理の振れ具合が、特化されたエピソードの累加の中で表現されていいて、全ては、この二人の心情交流の一連のシークエンスに至るまでに張られた伏線と解釈すべきである。

 

稿を変えて、エリート女医の人物造形のうちに凝縮される物語の流れを押さえておきたい。



2  レクイエムと同義なる子守唄、そして「終の信託」



CDを江木
自分の恋の成就のために父を脅す歌である、プッチーニのオペラ(「ジャンニ・スキッキ」の中の「私のお父さん」)のCDを、重篤な喘息で入退院を繰り返していた患者、江木から受け取り、それを聴いて嗚咽する綾乃。

既に、病院内で知れ渡っていた綾乃の自殺未遂。

それによって、綾乃が病院を去ることに憂慮する患者たちの一人が江木だった。

「あなたには真剣な行為だったかも知れないけど、他人から見たら、ばかばかしい喜劇にしか過ぎません。そう言われた気がしました」

CDを貸してもらった時の、綾乃の反応である。

「あなたは、自分に正直に生きている。人生を誠実に生きている。だから、良い先生なんです。先生が羨ましい。僕は人生で、一度も恋に溺れたことなんてなかった」

江木の反応も率直だった。

だから、関係が深化していく。

「本当は喜劇である」というCDを借りた縁もあって、心痛を深めたことで、相応に自己を相対化できた綾乃が、まもなく、自我の内深くに抱えるトラウマを江木から吐露されるに至り、二人の関係は、主に、「江木のプライバシーを熱心に聴く女医」という立地点にまで昇華されていくのである。

江木が抱えるトラウマとは、5歳のとき、満州時代に経験した妹の死に関わるものだった。

終戦の年にソ連軍の侵入によって、流れ弾で妹が死んだ際に、母が子守唄を歌ってあげた記憶が鮮明に残っていると打ち明けるのだ。

そして、自分の臨終の際にも、その子守唄を歌ってくれと、綾乃に頼んだのである。

子守唄を歌うことで、死を看取って欲しいという江木の懇願を、綾乃は引き受ける。

以下、記憶の再構成を経て自我の深層に澱んでいたであろう、死の概念の獲得も不十分な幼児期のトラウマについての、江木の心情吐露。

「人間が死ぬとき、まずダメになるのは視覚だそうですね。最後まで残るのは聴覚だそうです。そうなんですか?ものが言えなくなっても、見えなくなっても、声だけは聞こえているとか、父も母もそんなことは知らなかったと思います。ただどうしようもなくて、子守唄を歌い続けた。それは多分、妹にしてやれる最高のことだったと、今になって思うんです。自分がそうなったとき、そのとき、できたら、僕の意識が完全になくなるまで、先生、言葉をかけていただけないでしょうか。できたら、意識がなくなっても、人から見て意識がなくなっても、本人は、まだ意識があるんじゃないかと、それが心配なんです。そのときが一番怖くて、助けが欲しいんじゃないかと・・・思うんです」

咳き込みながら、江木は、ゆっくりと、自らが最も不安視している思いを言葉に表した。

「私で良かったら、声を掛けさせていただきます。お話をします。何か江木さんの好きなことを」

そこに、「間」ができた。

「子守唄を歌って欲しいんです」と江木。
「分りました。覚えます」と綾乃。

 
山田耕筰
因みに、その子守唄とは、山田耕筰の作曲、清水都代三(とよぞう)の作詩による「新子守唄」。

以下の歌詞である。

とんとん とろりこ とんとろり
とんとん とろりと 鳴る音が
坊やのお寝間にや まだ来ぬか
来なけりや 迎ひにまいりましょう
海山越えて 鬼が島 鬼のいぬ国 ねんね島

とんとん とろりこ とんとろり
とんとん とろりと 鳴る音に
黄金の臼やら 銀の杵
寝る子のお土産に せうとてか
日本一のきび団子 軽いつづらも用意して

 江木にとって、この子守唄は、レクイエムと同義のものなのだろう。

そして、江木が退院した後の、最も重要なエピソード。

綾乃と江木が出会った河川敷
綾乃と江木が、偶然、河川敷で出会った。

綾乃の車に同乗した江木は、ここで「人生最大の信託」を言語化するのである。

自分ができるのは、妻を介護から解放させてやるこであると言った後、江木は、最も重要な思いを表現に繋いだのだ。

「先生にお願いがあります。そのときがきたら、早く楽にして下さい。そのとき僕は、多分、口を利ける状態じゃない。意識があったとしても苦しいと思う。楽にしてくれとも言えない。そのときがきたら、この苦しみを終わりにして下さい。そのときは、もう遠くない。ただ、生かしておくために、体中チューブに繋がれ、ただ、生きてる肉の塊で生きたくない。僕は先生を誰よりも信頼しています。先生に決めていただきたいんです。僕がもう我慢しなくてもいい時を。そのときを、先生にお預けします」

江木の「終の信託」である。

「分りました。でも、江木さんがいなくなったら・・・私、どうしたらいいですか。あなたがいたから、私はここまでやってこれたのです」

二人の関係の、プラトニックで濃密な深化が印象づけられる会話であった。

この流れの自然性の中で、江木の「終の信託」を受容する綾乃が、そこにいた。

 

 3  具現化された「終の信託」、その壮絶なリアリズム



江木の「終の信託」を具現化する、その瞬間がやってきた。
 
例の河川敷で、心肺停止状態で発見された江木が、綾乃の病院に搬送されてきたのである。

綾乃の病院の診察券を、江木が肌身離さず、持ち歩いていたからである。

肋骨が折れるリスクをかけて、激しい心臓マッサージと、蘇生措置の継続によって心拍は復帰したが、自発呼吸が回復しないため、人工呼吸器をつける。

しかし、無呼吸状態が長く、酸欠からくる障害から脳は腐死を起こし、6日目から自発呼吸が回復したが万全ではなかった。

吸入療法
吸入スプレーも持たず、冬の河川敷を歩いていた江木には、後述するが、空と水の中に溶け込むことで、満州に通じる「無」=「死」への階段を昇っていったように印象づけられるが、このことは、その話を聞いて、「終の信託」を受容した綾乃だけが知っていた。

三週間も経っても、チューブづけの異常な状態からの変化が見られず、脳波の検査の結果、言葉も意識も回復しない可能性が高く、本人が苦痛からの解放を求めていた事実を、江木の妻に説明する綾乃。

「これ以上の延命治療、望まれますか?」

懊悩する綾乃は、江木の妻に問いかける。

「私にはよく・・・でも、仕方ないのなら」

これが、江木の妻の答えだった。

本当は、ここで話すべきだったのだ。

「終の信託」を依頼されるほどの信頼感情・援助感情を築いてきた関係の「愛」を話すことに、誤解される怖れを感じたのか、それとも、この「愛」を占有しておきたかったのか。

少なくとも、本作の作り手である周防監督は、最も重大な情報を、綾乃に語らせることを拒絶させる構成を貫徹することで、「ラブストーリー」という本線を堅持したのである。

この直後の映像は、江木の家族を呼んで、「最期の別れ」の儀式を済ませるシーン。

そして、人工呼吸器のチューブを外すに至る。

予測しない事態が起こったのは、そのときだった。

江木が、猛烈な苦痛を炸裂させたのだ。

喘息発作・サイトより
無呼吸状態になったことで、体が無意識裡に反応したのである。

江木の苦痛の炸裂を目の当りにした綾乃は動揺し、「セルシン20!」と、看護師に指示する。

自らの頭部を上下させ、それを繰り返し打ち付ける江木の、激しい苦痛の炸裂。

「ドルミカム10ミリ!」

収まらない苦痛。

「あと、20ミリ!」
「ドルミカムですか?」と看護師。
「そうよ。速く!」と綾乃。

それでも収まらない苦痛。

慌てる綾乃は、自ら1アンプルを取って、それを注入した。

まもなく、静かになって、息絶える江木。

「ごめんなさい」

そう言って、嗚咽しながら、子守唄を歌う綾乃。

具現化された「終の信託」の映像は、壮絶なリアリズムのうちに終焉したのである。



4  観る者に、事件の客観的ウォッチャーとしての役割を担わせる構成力の奏功性



 「終の信託」に至る、この一連のシークエンスで描かれたのは、重篤な喘息患者の、その悶絶するような身体的苦痛である。

重篤な喘息患者の、その悶絶の凄惨さを描いた映像の凄みは比類ない。

発作を抑える特効薬としての気管支拡張剤の効果も、炎症そのものを抑えられないが故に、大発作になれば全く太刀打ちできないし、また、吸入ステロイド療法という画期的な治療法の普及によって、死亡率が顕著に減ったとは言え、吸入ステロイド薬だけでは効果が出ない現実がある。

本作にも、その事実を知悉していた江木が、副作用を恐れ、ステロイド剤を処方することに躊躇したことで大発作を起こし、綾乃のアドバイス通り、ステロイド剤を服用しなかったことを悔いるシーンがあったが、一貫して奇麗事に流さない重篤な喘息患者の悶絶の凄惨さは、観る者に強迫的に伝播してくるのだ。
 
重篤な喘息患者は、本作の江木のように、呼吸困難のため苦しくて自由に動けず、会話も儘ならず、喘息の大発作を起こせば、気管内挿管や人工呼吸管理の必要に迫られるので、常に生命の危機と隣り合わせで生きていかざるを得ないのである。

吸入ステロイド療法
そんな厳しい環境下で、日々を繋ぐ喘息患者に対する偏見がなお残っているのは、江木がそうだったように、発作症状の出ていないときには健康人と変わらないように見えるからである。

まさにそのことが、かつて、喘息患者の症状を「心の病」と差別された背景になっていて、現在でも、「無知」による誤解を生む大きな要因になっているのだ。

そうした「無知」による誤解や偏見を突き崩すシーンを映像提示しただけでも、本作の価値は絶大なものがあったと言える。

重篤な喘息患者の身体的苦痛を丁寧に描き切った本作の訴求力は、まさに、「尊厳死」を求めて止まない患者の、「叫び」すら奪われた、「延命医療」とい名の、それ以外にない地獄の様相だったのである。

 この地獄の様相を、観る者は共有せねばならないのだ。

 ―― 物語に戻る。

塚原検事(右)
それほど苛酷な「延命医療」の現実が存在しながら、それを遮断させる行為を「殺人」として裁かれねばならない、追い詰められた状況に捕捉された綾乃は、眼の前の担当検事・塚原に、自分の心情を切々と訴えていく。

 「江木さんは心肺停止状態だったが、すぐに心臓は打ち始めた。しばらくして呼吸もするようになり、あなたが気管内チューブを抜いたときには呼吸もし、心臓も動いていた」

 塚原検事がここまで言ったとき、綾乃は、その一方的で官僚的な説明を遮った。   

 「ちょっと待って下さい。そんな簡単なことではありません。心拍は救急措置室で蘇生措置を1時間以上続けてやっと戻ったんだし、自発呼吸が出てきたのは6日目です。それまでは人工呼吸器をつけてました。自発呼吸が出ても充分ではないので、挿管チューブと酸素吸入が必要でした」

 この合理的説明に対する塚原検事の反応は、次の一言。

 「聞いたことだけ答えればいい」

 どこまでも自分のフィールドで、「被告人」(刑事訴訟だから「被告」にあらず)を約束された相手の人格を支配したいのである。

 だから、その後の「呼び出し状による公務としての取り調べ」でも、「事実だけを答えなさい」と言うばかり。

「確認しているんだよ」

この塚原検事の言葉が、両者間に「権力関係」が形成されていることを象徴的に表しているのだ。

しかし、担当検事は国家権力の一つの歯車として機能しているので、相手の心情を柔和に掬い取る一切の行為を拒絶する。

当然過ぎることだろう。

彼は、一個の人間であるよりも前に、権力機関の一官僚であるに過ぎないのだ。          

 
元川崎協同病院医師・須田セツ子氏
まして、世間に知られた著名な「事件」(1998年11月に起こった、「川崎協同病院事件」がモデル)なら、「手柄」を立てたいと思ったとしても不思議ではない。

そんな塚原検事が、「被告」を約束された綾乃を恫喝的に追いこんでいった後、検事の言葉を記録した調書が作成され、「間違いないな」と念を押すことで終焉するに至った。

「薬の量とか、細かいことは、後でゆっくり聞く」

この塚原検事の言葉に、記録を取る若い検察事務官は、不満げに一瞥するが、彼もまた、どれほど良心的であったとしても、権力機構の歯車としての役割を果たす存在以外ではないし、立件したい塚原検事の職務も国家の機能として不可避でもあるだろう。

しかし、この映画が優れている点は、周防監督が語っているように、観る者に、事件の客観的ウォッチャーとしての役割を担わせていることにある。

以下、周防監督の言葉。

「現実と唯一違うのは、綾乃が体験したことを観客も知っているということです。観客は綾乃と同じように検察官の質問に答えることができる。でも、現実の世界では当事者だけが起こったことを知っていて、そのことを知らない検察官が事後に質問するんですね。だから当事者が体験したことが、本人が思っているようには調書にならないし、検察官にもそれが真実かどうかはわからない。映画としては大胆な構成かもしれないけど、僕にとっては当然の構成でした」(「過去の僕の映画にはなかった」周防正行監督が語る『終の信託』ニュース@ぴあ映画生活)

この周防監督の言葉を援用して、確定的な物証を持たない塚原検事の調書を、ここで注目したい。

 
「被害者の江木さんは死ななかったのです。江木さんは死なないで、苦しがって、暴れ出しました。そこで私はまず、鎮静剤のセルシンを20ミリグラム、それからすぐに、静脈麻酔薬のドルミカム30ミリグラムを注射しましたが、江木さんは静かになりませんでした。そこで私は更に、ドルミカムを注射したのです。ドルミカムは充分な致死量でした。そのことを、私は医者ですから充分知っていました。それでしばらくして、ようやく江木さんは静かになり、死んだのです」

 この塚原検事の調書には、明らかに誤魔化しがある。

 「そこで私は更に、ドルミカムを注射したのです」という言辞には、薬の量の具体的な記載が欠けているのである。

 観る者は、綾乃が注射したドルミカムの量が1アンプル=10ミリグラムであることを知っているのだ。
 
 ところが、看護師の事情聴取の中で、いつの間にか、ドルミカムの量が3アンプルに変えられていて、その勘違いを指摘する綾乃の説明の方が真実であることを知っているのである。

 だから、投薬量に関して自信のない塚原検事は、その辺りを曖昧にさせたまま、「ドルミカムは充分な致死量」という調書を作成したのである。

 「間違いないな」

 その検事の一言で、調書は完成されるに至った。

 既に、疲労の色が濃くなってきた綾乃の集中力の欠如の隙をついて、恫喝的に迫っていく狡猾な戦略が功を奏し、綾乃が調書の文面を認知するに至るという、プロの検察官の常套的な手法が垣間見えるところである。
 
「薬の量とか、細かいことは、後でゆっくり聞く」

 この検事の言葉は、ここで発せられたのである。

 調書にサインし、捺印する綾乃。

 
それで、逮捕から起訴に至る手続きの流れが決まったのである。



 5  全身全霊を賭けた女医の訴えが観る者に反転されて



 調書にサインした綾乃は、なお切々と、江木の苦悶のさまを訴える。

 「本人は意識がないんです。でも、他人から見て、意識がないように見えても、本当はあるのかも知れない。でも、意識があっても伝えられないんです!口も利けないし、指一本、自分の意思では動かせない。瞬きして、知らせることだってできないんです。もう、苦しみたくない、終わりにして欲しいと、どう思っても、周りの人に伝えられないんです、このことは、医者であっても、自分で経験してみないと分らないことでした。私は自分自身で経験して、江木さんの言うことがよく分ったんです」

最後に綾乃は、自殺未遂の経験を語っている。

全身全霊を賭けた、この綾乃の言葉には力があり、相当の説得力がある。

本作の中で、最も印象深いシーンに、観る者の心は震えるだろう。

少なくとも、私は、覚悟を括って遂行した綾乃の行為を想起し、震えが走った。

しかし、立法措置が遅れているこの国の制度の中では、綾乃の言葉を受容することがない。

彼女は更に、江木が亡くなる前日、急性潰瘍を起こし、ストレスによって胃のチューブから出血があった事実を伝え、「もう、苦しめないでくれ」と訴えていたことを、涙ながらに語るのだ。

 「どうして苦しめなければならないんですか!」

 
嗚咽しながら、綾乃は、塚原検事の人間的感情に訴えるかのように、全人格的に表現する。

 「生命を尊重しなければならないんだ!命を奪うことは殺人だ!」

無論、本来の目的を決して履き違えることがないプロの検察官の反応の中に、人間的感情を期待する方がどうかしているだろう。

それでも、彼女にとって、国家権力の一官僚であるに過ぎない塚原検事に対峙し、凛とした態度を崩さず真情を吐露し、訴える。

 塚原検事への訴えは、観る者への訴えに反転するだろう。

 
塚原検事
言うまでもなく、塚原検事への訴えは、検事という肩書を持った者に通用する術がない。

 「そう考えて、あなたは江木秦三を死なせた。そうなんだな?」
「そうです」
 
 この言質を取って、塚原検事は、予め用意していた逮捕状を眼の前に突きつけた。

これ以上苦しませたくないから安楽死させたという事実を認知させることで、殺人容疑の逮捕権が行使されるに至ったのである。

 凄い描写だった。

長尺になったが、その理由も了解可能である。

このシークエンスは、リアリティの強度において抜きん出ていた。

周防監督の意図が成就したか否かについては分れるだろうが、私には全く違和感がなかった。

絶賛したい。

 因みに、綾乃裁判の結果は、以下の通り。



二十日間の取り調べの後、折井綾乃は殺人罪で起訴された。

裁判では、江木の妻・陽子が、江木の残した「ぜん息日記」の存在を明らかにした。

日誌は、綾乃が江木の担当となってから書き始められ、15年間で61冊になっていた。

その最後のページに「延命治療は望まない。全ては折井先生にお願いした」との一文があった。

裁判所は、その一文を「リビング・ウィル」と認めたが、「そもそも被告人の診断には明らかな誤りがあり、患者には回復の望みがなかったわけではない。加えて、家族への説明も不十分であった」として、懲役ニ年、執行猶予四年の有罪判決を下した。


 

 6  「権力」と「約束された被告」との、後半45分の根源的対峙が生み出すリアリティの凄み



「海と毒薬」より
証人の椅子」(1965年製作)、「海と毒薬」(1986年製作)、「クイズ・ショウ」(1994年製作)のように、優れた社会派ドラマは、優れた人間ドラマに補完されることによって最強の社会派ドラマになる、というのが私の持論。

その意味で、本作は、私のこのイメージに近いが、極めて文学の臭気の漂う映画的な加工のエピソードを挿入したことに違和感を持ちつつも、人間ドラマが本線にありながらも、そこで描かれた社会派ドラマ性の濃度が高いにも拘らず、「医療裁判の映画」というラベリングを否定し、周防監督は、本作を「LOVE(ラブ)、愛の映画」と断じている。

前述したように、物語序盤におけるヒロイン綾乃の自殺未遂のエピソード挿入は、そこから開かれた、重篤な喘息患者との絡みへの反転の心理的推進力になったばかりか、自殺未遂を惹起させるほどの脆弱性を表現する上で不可避なシークエンスであった。

これは否定しない。

 だから、その意味で、周防監督のインタビューでの発言はよく理解できるし、私もまた、監督の狙いがそこにあったことを否定しない。

然るに、なぜ、本作が「医療裁判の映画」だったり、「尊厳死のドラマ」という風に簡単に括られてしまうのか。

それは、こういうことだと思う。

即ち、物語後半の45分で描かれた、検事との根柢的な「論争」の内実が、あまりにリアリティを持ち過ぎてしまったこと。

周防正行監督
それによって、「LOVE(ラブ)、愛の映画」と断じる監督が、二人の人間が裸形の自我を露呈し、表現されたエピソードが、残念ながら、不必要なまでに観念的で、文学の臭気の漂う映画的な加工が垣間見られたが故に、リアリティの強度において、「権力」と「約束された被告」との、後半45分の根源的対峙が生み出すリアリティの凄みに押し潰されてしまったのではないか。

要するに、満州での妹の死に纏(まつ)わる江木の話が、子守唄に繋がるエピソードという映画的加工の嘘臭さが物語から浮いてしまって、このエピソードなしに軟着できないドラマの文学性が露わにされてしまったと、私は考える。

「ここに来ると、この水が流れていく先まで、ずっと歩いていけば、空と水が一緒になるところまで行けるんじゃないか。そんな気がしてくるんです。そしてそこは、子供の頃住んでいた・・・あの満州なんじゃないかって。そこに、もう一度行ける。そして、空と水の中に自分も溶け込んで、無になっていくことができるんじゃないかって・・・これ以上、妻に辛い思いをさせたくない。妻は介護と看病だけの人生になってしまった。子供たちにも、これ以上苦労をかける訳にはいかない。僕はもう働けない。治療費を使うばかりだ。あれにしてやれるのは、僕の看病から解放してやることと、少しでも出費を抑えて残してやることしかないんです」

これは、前述したように、退院した江木が、偶然、河川敷で出会った綾乃に、「終の信託」を依頼するまでの話の「前振り」である。

「終の信託」を依頼する江木の心情が、観る者に伝わってくる重要なシーンだが、しかし、この話の中に挿入された「満州」に関わるエピソードは、挿入の意図が理解できるにしても、些か文学的に加工され過ぎてしまっていないだろうか。

独断的に書けば、このようなエピソードなど必要なかったのではないか。

思うに、喘息で苦しむ患者の苦痛を、長年もの間、目の当りにしてきた女医が、そこで濃密に交叉した人間的交流の中で、その苦痛を和らげてあげたいという率直な感情に繋がったという、ごく普通のドラマ構成を構築すれば良かったのではないか。

だから、「医療裁判の映画」とか、「尊厳死のドラマ」という風に決めつけられても仕方がない映画だったのだろう。

草刈民代と周防正行監督
それでも、物語の本線が、「LOVE(ラブ)、愛の映画」であることには変わりがないことは充分受容できる。

ただ単に、本作に挿入された部分的不均衡感が、社会派ドラマを本線にする映画として、観る者に受け取られてしまったということだろう。



7  尊厳死についての考察 ―― 補論として



私もまた、「尊厳死のドラマ」と印象づける多くのレビュアーのように、社会派ドラマのメッセージを内包した本作のテーマを受容して、「尊厳死法案を国会に提出することで、逆に国民的議論になれば、それなりの意味はあります」と語る周防監督の、思いの一端に触れた一文を書くことで、本稿を擱筆(かくひつ)したい。

ここから、私にとって最も関心の高い、尊厳死について言及する。

尊厳死とは、そもそも一体何なのか。

 一言で言えば、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。

 

尊厳死(山梨日日新聞より)
ここで言う尊厳とは、「人間らしさ」を保持している状態を意味する。


 では、「人間らしさ」とは何か。

 厄介な概念だが、私はそれを「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」という風に考えている。

 例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。

しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。

 或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。

 従って、その患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。

 

尿道留置カテーテル(ウィキ)
カテーテルによる排尿の世話や、糞便の処理まで依存することになるのだ。


 たとえそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を長い年月にわたり継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

(1) 耐え難い肉体的苦痛がある
(2) 死が避けられず、その死期が迫っている
(3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある

これは東海大安楽死裁判において、患者の死を認容する条件として出された有名な判例である。

医療サイドから言えば、その患者の「積極的安楽死」の希求を受容し、何某かの医療的措置をとることが可能である。

 しかし、これはあくまでも裁判の判例であって、当然の如く、絶対的判断基準となるものではない。

なぜならこの国には、他の外国(オランダ、ベルギー、フランス、アメリカ・オレゴン州)のように、「安楽死」、「尊厳死」に関する立法的措置が存在しないからだ。

そして延命治療を保障した近代医学は、そのような悲劇に多くの場合、後ろ向きである。

そこに、生命至上主義という近代社会のイデオロギーが、延命医療の先に待っているであろう「悲劇」へのとば口を、恰も仁王像のような出で立ちで、そこから侵入する「邪悪」なる魂を完璧に塞いでしまうのだ。

 「人の命は地球より重い」などという、奇麗事のメッセージで重武装するそのイデオロギーは、果たして、もうそこにしか行く当てのない者の、その微(かす)かな願いまで奪ってしまうほど絶対的な価値であると言えるのか。

 「安楽死」に異を唱える者の多くは、それが生命の価値を相対化する安易なイデオロギーによって、それを選択しなくてもQOLを保障できると判断する者にま で、安直に「死の権利」を保障する危険を説くのだろうが、それは厳格な方法論の導入によって、充分に解決可能な次元の問題に過ぎないのである。

 また「安楽死」を求めるなら、何も医療の手を借りずに自殺すれば良いではないか、などという乱暴な意見も聞こえてきそうだが、それに対する私の答えは一言に尽きる。

 激しい苦痛が伴う自殺ができないからこそ、「絶対的苦痛から解放されるであろう、安楽死をこそ求めるのだ」ということ。

それ以外ではないのだ。


【以上、「海を飛ぶ夢」と「人間の約束」での批評における拙稿を引用】

(2013年5月)





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