2013年1月13日日曜日

ロルナの祈り(‘08)       ダルデンヌ兄弟



<「雑音を吐き出す壊れたCD」が「援助を求める病理の人格」に変換されたとき>



 犯罪者の気質と無縁な女性が「共犯関係」をどこまで継続できるのか、という問題意識



この映画の最大のポイントは、自分が関わる犯罪の内実を知りながら、本来、犯罪者の気質と無縁であると思わせる女性が、そこで出来した「共犯関係」をどこまで継続できるのかという一点に尽きる。

即ち、ごく普通の人間なら普通に形成してきたであろうというレベルの、「良心」という名の「理性的自我」の発動を抑え切ることがどこまで可能なのか。

だからヒロインを、限りなく犯罪者の気質と無縁な女性であると印象づける、このようなタイプの人物設定にしたと考えられる。

このテーマで物語を構築していけば、どこまでも、ヒロインの視線と内面をフォローし続ける、物語の風景の由々しき変容に重点を置いたシナリオが作られても特段に違和感がないだろう。

その結果、たとえ、「共犯関係」が切れていなかったとしても、ヒロインが関与し得ない「外部世界」のシーンが大胆にカットされたことで、物語の緻密な繋がりを切断さる技法のうちに表現されていたが、良くも悪くも、それが却って「鑑賞者インボルブ型」の、ヒロインの内面深くに侵入し得る効果を生み出したとも言える。

カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した所以である。
  
―― 以下、簡単な梗概を書いておく。

アルバニア移民のロルナの目的は、ベルギーの国籍を手に入れること。

 そのため、闇の組織のボスのファビオが仕切る偽装結婚のパートナーとしてチョイスされたのが、ヘビードランカーのクローディだった。

クローディのオーバーユーズによる死を前提にした偽装結婚の先に待つのは、ベルギー人となったロルナがロシア人と結婚することで、ベルギーの国籍を売るというもの。

 紛れもなく、この「あってはならない犯罪」の「共犯者」継続させられる運命を負ったロルナは、多額の資金を得て、アルバニアの同郷の恋人と共に、憧憬の対象だった「自分の店」を持つために、ヘビードランカーのクローディとの物理的共存を選択するに至った。

ロルナ
 紆余曲折する物語は、そこから開かれていく。



 2  「雑音を吐き出す壊れたCD」というイメージが、「援助を求める病理の人格」というイメージに変換されていく心的行程①



ロルナは今まで嘘ばかりついてきた女性だ。虚偽の結婚をして、人をだまそうとしてきた。嘘と真実の戯れの中で生きてきた(ダルデンヌ監督、アルタ・ドブロシに聞く・映画の森)


これは、ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督(兄)の言葉。

偽装結婚に関わった者としての悪銭を目当てにするという、由々しき犯罪に加担する事態に象徴されているように、「嘘と真実の戯れの中で生きて」きて、今も、その「前線」の中枢で生きているロルナだが、それでも、ごく普通の女性が懇望するサイズの夢を持ち、自らはクリーニング店で仕事する労働移民としての日々を繋いでいた。

後者の一点に限って言えば、ヒロインのロルナが、「普通」の範疇に近い女性像として人物造形されていたことは否定しようがないだろう。

そんなヒロインが、自らが関与した、「あってはならない犯罪」の「共犯者」継続させることは、闇の組織の世界にどっぷりと嵌り込む類の自己像変換を遂行しない限り、殆ど困難であると言っていい。

ロルナの視線と内面をフォローし続ける物語の中で映像提示された内実を見る限り、彼女は、偽装結婚に関わった者としての悪銭を目当てにするという由々しき一点を除けば、クリーニング店で真面目に働いていて、その生活風景からは、人格的な致命的破綻を拾うことはできない。

ファビオロルナ
然るに、そんなヒロインが、「ごく普通のサイズの夢」を具現するために、「あってはならない犯罪」の「共犯者」として加担し、「嘘ばかりついてきた女性」の悪しき人生を延長させてしまったのである。

本職がタクシードライバーでありながら、闇の組織のボスのファビオが仕切る偽装結婚のパートナーとしてチョイスされたヘビードランカーが、ロルナに対して、「君の顔を見れば一日の目標が出来るかも知れない」などという言葉を、男女関係の介在なしにメッセージを送波し続けていたこと ―― それが、「あってはならない犯罪」の「共犯者」であるヒロインの内面を、決定的に変容させていく心理的なバックボーンにあった。

偽装結婚のパートナーであり、ギリギリの命を辛うじて繋いでいるヘビードランカーの名はクローディ。

そのクローディとロルナが物理的に最近接したとしても、相互の心理的距離は全く埋まりようがない。(以降、パート3まで、クローディをヘビードランカー、または男と呼ぶ)

男は単に、闇の組織の「共犯者」であるロルナにとって、自分の夢の具現のために犠牲になって死んでいく運命を免れない、固有名詞の剥ぎ取られた一つの「物」でしかないのだ。

ロルナクローディ
何かと自分に援助を求めて、吐き出す男の音声は全て雑音でしかないのである。

それは、序盤のシーンで拾われていたが、CDをガンガン掻き鳴らす男が吐き出す音声を、ロルナが遮断させた行為に象徴されていた。

言うまでもなく、CDをガンガン掻き鳴らしたり、ロルナに部屋の外部から施錠を求めたりする男の行為を支配している感情は、ヘビードランカーから自己解放せんとする男なりの努力の現れだった。

施錠の依頼を求めることで、闇の組織からのドラッグの売人の侵入を防ごうとする男の脆弱な自我には、オーバーユーズ(過剰摂取)した挙句、全人格的に破綻し、復元不能の辺りまで自壊していく戦慄と恐怖が張り付いているのだ。

そんなヘビードランカーが吐き出す言辞の一切雑音として聞き流すことで、ロルナの自我は、未だちっぽけだが、一定の防衛機制を張り巡らせていたとも言える。

それは、「嘘と真実の戯れの中で生きてきた」ヒロインが、偽装結婚のパートナーであるヘビードランカーの、オーバーユーズによる死を前提にして物理的に最近接し、「あってはならない犯罪」の「共犯者性」極点にまで自己投入してしまった行為を相対化するに足る、メタ認知能力の獲得に届き得ない限界性と共存し得る脆弱さでもあった。

ヘビードランカーの死を前提にして構想された、自分の夢の最終的達成を予約させる由々しき事態の危うさが、物語の中枢のラインを占有しているのだ。

このように、極めてネガティブな〈状況〉を確信的に延長させることは、闇の組織の世界に馴致し、難なく犯罪へのハードルを越えるに足る、「負の情動系」という厄介な推進力の集合が不可避であるだろう

実質的に、固有名詞の剥ぎ取られた一つの「物」でしかない件のヘビードランカーに対して、確信犯の才能を有しないロルナが身体化した表現は、どれほど求められても基本的に迎合しないというスタンスだった。

物理的に最近接しても、「共存」する訳にはいかないのだ。

まして、「共有」する何ものをも振り切って、「援助」に振れる「正の情動系」の一切を排斥していかねばならないのである。

だから、「特定他者」を求め続けたヘビードランカーとの関係構造を、ロルナの心情に寄せて言えば、「共存」・「共有」・「援助」に振れる「心理的距離」を決定的に削り切ることだった。

ヘビードランカーの懊悩
ところが、ロルナの反応にどれほど棘が含有しようとも、ヘビードランカーは物理的に最近接して来るのである。

それを撥ね退けるロルナ

そして男は、遂に入院するに至った。

自らの判断での入院である。

男なりに、人間をダメにするドラッグを断とうと努力しているのだ。

ロルナは男の病室を訪ねた。

ベッドでうつ伏せになって寝ている男を目視する。

暫く動けないロルナの心中で、何かが反応した。

闇の組織のファビオとの会話を、その直後の映像が拾い上げていた。

どこまでも、ロルナの視線と内面をフォローし続ける物語は、ロルナの心の変容を精緻に切り取っていく。

 「今度は本気で止めたがっているの」とロルナ。
 「明日にはラリってる」とファビオ。
 「本当に止めたどうするの?」
 「それでもヤクで殺す。止められずに死ぬ奴は腐るほどいる」

ロルナは、ベッドでうつ伏せの状態で寝ていたヘビードランカーに、少なからぬ同情心を抱懐したのである。

誰にも頼れずに、孤独死していくヘビードランカーの惨めな残像が、ロルナの内側に小さな風穴を開けたのだ。

「彼が望むように、“離婚”を」

ロルナはファビオに懇願した。

「ダメだ。ヤク中を雇った意味がない」

 せめて、オーバーユーズによる死を回避したいというロルナの思いは、その一言で片づけられてしまった。

 しかしそれは、ヘビードランカーに対する、「雑音を吐き出す壊れたCD」というイメージが、「援助を求める病理の人格」というイメージに変換されていく心的行程の、ほんの小さな初発の様態だった。



 3  「雑音を吐き出す壊れたCD」というイメージが、「援助を求める病理の人格」というイメージに変換されていく心的行程②



 自らが関与した、「あってはならない犯罪」の「共犯者」という自己像を変換させていくには、ロルナの欲望の稜線が未だ伸び過ぎていた。

 どこまでも、ロルナの欲望の射程には、アルバニアの同郷の恋人であるソコルと、ベルギーで店を持つという堅固な夢が捕捉されている。

 だから簡単に変われない。

 変えられないだ。

且つ、ロルナはヘビードランカーに対して、一時(いっとき)の同情心を惹起させたとしても、異性感情とは明瞭に切れているから、強靭な「援助」の感情に結ばれないのである。

ソコルとロルナ
ソコルと逢瀬し、貪るように愛を確認するロルナ。

 イタリアを拠点にケルンの原子炉で働くソコルに、ベルギーの身分証明書を見せ、相互の貯金を確認し合う二人。

 「早く君と暮したい」とソコル。
 「次はロシア人と“結婚”」
 「そうか。気弱になるな。ゴールは近いんだ」

 この会話のみで、既にソコルも、「あってはならない犯罪」の「共犯者性」を心理的に「共有」している事実が判然とする。

それでもなお、ロルナには、ヘビードランカーのオーバーユーズによる死を回避したいという思いが継続されていたが、それは「共犯者性」を少しでも希釈化させることで、未だちっぽけだが、「罪悪感」への「アリバイ作り」の範疇に収斂される何かであるだろう。

そんなロルナの心理的な「アリバイ作り」が実行に移されたのは、ソコルと別れた直後だった。

自傷行為に及んだである。

それは、ヘビードランカーである偽装結婚の夫からDVを受けたことを証明して、“離婚”を成立させるという荒っぽい手法であった。

ヘビードランカーに事情を話し、協力を求め、嫌々ながら遂行したDVによって、ロルナの思惑は成功する。

しかし、警察の介在を怖れるファビオに呼ばれ、「俺に任せろ」と命じられ、従うロルナ。

ファビオには、オーバーユーズによる自死以外の選択肢がないだ。

 この間、ヘビードランカーが退院するに至り、血色も戻っていた。

 一定の治療効果が奏功したである。

退院した男は、ロルナに部屋に鍵をかけてくれるよう頼み、タバコを買う金だけを残し、自分のユーロ紙幣を全てロルナに渡すのである
 
当然ながら、彼は売人の訪問を怖れるが故に、ロルナからの「援助」に縋る思いが強いのだ。

 しかし、売人の訪問を怖れる男の不安が具現する。

 その現場を視認したロルナは、男から預かった金を隠し、最後まで渡すことを拒んだ。

二人の関係の風景が変容していく、次のステップが開かれた瞬間だった。

無秩序な空間を鋭角的に漂流している、濁り、爛れ切った空気を浄化せねばならなかった。

欲望を別の欲望に変換させていくこと。

これが、ロルナの瞬時の決断だった。

意を決したロルナは、衣服を全て脱ぎ去り、全裸になった。

全裸になった彼女は、今また、ヘビードランカーに戻りつつあった男を誘導し、そこに一つの、それ以外にない情動系全開のセレモニーが開かれた。

裸形の身体が激しく求め合い、貪り合うのである

映像は一転して、限りなく「常人」の相貌を印象付ける男と女を映し出す。

偽装夫婦のルールを破る昨夜の睦みの中で、男は存分にロルナに甘え、同化していったのだろう。

ロルナもまた、男を包括的に受容し、脆弱な男の自我を存分に浄化したに違いない。

これまで度々放たれた男の言葉には、なおオーバーユーズの挙句、自壊していく恐怖が塒(とぐろ)を巻いている。

それでもロルナは、この日ばかりは違っていた。

翌朝、新たに購買した自転車で疾走していく男を追うロルナの表情には、映像で初めて記録される笑みが弾けていた。

それは、まるで恋人同士の、求め合う時間を延長させるイメージに彩られていた。

なぜロルナは、あのような行動をとったのか。

それ以外に、ヘビードランカーの欲望系を浄化させる方法がないと瞬時に決断したからである

ではそこに、男と女の異性愛の感情がどれほど膨らみ切っていたのか。

それが皆無であるとは思えないが、但し、この夜を機に根柢的に変容していくに足る二人の関係構造を、決定的に分けるほどの何かであったとも思えない。

ただ、それ以外にない爛れ切った空気があり、それ以外にない情動系に振れていかざるを得ない切迫した〈状況〉があった。

それだけだったのかも知れない。

しかしそれは、単に物理的に最近接する二人の関係の内実が、相互の心理的距離を相対的に解除していく推進力となり得る初発の様態だったと言えなくもないのである

少なくとも、この日、この夜を経由して、翌朝へと至る凝縮した時間の只中にあって、ロルナは、単に物理的に最近接していただけの厄介なるヘビードランカーに対して、「雑音を吐き出す壊れたCD」というイメージが、「援助を求める病理の人格」というイメージに変換されていく心的行程を擦過していったのは間違いないだろう。(以降、「物」としての「存在価値性」のうちに消費された、逝去していく男の名を、正しく、クローディと呼んでいく)

 

4  「胎児」との命を賭けた逃避行



 「1日中乗るよ。そうすれば気が紛れる」
 「昼間、寄っていい?」
 「ダメよ。忙しいから」
 「食事のためじゃない。その日の目標を作りたいんだ。顔を見たら帰る。君を見てれば耐えられる」

 これが、この世に残した二人の最期の会話になった。

 自転車で疾走していく男と、それを追う女。

 女の表情には、笑みが弾けていた。

 1日限定の健康感溢れる二人の濃密な交叉は、限定された時間を軽やかに漂流し、宛てのない着地点を最後まで手に入れられず、呆気なく破砕されていった。

 仮構された二人の関係がピークアウトに達したとき、ヘビードランカーの運命を免れないクローディは、オーバーユーズによる予約済みの人生を閉じるに至ったのである

呆気ないほどのクローディの死だった。

しかし、ロルナの視線と内面をフォローし続ける映像は、外部世界で惹起したクローディの死を全く映し出すことをしない。

その辺りの事情は、物語と付き合ってきた鑑賞者なら、ロシア人との結婚を急ぐファビオが、ヤクの売人を遣わして、非武装なクローディの命を奪っていったであろうことを、誰でも想像できるものであるからだ。

だから、捜査官がロルナに職質しても、オーバーユーズによる事故死という結論が下されるだけだった。

左からファビオ、ロルナ、ロシア人
この一件によって、ロルナをロシア人と結婚させる計画が一気に進展し、ロシア人との偽装結婚のための談合のカットに繋がっていく。

当初、ロルナがファビオからの報酬を受け取ることを拒んだのは、言うまでもなく、「援助を求める病理の人格」に一時(いっとき)応えようとした彼女の思惑が、闇の組織の面々によって人為的に砕かれた記憶が生々しく残っていたからである。

しかし、恋人ソコルと共有する店への欲望系が遥かに上回っていたため、結局、ファビオからの「成功報酬」を受け取るに至る。

ユーロ紙幣が間断なく行き交うカットの連射に象徴される欲望の稜線の広がりは、本作のメタメッセージとしてのイメージが色濃く反映されているのである。

人間は簡単に変わらない。

それまで「嘘と真実の戯れの中で生きてきた女が、一人のヘビードランカーの死によって、深い贖罪感に襲われ、懊悩する日々を送るという設定はあまりに安直過ぎるだろう。

いつしか、クローディの死を忘れ、恋人と共有する店の物件を手に入れて、欣喜雀躍するロルナがそこにいた。

興奮しながら、携帯でソコルに店舗の間取りを逐一報告するときのロルナは、完全に舞い上がっていた。

ロルナの一言一句が、ネガティブな過去の断片を払拭し、潰しにかかっていく。

しかし、突如、変化が起こった。

悪阻を体感したのである。

 この経験が、ロルナが潰しにかかっていた過去の断片を蘇らせたのだ。

 ロルナの記憶に生々しく蘇ってきたのは、クローディの存在だった。

 クローディと「共存」し、「共有」し、「援助」に大きく振れたあの一夜だった。

 ここから、ロルナは変貌していく。

 病院で検査して、妊娠に対する大きなストレスが原因の想像妊娠であると告げられても、その診断を信じないロルナの変貌は、明瞭に風景の変容をもたらした。

 風景の変容は、対人関係の変容をもたらしていく。

 「あなたも彼と同じね。心配なのは自分の金だけ」

 恋人ソコルもまた、ファビオの一味と同根であると言い切ったのだ。


ロルナを演じたアルタ・ドブロシと、ピエール(右)、リュック(左)のダルデンヌ兄弟

妊娠に対するストレスに起因しないロルナの想像妊娠は、「嘘と真実の戯れの中で生きてきた」過去を相対化することで惹起したストレッサーの負の集合体にも思える。

「想像妊娠はロルナの罪悪感の表れとも言える。想像妊娠したことで彼女はお腹の痛みを感じる。それは彼女が罪悪感を持ち始めたことの表れなのだ。虚偽の子供は、彼女の罪悪感を示す存在なんだ」(ダルデンヌ監督、アルタ・ドブロシに聞く・映画の森)

これは、リュック・ダルデンヌ監督(弟)の言葉。

作り手は、想像妊娠によって、ロルナ罪悪感を初めて感受したと説明したが、充分に了解し得るものであるだろう。

それまでのロルナの心の居心地の悪さは、「あってはならない犯罪」の「共犯者」という自己像を認知したくないばかりに、「援助」という名の「アリバイ作り」の範疇を逸脱するものではなかったからである。

ともあれ、ソコルとの決別は、当然ながら、ファビオ一味との決別を意味していたが故に、自らの命の危険性を一気に高めていく。

自らの命の危険性を高めていくことは、「胎児」の命の危険性をも高めていくことになる。

だから、ロルナは逃走する。

山に逃げ、そこに小さな小屋を見つけ、火を起こすための薪を集めて暖をとる。

一切は、「胎児」の命を守るためだ。

「殺させないわよ。絶対に。お父さんを死なせた。あなたは生きて」

「胎児」に語りかける「母」が、そこにいる。

「おやすみ」という一言を残して閉じていく映像を、ベートーベンのピアノ・ソナタが柔和に包み込み、エンドロールへと流れていった。



5  想像妊娠という予約外の方略に振れていく贖罪の心的行程



「ラストシーンに至って、もう彼女は後戻りしないだろうと分かる。彼女は人間性に目覚め、優しい人間へと変化している。想像上の子供が、人間的な感情を見出すことに手を貸してくれたんだ」(前掲サイトより)

リュック・ダルデンヌ監督の言葉である。  

想像上の子供はクローディの亡霊だと見てもいい。突如として画面から姿を消してしまったクローディが、あのような形で観客のもとに戻ってきたということだ」(前掲サイトより)

ピエール・ダルデンヌ監督の言葉である

一貫してBGMを使用することなく、ドキュメンタリーの筆致でリアリズムに徹した映画を構築してきたダルデンヌ兄弟とは思えない、極めて形而上学性の濃度の高い説明だが、思うに、少ない登場人物の中で特化された主人公の内面深くに、16ミリハンディカメラを潜入させて作画することで、主人公の心の振幅を精緻に描き続けてきたキャリアを思えば、この発言は特段に違和感を覚えるものではなかった。

クリーニング店で働くロルナ
冒頭で言及したように、本作のテーマが、自分が関わる犯罪の内実を知りながら、本来、犯罪者の気質と無縁であると思わせる女性が、そこで出来した「共犯関係」をどこまで継続できるのかという一点に収束されていく、その内的行程を描き出す構成であることと全く乖離しないからである。

「嘘と真実の戯れの中で生きてきた」ロルナが、好むと好まざるとに拘らず、闇の組織によって「物理的に提供」されたヘビードランカーとの物理的近接を果たすことで、必死に求めてくるクローディとの心理的距離が幾つかのステップを経て縮まっていく行程は、ロルナという女が本来的に犯罪者の素質を持った人物として造形されていないことを意味する。

そんな彼女が、「究極的な援助」に振れていったあの夜の出来事は、闇の組織との「共犯性」を相対的に希釈化させる効果を包含しながらも、彼女は決定的なところで変容し切れなかった。

闇の組織が張り巡らせた暴力のバリアが、彼女の内発的変容の芽を地中深くに埋め込んでしまっていたからだ。

しかし、犯罪者の素質に欠ける彼女が闇の組織のバリアを抜け出すには、外発的で内部身体的な構造の変化を必至にした。

それが、想像妊娠の発現だった。

思うに、ロルナにとって、想像妊娠という予約外の事態の発動だけが、唯一、贖罪に振れていく方略でしかなかったのである。

クローディの子を身籠ったと信じる彼女の内部世界の中枢に、「二つの人格」が心理的に最近接したときのクローディの叫び・悶絶・懊悩が侵入し、抑制が効かない程の内部世界での氾濫を惹起していくことで、最終的に「二つの命」を育てあげていこうとする意志に結ばれていく。

それは、今やそれ以外にない、ロルナの新たな再生の旅のイメージだったのだ。

それにしても、ヘビードランカーの役を演じ切ったジェレミー・レニエの圧倒的な表現力に、プロの凄みを感じ入った次第である。

イゴール少年の訴求力の高い表現力は、全く相貌を変容させつつ、正真正銘のプロの俳優へと上り詰めていったようだ。

(2013年1月)

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