2013年3月28日木曜日

ヒューゴの不思議な発明(‘11)       マーティン・スコセッシ



<「映画好きの観客」限定の物語の訴求力の脆弱さ>



1  「世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ」



「何にでも目的がある。機械でさえ。時計は時を知らせ、汽車は人を運ぶ。皆、果たすべき役割があるんだ。壊れた機械を見ると、悲しくなる。役目を果たせない。人も同じだ。目的を失うと、人は壊れてしまう」

「機械に不要な部品はない。使われている部品は全て必要なんだ。だから、世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ。理由があって、ここにいる。君にも理由があるはずだ」

ヒューゴがジョルジュ・メリエスをイメージしながら、メリエスの養女、イザベルに語った言葉である。

これが、スコセッシ監督の基幹メッセージであると言っていい。

何の衒(てら)いもなく、このような台詞を子供に言わせるには、限りなく、何でもありのファンタジー性の濃度の高いヒューマンドラマではないと無理だろう。

主人公の少年ヒューゴに、この言葉を吐かせるところが、如何にも、ハリウッドムービーの臭気強度の高さを感じさせてくれる。

堂々とした人生肯定宣言が、そこにあるからだ。

幼くして母を亡くし、今また、尊敬する父を喪った孤独な少年が、それ自体が、映画のセットをイメージさせる、華やかなパリのステーションの見えない片隅で、窮屈そうに呼吸を繋ぎながら、「機械」に頼る脚を駆って仕事に励む、傷痍軍人上がりの鉄道公安官の監視の眼を盗みつつ、泥棒しながらでも生きていけるのは、自分に与えられた「役割」を遂行することにのみ、自らの存在の証を立てられるという幻想を捨てていないからである。

父が残したオートマトン(機械人形)の故障を修復することで、父から継いだ「役割」を完結できるというその一点のうちに、少年の自我がギリギリのところで安寧を確保しているのだ。

孤独な少年が「壊れた機械」に向かうとき、どこまでも、壊れ切ることを拒む熱量を自給する強さが、地虫のように這っている。

しかし、少年の能力を超える「壊れた機械」の修復力の不足の前で頓挫したとき、壊れ切ることを拒む少年に橋を掛けてくれたのは、同年令ほどの少女イザベルだった。

少女が大事そうに持っていた、ハート形の鍵を手に入れた少年が、「壊れた機械」のミッシングリンクを復元させる決定的な「役割」を具現したとき、そこから開かれた、「パンドラの箱」とも言うべき、新たな「快楽装置」への希求の稜線を支える心理的推進力は、特殊効果の始祖であり、 “フランス映画の父”の一人である、「ジョルジュ・メリエス」という名の、未知なる地平への駆動のエネルギーだった。

それは、少年を誘(いざな)う機械文明の最先端の一端を担う、超ド級の「快楽装置」の絶大な求心力だった。

ヒューゴとジョルジュ・メリエス
「壊れた機械」を修復することで、自己救済を具現させていった少年の心の旅は、過去の栄光を捨てて、今や「精神の焼け野原」の惨状を呈していた、孤高の老人(ジョルジュ・メリエス)の空洞化した心を開かせていく、果敢なる大きな旅への自己投入を具現していく。

少年の自己救済の旅が、「壊れ切った世捨て人」が疾(と)うに捨てた、彼以外に所有し得ない固有の「役割」を復元させるべく、限定された「夢のスポット」の中枢を身体疾駆していくのだ。

「世界が一つの大きな機械なら、僕は必要な人間だ」と言う、自我確立運動を遂行する青春の雄叫びの如く、眩(まばゆ)いまでに光り輝く「自己肯定宣言」に辿り着いた少年は、今、アフターバーナー化して、「理由があって、ここにいる」という、青臭いオプティミズムを廃棄した老人の、残り火の熱源を再燃させるために、全人格的に突入していく。

その突入の際に、決定的なツールとなったのは、「世捨て人」が、それだけは大事に保存していたオートマトンを経由し、紡ぎ出していった、「ジョルジュ・メリエス」というキーコンセプト。

件の「壊れた機械」にも、それ以外にない「役割」を担っていたという訳である。

この世にある全てのものが、それぞれの「理由」によって存在する「役割」を、ごく普通に担っていて、世界は皆、有機的に機能し、結び合うことで、何某かの「欠損」を本質的に抱えた人間が、それでも固有の「役割」を捨てない限り、ジグゾーパズルの空白を埋め、相乗的に補完し合う関係を構築していくことが可能である。

そういうメッセージが衒いなく放たれるには、本作を、未来志向で冒険好きな少年と少女の、「全身思春期」の身体疾駆のうちに仮託されるファンタジーによって、澱んだ空気を浄化する物語の軟着点を保証する以外になかったということなのだろう。



2  「大切なことは少年の物語であって、彼の孤立した状態にある」



たしかにこの映画では『映画への愛』が重要なテーマとなっているが、私がこの映画を作ろうと思ったのは『映画愛』とか『映画のありがたみ』を伝えるためではなく、単純に娘のために作るということが目的だったんだよ」(eiga.com マーティン・スコセッシ監督、ほとばしる映画愛で達した新境地 2012年2月17日)


「わたしは3歳のときに喘息(ぜんそく)になって、それ以来、すべてから隔離されるようになった。スポーツはおろか、走ることも笑うことすら許されなかった。だから、駅で孤独に暮らす少年にたちまち共感したよ」(eiga.com コラム:FROM HOLLYWOOD CAFE - 第163回 2011年12月15日)

「自分自身、ヒューゴというキャラクターとの関連性は気付かなかったが、妻とプロデューサーから指摘されて確かにそうだなと思ったよ。わたしは労働者階級の出身なので、読書をするよりも父と一緒に映画を観ていたことが多かった。そのときに観たビリー・ワイルダーなどの映画が、自分に大きな影響を与えている。そういった父とのきずなは、ヒューゴというキャラクターにつながった面はあると思う」(「ヒューゴの不思議な発明」来日記者会見 2012年2月16日)

「大切なことは少年の物語であって、彼の孤立した状態にある。やがて映画は登場人物全員の“何か”を満たしていくが、わたしの人生も同じだった。映画はわたしとわたしの家族に癒しを与えてくれた。つまり、この映画を撮ることは選択ではなく、必然だったわけだよ」(マーティン・スコセッシ監督「『ヒューゴの不思議な発明』は選択ではなく必然だった」 nifty  2012年3月6日)

マーティン・スコセッシ監督
以上が、マーティン・スコセッシ監督のインタビューから、本作の肝に成り得ると思える箇所を拾ったもの。

このインタビューをベースに、本作を簡潔に総括してみたい。

オートマトンの完全修復によって、父からの自立を果たしたヒューゴ少年にとって、そこから開かれた、「映画」という最強の「文化装置」への全人格的投入は、本来、それを「共有」する「役割」を担っている人物との決定的な出会いのうちに、「関係の革命」という全く新しい地平を抉(こ)じ開けるに至った。

この「関係の革命」は、一人一人がバラバラで、アナーキーに集合し、個々の感情の交叉が絡み合わないで駆動しているかのように見える、「ステーション」を丸ごと映画の巨大セットと化すことで、そこに有機的な生命を吹き込んだ少年の「思春期氾濫」が起点となって、人の心と心の隙間を埋めるに足る化学反応を惹起させていく。

少年の「役割」が、「映画」という最強の「文化装置」を「共有」する人々の、求め合う思いを結合させていくという、「予定調和」の軟着点に流れ込む物語こそ、同様に、映画以外に楽しむ術を知らなかったに、マーティン・スコセッシ監督のノスタルジーを炸裂させたのである。

そして今、功なり名遂げたスコセッシ監督が、「娘のために作るということが目的だったんだよ」と吐露するとき、そこには既に、それ以外に担う「役割」を持ち得ない男の、凛とした括りが表現されている。

自分が担う「役割」を繋いできた男の括りには、存分なノスタルジーが張り付いているが、しかし、そのメンタリティーにおいて、同化を果たしていく少年への心情が、このような映像に結ばれる外はなかったという意味で、過分な情緒の氾濫も仕方がないと解釈すべきなのか、私には分らない。

ジョルジュ・メリエス
但し、この過分な情緒が、殆ど「大人向け」と言っていい、ジョルジュ・メリエスの「内なる革命」を、簡便に処理する安直な「奇跡譚」に流してしまったエピソードなどで、最後まで、「映画好きの観客」限定の物語の訴求力を脆弱なものにした瑕疵を否定し難いだろう。

物語の訴求力を脆弱なものにした結果、「面白みのない映画」の印象を決定づけてしまったとも言える。

良かれ悪しかれ、この物語は、「童心」のルーツを捨てることなく描き切ったドラマのキーワードに、「映画万歳!」という過分な情緒を入れ子構造に据えた、限りなく、オプティミズムの氾濫が其処彼処(そこかしこ)に拾われていく、「予定調和」の人生賛歌のうちに括られていったという訳だ。

決して駄作とは言えないが、「スコセッシ映画の完成形」という、褒め殺しの評価を付与するほどの名画であるとは、とうてい評価し得ないだろう。

これが、本作に対する私の基本的感懐である。

こんな映画もあっていい、というレベルの作品であったと言う外はない。

【参考・引用資料】心の風景 「夢を見る能力」の凄みが「夢を具現する能力」を引き寄せ、蓄電し、炸裂する

(2013年3月)








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