2013年1月21日月曜日

少年と自転車(‘11)      ダルデンヌ兄弟




<「お伽噺」を仮構してまで、愛が少年を救えるか?という基幹テーマを問いかける一篇>

 

 1  殆ど奇跡的な現代の、上出来な「お伽噺」



これは「お伽噺」である。

それも上出来な「お伽噺」である。

それは、作り手のダルデンヌ監督自身が「お伽噺」であると認めていることでも分る。

更に、サンマンサ役を演じた著名な女優であるセシル・ド・フランスも、インタビューの中で答えていた。

彼ら(ダルデンヌ兄弟)は心理的な説明をしたがりません。サマンサは善意に満ち、太陽のような人ですが、監督と話していてすぐに分かったのは、サマンサの善人ぶりを誇張してはいけないということでした。この物語は現代のおとぎ話であって、そこで私が演じるのは優しさと力強さを併せ持つ女性だけど、その動機はまったく分からないのです」(オフィシャルサイより)
 
ダルデンヌ監督は、それを承知で、この殆ど奇跡的な現代の「お伽噺」を作り上げたのである。

それまで一貫して、物語のラストにおいて、主人公の子供や青年少女を救い続けてきたダルデンヌ監督の柔和な視線を全く逸脱することなく、いつものように、物語の中枢とは無縁な一切のエピソードや、そこで普通に語られるだろうスクリプトを切り詰め、排除することで構築し得た、「シンプリズム」の極致も言うべき独特の映像宇宙の基幹ラインを、本作もまた繋いでいた。

しかし、本作ばかりは、些か楽観的過ぎていた。

これは監督自身も認めている。     

 少し長いが、ピエール・ダルデンヌ監督の言葉を引用したい。

初めて夏に撮影したこともあり、太陽がたくさん入り込んでいますし、あれほどの温かさを持っている登場人物(少年の面倒をみる女性サマンサ)も今回が初めてかもしれません。ラストも未来へ開かれていて、しかも楽観的です。これまでの作品でも開かれたものにはなっていますが、これほど楽観的な雰囲気が存在したことはありませんでした。けれど、今まで私たちの映画をご覧になって、最後切ない気持ちで劇場をお出でになったというのはちょっと残念ですが、今回は幾分かマシだったでしょうか(笑)?雰囲気の違いは、心境の変化ということではないと思います。ただ、語っているストーリーが違うということです。弟のリュックも言ったように、私たちは今回、愛が少年を救えるか?という物語を作りました。私たちとしては、救えるというほうに賭けをしたのです。年をとると死が近づいてくるので、楽観的になろうとするのかもしれませんね」(『少年と自転車』ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督インタビュー・映画と。)

サマンサとシリル
このピエール・ダルデンヌ監督の言葉でも検証できるように、愛が少年を救えるか?という基幹テーマを据えた、本作の物語で描かれた上出来の「お伽噺」は、極めて苛酷な状況設定の中で、「愛着対象の喪失」を身をもって体験した少年の未来像に対する、ダルデンヌ監督の強くて熱い思いが結晶化された作品である。

「なぜサマンサがシリルに興味を持つのか、観客には分からないようにしました。心理は説明したくなかった。現在を過去で説明してはならない。『彼女はそうするべくしている』と観客に思ってもらうようにしたかったのです」(オフィシャルサイより)

これも、ピエール・ダルデンヌ監督の言葉。

要するに、物語を根柢から引っ張り切っていったサマンサの心象風景を削り取らない限り、現代の「お伽噺」が成立しないのである。

然るに、「愛」というものの「包摂力」の威力を素朴に信じやすいナイーブな日本人は、本作が、「お伽噺」の要素をふんだんに散りばめた些か感傷含みの作品であるとは見ないだろう。

本作の物語を、そのまま「リアリズム」として受容してしまう日本人と、恐らく、ここで描かれたサマンサの人物造形をそのままストレートに受容し切れない、ヨーロッパ人との映像感性の落差が存在することを認知せざるを得ないのである。

何より、このサマンサの人物造形の「包摂力」の凄みが、本作の主人公であるシリル少年の「問題児性」に真っ向から対峙し、恋人を捨ててまで、会ってまもない「問題児」の「週末里親」を、いとも簡単に引き受けるエピソードに象徴されていた。

そればかりではない。

充分に父性と母性を併せ持つ、「あるべき大人の『全身理念系』」を全人格的に体現する存在として、眩いまでに光を放っているというその一点において、固有の相貌性を超えたサマンサの人物造形の「造形性」が際立っているのである。

この物語が「お伽噺」という所以である。



2  「全身理念系」の「造形性」と思しきスーパーウーマンの「包摂力」の威力



「サマンサ」という、父性と母性を併せ持つ女性のうちに集約仮構された人物の挿入によって、愛が少年を救えるか?という物語の可能性を表現した現代の「お伽噺」は、「落下」→「仮死状態」→「覚醒」→「自立歩行」という「再生譚」をシンボリックに描くラストシークエンスのうちに自己完結を遂げるに至る。

この本作の基幹ラインは、シリル少年が初めて手に入れた、「自分を待つ者」への新たなる「疑似胎内回帰」という寓話性において極まったと言える。   

さすがに、ダルデンヌ監督の技巧は、ここでも冴えていた。

最後までシンプリズムで描き切った、映像としての完成度は極めて高く、限定された登場人物を特化した、シリル少年の心理描写も精緻を極めていて、殆ど文句のつけようがない。

ただ、ここで私は、はたと思う。

父親を求める少年
相応のリアリズムの手厳しい返報を受けてきた私から見れば、「親に棄てられた子」=「親に愛されるに足る価値のない子」という深甚な現実の直撃を受けたことで、自我のルーツを剥ぎ取られてしまった児童期後期の少年の近未来に待機しているであろう、思春期炸裂という心的行程を通して爆発的に分娩される、「自分を棄てた父親」に対する憎悪という、集合的な負の情動系をコントロールしていくことが果たして可能であるのか。

自傷行為や、様々な反抗的態度によってしか表現を結べない一連の行為に見られるように、映像でしばしば見せたシリル少年の攻撃的な自我が、「自分を待つ者」を雄々しく立ち上げてくれた、「サマンサ」という名の美容師との、継続的な共存の深まりの中でどこまで中和化され、浄化されていくか大いに疑問の残るところである。

なぜなら、今やシリル少年には、「父を待つ『避難所』としての児童施設」の存在価値が自壊してしまったのである。

だからもう、少年の選択肢には、「自分を待つ者」への「疑似胎内回帰」による、「再生譚」の推進力になった「全身理念系」の懐に自己投入する以外にないのである。

そのとき、何が起こるか。

ハッピーエンドで括られた時間の向こうに待機する、最も抑制系の効かない複雑で難しい心的行程が開かれたとき、そこでもなお、「再生譚」の推進力になった「全身理念系」のスーパーウーマンの継続力が、果たしてどこまで有効なのか。

その「再生譚」の渦中で暴れ捲る「リアリズム」の苛烈な氾濫が、ドラスチックな思春期過程の煮沸され、突沸(とっぷつ)し切った「非日常」の時間のうちに昇華・収束されるのか。

然るに私たちは、「『彼女はそうするべくしている』と観客に思ってもらうようにしたかったのです」というピエール・ダルデンヌ監督の言葉に誘導されて、「サマンサ」という固有名詞を超越した、「全身理念系」の「造形性」と思しきスーパーウーマンの、「愛」という名の「包摂力」の威力を、素朴に受容するオプチミズムについて疑義を挟む余地すらないと言えるのか。

その意味で、「児童期後期」のシリル少年が「思春期前期」のステージに踏み込んでいったときに、「アクティング・アウト」(封印した記憶が身体表現されること)として噴き上がっていく攻撃性の内実こそ、まさに、「見せかけ」→「試練」→「疑似母子関係の形成」という曲折的な振れ具合によって、関係の様態を検証してしまう侵蝕性の怖さを露わにするのだ。

それは、最低限の規範に則って、「秩序」を構築するときの現実の教育現場の複雑さ・困難さを無視し得ないリアリズムの手厳しい返報でもある。

 幾つかのリアルなエピソードを繋いで提示した映像の、凝縮された分り易さが内包する粗雑さとまでは言わないが、愛が少年を救えるか?という物語の可能性を表現した、現代の「お伽噺」のフィールドはあまりに限定的なのである。

 

 3  「理想」を「主義」にすることの怖さにについて



かつて私も、私塾時代に、本作のサマンサのように、「親に棄てられた子」の教育を、相当の覚悟を括って引き受けたことがあった。

特定他者のプライバシーに関わることだから詳細は言及できないが、結果的に言えば、へとへとに疲弊し切って、頓挫してしまったという痛切な経験を持っている。

「愛」による救済という、耳心地の良い言辞とは程遠い「リアリズム」の手厳しい返報を受け、「全身理念系」で武装した者の脆弱性だけが晒されて、全く為す術がない現実の前で裸形の情動が撹乱し、途方に暮れてしまったのである。

このような由々しき教育を引き受けるには、単純に「愛」とか「優しさ」とかいう、存分に手垢のついた言葉に集合される、訳の分らない雑多な情動系や観念系を束ねてみたところで、それが真の推進力になり得ないことの困難さを学習した次第である。

 何より、「理想」を「主義」にすることの怖さにについて、私はあまりに鈍感過ぎた。

 「理想」を「主義」にすれば、どこまでも観念系でしかない「理想」に「現実」を合わせることになりやすい。

しばしば困難な「現実」を、無茶な「理想」に合わせることによって生じる様々に厄介な事態の原因を、教育の対象人格の「幼稚さ」に帰属させることで、困難な「現実」を強引に合わせるに至った無茶な「理想」それ自身を免責にしてしまうのだ。

 一切の失敗を外部要因に帰属させることの誤謬を、社会心理学で「自己奉仕バイアス」と呼ぶ。

これが怖いのだ。

「理想」を「主義」にするのではなく、「今」、「可能な現実」を知的に把握し、まず、教育の対象人格の能力の及ぶ範囲を測定した上で、現実的に可能なテーマから教育を開くことの重要性を確認する思いである。

「先生のせいです。僅かな楽しみも勉強に変えた。食事も散歩も全て。急な進歩は無理です。普通の10倍も勉強している」

左からイタール博士、ヴィクトール、ゲラン夫人
これは、私が好きなフランソワ・トリュフォー監督の「野性の少年」(1969年製作)の中で、「アヴェロンの野生児」を文明社会に強引に引き摺り込ませんとした、「理想主義」の教育を遂行するイタール博士(トリュフォー主演)に対する、ゲラン夫人の正当な批判の弁である。

まさに、「理想」を「主義」にする者が陥りやすい、「信念居士」の誤謬を指弾する一撃であった。

「急な進歩は無理です」という当然過ぎる指摘をしたゲラン夫人の存在なしに、「アヴェロンの野生児」の「文明化教育」が成就しなかったことが検証される傑作だった。



4  「お伽噺」を仮構してまで、愛が少年を救えるか?という基幹テーマを問いかける一篇



愛が少年を救えるか?という物語の可能性を表現した現代の「お伽噺」は、「サマンサ」という固有名詞を超越する、「全身理念系」の「造形性」にシンボライズした、ソーシャルインクルージョン=「社会的包摂」による支え合いの提示という基幹メッセージのうちに収斂されるだろう。

ネグレクトされたシリル少年の心を溶かしていくには、「サマンサ」のような懐の深い人物でなければ、教育の成就など叶わないに違いない。

幸いなことに、「サマンサ」の「造形性」にシンボライズした「全身理念系」の内実は、前述したような、「理想」を「主義」にする者が陥りやすい「信念居士」の誤謬とは切れている。

彼女なら、シリル少年が「思春期前期」のステージに踏み込んでいったときに、「アクティング・アウト」として噴き上げていく攻撃性を巧みに吸収し、浄化していく能力を発揮し得るかも知れない。

然るに、残念ながら、物語の推進力となった「サマンサ」とは、「あるべき大人の『全身理念系』」を全人格的に体現する存在として、固有の相貌性と切れた「造形性」の結晶であって、普通の大人の「包摂力」の基準を遥かに超越するスーパーウーマンなのだ。

ダルデンヌ兄弟
だから、才気煥発のダルデンヌ兄弟は、「お伽噺」を仮構してまで、愛が少年を救えるか?という基幹テーマを追求し、問いかけたのである。

実際問題として、多くの複雑で難しい事情が絡んでいるにも関わらず、敢えて物語を凝縮し、極めて分り易い状況設定を仮構して構築した映像それ自身が、愛が少年を救えるか?という基幹テーマの問いかけのうちに絞り込んでいるのである。

だから、観る者は、作り手のこの問いかけを内化し、自分の問題意識として反転させていかねばならないのだ。

まさに、この上出来な「お伽噺」を、そういう文脈で捕捉する映画だったという把握以外に、私は感懐を結べないのである。



5  ネグレクトされた少年の生命の表現媒体としての「少年の自転車」



本稿の最後に、「自転車」について書いておこう。

古今東西の映画の中で、単に、乗り手自身の人力による動力源として駆動する媒体でしかない「自転車」が、これほどまでにシンボリックな存在として機能する生き物の如く描かれた例はないだろう。

それは、シリル少年の拡大された自我の発現のツールであり、欲望の稜線を伸ばすときの格好の媒体であり、そして何より、ネグレクトされた心の空洞を埋めていく非言語的コミュニケーションの対象媒体であると同時に、それによって特定他者との言語的コミュニケーションを仲立ちする最強のメッセンジャーでもあった。

特定他者との言語的コミュニケーションを可能にすることで、物語の推進力となった「サマンサ」という名の、懐の深いスーパーウーマンの「包摂力」に誘導されていく、それ以外にない弾け方で駆動する媒体であったのだ。

だからそれは、シリル少年の生命の息吹と化したのである。

因みに、リュック・ダルデンヌ監督は、インタビューの中で「自転車」の持つ意味を説明しているので、以下に引用する。

「ひとりぼっちのシリルにとっては自転車だけが友人です。また同時に、自分の暴力的なところを発揮出来る相手でもあります、八つ当たりをしたり、アクロバットをして前輪を上げたりすることも出来ます。ですから孤独な存在であっても自転車の友人がいる。また同時に、自分の暴力を投げつける相手でもある。そしてシナリオを書き進むにつれて自転車がシリルと他の登場人物たちを繋ぐ媒介になっていきました。すなわち、父を探しに行くのも自転車に乗ってですし、自転車が盗まれてその子供を追いかけてとか、そういった他の人との繋がりがあります。サマンサとの接触が始まったのも彼女が自転車を買い戻してくれたからです。また森の中で泥棒のウエスとアールノも自転車に乗っている状態だからです。このように自転車が他の人々との繋がりをつかさどる役割を担うようになりました。だからこそ最後の方で川縁を二人で自転車に乗って2台並ばせて走るシーンを作ったのです。一台でひとりぼっちだった自転車に対して、母親か姉か友人のようなもう一台の自転車、仲間を与えてあげたのです」(ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督インタビューOUTSIDE IN TOKYO

まさに、「自転車」とは、ネグレクトされた少年の生命の表現媒体であったという訳だ。

 「ロルナの祈り」(2008年製作)を転機として、映像フィールドのアーティストとしての力量を存分に発揮していくダルデンヌ兄弟の、「物語作家」の濃度の極めて高い、新たな地平が開かれていく予感を感じさせるような一篇でもあった。

(2013年2月)

2 件のコメント:

  1. 自転車をシンボリックに捉えた劇映画としても見事な着眼点ですね。本作のお伽噺的な要因とその後の展開の暗部もコメントされ興味深かったです。最新作の(サンドラの週末)では自転車や子どもの象徴はないのですが、主演のマリオン・コテイヤールの赤いトレーナーの日常の衣装、素顔、左肩に出来ている突起物などの身体そのものがシンボリックな装置なのかも知れません。ラストシーンは、やはり彼女が主演した映画(君と歩く世界)を思わせます。一抹の不安感をのこしながらー。

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    1. コメントありがとうございました。

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