2012年12月12日水曜日

冷たい熱帯魚(‘10)     園子温



<「他者の運命を支配する『絶対者』」への「人格転換」の物語の暴れ方>



 1  「全身犯罪者」という記号の破壊力が開かれたとき



富士山麓の地方都市で、小さな熱帯魚店を経営する社本信行は、後妻の妙子と、前妻の娘美津子との折り合いの悪さを嘆息する気弱な性格ゆえ、万引きの常習を重ねる娘に、「父性」を発現できず、殆ど家庭崩壊の非日常を繋ぐ危うさを常態化させていた。

その日もまた、娘美津子の万引きが発覚し、スーパーに呼び出される夫婦。

スーパー店長の怒りが収まらず、今や警察沙汰寸前の、その夫婦の危機を救ったのが、大きな熱帯魚店を経営する村田幸雄。

スーパーの店長と知り合いの誼よしみだったからだが、事の全てが、社本の妻子を「人質」に取り、その社本を利用して悪事を働く村田の「陰謀性」の異臭を漂わせるが、警察沙汰にならずに済んだ事態に安堵する社本には、当然の如く、村田に対する債務感情の途方もない大きさが認知できていなかった。

「全身犯罪者」としての村田の本性は、早くも、その日のうちに剥き出しになる。

社本の前妻の娘美津子を、村田が経営する、アマゾンゴールドという名の派手な熱帯魚店で雇い入れることを、一方的に決めてしまったばかりか、社本の妻妙子を言葉巧みに篭絡(ろうらく)し、信じ難いまでに非武装性丸出しの彼女を犯すのだ。

村田の「商談」
そして、社本を儲け話に強引に誘い込んだ挙句、気の乗らない投資家に持ちかけて、極めてフラットな戦略的言辞によって、「商談」を一気にまとめた際に剥き出しになった村田の本性は、件の投資家に毒入りの栄養ドリンクを飲ませて殺害する現場に立ち会わせることで、社本との「共犯関係」を作り出す異常な犯罪行為のうちに炙り出されていくのである。

極悪非道で、獣性剥き出しな村田の「ビジネス」の実態を知っても、時既に遅し。

村田夫妻の犯罪に、有無を言わさずインボルブされた社本は、死体処理の手伝いをさせられる始末だった。

投資家の死体を毛布で包(くる)み、それを車のトランクに押し込んだ村田は、社本に命じて車を運転させ、腹切り山の山頂の山小屋へと向かうのである。

それは、「全身犯罪者」という記号の破壊力が開かれた瞬間だった。
 


 2  「他者の運命を支配する『絶対者』」にまで下降し切った男



「親父がよ・・・頭イカレちまってよ。ここに閉じこもってたんだ・・・俺も小さいときから、ここに閉じこめられて・・・ひでぇめに遭っちまったもんだ」

これは、社本に運転を命じて到着した、腹切り山の山頂の山小屋での、毛布で包(くる)んだ死体の解体現場で、社本に吐露した村田の言葉。

「ボデーが透明になっちまったら何も分わかりゃしねぇ!俺は常に勝新太郎」

これも、マーラーの交響曲第1番『巨人』第三楽章が流れるマイナーな空気感の中で、社本に豪語した村田の余裕含みの言辞。

死体解体
幾種類もの形状の刃物を駆使して解体した死体を骨と肉に分け、骨を焼却した後、血糊のついた肉を渓流に捨てるという、極めてダウンサイドリスク(損失リスク)の高い行為を遂行する男の人格の表層には、あまりに馴致し過ぎた犯罪の累加の中で、警察に疑われることがあっても、「透明になっちまったら何も分わかりゃしねぇ」と嘯(うそぶ)く大胆な確信犯の驕りがべったりと横臥(おうが)ているのだ。

「お前は俺の小さい頃にそっくりだな。ビクビクしてよ、反抗もできないのかよ」

これも村田の科白。

村田の攻撃的言辞の背景は、当然過ぎることだが、死体の解体の作業に馴致し得ずに、弱みを晒すだけの社本への苛立ちの中で、村田が挑発したもの。

そして極めつけは、極限状況に捕捉された社本の暴走による村田殺しの際に、絶命寸前に絞り出された村田の最期の言葉。

 「お父さんやめて・・・お母さん助けて・・・」

それは、この男のトラウマの根の深さを改めて感受させるものであるが、何より、ぎりぎりの状態で、辛うじて維持された命が吐き出すバイタルサイン(生命の徴候)の極限的悲哀でもあった。

 以上は、物語の4か所で拾われ、村田の出自の背景が挿入されたシーンである。

ここから読み取れるのは、父親から継続的に虐待的暴力を受けてきた村田少年にとって、その虐待から如何に逃れるかということにエネルギーの大半を蕩尽したことで、「親に愛される自己像」を獲得できない歪んだ自我が、そのまま延長されていった精神史の風景である。

「全身犯罪者」村田
ネガティブな自己像を払拭するために、この男が「全身犯罪者」の獣道(けものみち)に踏み入っていった曲折的経緯を想起すれば、この男にとって、単にビジネスの世界での成功によって得られる「自己像変換」よりも、穿(うが)って言えば、「他者の運命を支配する『絶対者』」として君臨することの快楽の方が価値を有する何かだったと言えないだろうか。

そのことを端的に検証し得るシーンがあった。

本作で、村田の人格の本質が剥き出しにされるそのシーンとは、前述したように、吉田と称する投資家に共同出費を打診して、気の乗らない吉田を言葉巧みに籠絡し、1000万の金を受領した直後、ドリンク剤を飲まして殺害するシーンで放った際の言辞がそれである。

「俺は誰がいつ死ぬか、いつまで生きるか、ちゃーんと知ってるんだ。どこでくたばってもらうか、それを決めるのは俺だ!」

怒号する男の情動がフルスロットルの状態下で暴れ捲っていたこのショットは、村田の人格像の裸形の本質を露わにするものだった。

この村田の一喝に象徴されているように、この男は、「成功したビジネスマン」によって得られる快楽以上に、寧ろ私には、「他者の運命を支配する『絶対者』」として君臨することが自己目的化されているように見えるのだ。

この究極の自己像の確保こそ、この男のトラウマを突き抜けるに足る、捩(ねじ)れ切って、歪み切った人格構造の本質であると思えるのである。

村田と社本
いずれにせよ、「他者の運命を支配する『絶対者』」として君臨するという辺りにまで稜線を伸ばした男の、その「自我拡大衝動」が必然的に開いた「全身犯罪者」という記号の破壊力は、今や、「神」が見守る山小屋=「聖地」の中で、「他者の運命を支配する『絶対者』」に抗う特定他者の遺体を解体し、既に細分化された有機物を、渓流の静謐な世界を遊弋(ゆうよく)する魚たちの餌にするところにまでいかないと気が済まない、希代の「怪物」にまで辿り着いてしまったのだ。

それは、デビッド・フィンチャー監督の傑作として、今やカリスマ的輝きを放つ「セブン」(1995年製作)のジョン・ドウがそうであったように、精神分析家のオットー・カーンバーグが言うところの、「自己愛性人格障害」と、「超自我」(フロイトの概念としての「良心」)の欠如した「反社会性人格障害」の共通項である、「自己中心性」・「自己顕示欲」・「共感性の欠如」・「過剰な優越欲求と支配欲」・「無謀な衝動性」・「適応的学習の困難」・「発達早期の愛情剥奪」等が顕著に現出した、典型的な「全身犯罪者」と化した人格構造の親和性が認知されるように思われるのである。

ミシェル・フーコー
 因みに、「狂気の歴史」(新潮社)の中で、「狂気」は権力によって作られると断じたミシェル・フーコーによれば、人間の「狂気」は元々、人間に内在するものであるが故に、理性と「狂気」は共存可能なものだったと主張したが、本作における村田の人格のルーツを探っていけば、前述の通り、「親に愛される自己像」を獲得できない歪んだ自我が、そのまま延長されていった精神史の風景を見るとき、村田の「狂気」が、最も身近なる「父親」との圧倒的な権力関係の爛れ方の中で作られたと看做すべきなのだ。

「家族」の問題抜きに、「狂気」を常態化する男の自我のルーツを粗略に扱ってはならないのである。

今や、「全身犯罪者」という記号の破壊力を身体化した、「他者の運命を支配する『絶対者』」にまで下降し切った男 ―― 汝の名は村田幸雄なりである。



 3  「見えない鎖」と「見えない檻」を突き抜ける戦争を開いた風景の変容



社本信行
「全身犯罪者」という記号の破壊力を身体化した、「他者の運命を支配する『絶対者』」に眼をつけられてしまった、本作の主人公・吹越満演じる社本信行にとって、男が張り巡らした堅固な「見えない鎖」と「見えない檻」に拉致され、全く身動きができない恐怖感は完全に常軌を逸していた。

社本は、「非日常」の極点である〈死〉に最近接することで、感情を十全に制御し得ない内的状態を引き摺ったまま帰宅し、妻妙子の豊満な肉体を貪った。

「性は小さな死である」と、フランスの異端思想家ジョルジュ・バタイユが言うように、〈死〉は、常に〈性〉と最近接しているのである。

そんな社本が、「全身犯罪者」である「怪物」村田から逃避できない心理は自明である。

「怪物」が張り巡らした堅固な「見えない鎖」と「見えない檻」からの逃走は、紛れもなく、「観念としての死」のリアリティ最近接する、社本という身体の生物学的な解体を意味するのだ。

このことは、生命の安全を継続的に保持する羅針盤としての、社本の自我が未だ破壊されていない事実を検証するだろう。

村田という希代の「怪物」は、社本にとって、今や「他者の運命を支配する『絶対者』」以外ではないのである。

社本を挑発する村田
「俺は殺しもするが、ちゃーんと解決案を考える。お前はよぅ、お前は今までの人生の中で、自分の力で一度でもすっきりさせたことがあるか?俺を見てみろ。警察もヤクザも全部敵に回しても、ここまで自分の力で生きてきたんだ!」

希代の「怪物」が放つ攻撃的言辞には毒素が詰まっているが、そこに注入された「悪徳の経験則」の本質を衝くリアリティの前で、もう、決定的に立ち向かう「狂気」の落差の分だけ尻込みしてしまうのだ。

社本の、この心理文脈を生理学的に説明すると、以下のように把握できるだろう。

即ち、人間に内在する基本感情であり、危険に対する強い生物学的な感覚である恐怖心によって、「他者の運命を支配する『絶対者』」に極度に怯えた状態になり、戦うか逃げるかという「闘争・逃走反応」=ストレスコーピング(ストレス対処法)としてのアドレナリンの緊急反応が惹起したことで潜り込んだ、貯留された恐怖感情の生々しい記憶が延長された時間の中で、それまで生命の安全を守るために、自我の指令によって用意されたエネルギーの負の放出=興奮状態の慢性化による、最強のストレッサー(村田という名の希代の「怪物」)に対する、生体の局所的な適応反応状況が極限的な防衛ラインを構築し得ていたということ ―― この生理学的な文脈のうちに、社本の退行的心理を読み解くことが可能である。

イメージ画像・プラネタリウム
堅固な「見えない鎖」と「見えない檻」からの逃走が心理的に遮断され、クローズドサークル(外部と遮断された状況)に捕捉された社本は、逃避行動の一環として、妻妙子を随伴し、客足のないプラネタリウムに行く。

園子温監督は、インタビューの中でプラネタリウム=性善説の象徴であると語っていたが、私には、プラネタリウムの観念系の世界に身を預け、46億年の地球の歴史の遠大さを感受することで、現実に起こっている「非日常の恐怖の日常化」を希釈化させていくというイメージの方が、より説得力を持つように思われる。

だから、それは一時(いっとき)の慰撫にもならなかった。

元々、社本は、娘の義母となる後妻の妙子を含む、「幸福家族」という極上の物語を、プラネタリウムでの睦みの世界への耽溺のうちに幻視していたが、それはどこまでも叶わぬ夢物語に過ぎなかった。

そんな社本プラネタリウムへの潜入すらも許容しない状況の切迫が、気の弱い社本に行動変容をもたらしていく。

未だ決定的なところで攻撃を免れる可能性が信じられるとき、逃避行動を反転させて、猫に向かって甲高い威嚇音声を発しながら攻勢に転じる鼠の話がある。

「窮鼠猫を噛む」という故事成語である。

真相は、攻勢に転じた鼠と真っ向から闘争する猫は殆ど存在しない。

イメージ画像・窮鼠猫を噛む
猫の「生得的解発機構」(本能)には、攻勢に転じた鼠と真っ向から闘争するメカニズムが組み込まれていないからである。

 然るに、残念ながらと言うべきか、人間には「生得的解発機構」(本能)が完備されていないのだ

 だから、極限状況下に置かれたときの人間の反応は、一概に説明できないのである

生体の局所的な適応反応状況を断ち切って、更なるアドレナリンの分泌によって惹起される、ストレッサーである特定他者に対して暴力的にもなり、命を懸けて戦うこともある。

しかし、命を懸けて戦うには、「狂気」のサポートを不可避とするだろう。

「狂気」とは、「非日常」の極点である〈死〉に最近接することで、感情を十全に制御し得ない内的状態と言っていい。

人間の恐怖を消し去る機能を持つと言われる、扁桃体(情動反応に関与する側頭葉の器官)の「ITCニューロン」についての仮説は未だ充分に検証されていないが、落命する確率の高い危険を冒してまで、「生きるか死ぬか」というレベルの無謀な「恐怖突入」を身体化するには、生命と安全の司令塔である自我が十全に機能していないことが前提となるだろう。

明らかに、死ぬことが予想される最悪の事態に対する反応形成の場合、生命と安全を保証する逃避行動を選択する確率が最も高いと言える。

村田と社本
だから、主人公は警察に連絡しなかった。

あまりに自明な心理である。

然るに、今や、「恐怖突入」なしに済まない極限状況に捕捉されてしまったとき、私たちの自我は、「命を賭けた闘争」に自己投入することを命じるに違いない。

その意味で、主人公社本の村田殺しには充分な必然性があった。

そこには、もはや、「命を賭けた闘争」に自己投入することなしに済まない極限状況に拉致されてしまったという、社本なりの情動的認知が介在したであろう。

そればかりでない。

彼は、自らの人格総体を、堅固な「見えない鎖」と「見えない檻」によって縛りあげた「全身犯罪者」によって、人間の尊厳を冒される攻撃的言辞を存分に浴びていたのである。

それは、愛する妻妙子が「全身犯罪者」の手籠(てごめ)にされたという事実を知ったこと。

社本の変容
この攻撃的言辞は、社本の内側深くに封印されていた、相応の「狂気」を炸裂させていく決定的な契機になったと考えられる。

従って、村田の殺害は、人間の尊厳を冒された者の「狂気」の炸裂であるが故に、心理学的に説明可能であり、充分に納得もできる。

 この村田の殺害までの物語の流れは、構成的に粗雑な瑕疵が見受けられつつも、一定のリアリティを保持した犯罪ドラマとしての劇薬性が存分に表現されていた。

ところが、ここから映像の風景が一変する。

本作にとって、この映像の風景の一変こそが、「展開予想外し」の物語の肝であると考えていることが理解し得るが故に、私には何より、その辺りの「風景の変容」に関わる物語展開が気になって仕方がなかった、というのが正直な感懐。

たとえそこに、太平洋戦争における「玉砕戦」に象徴される、日本人的な「死に狂い」の心理が媒介されたと考えたにしても、主人公社本の一気の暴走による、極端な「人格変容」から開かれた一連の衝撃的なラストカットまでの流れには、心理学的リアリティが破綻しているのだ。

これは、一体どう読み解いたらいいのか。

 以下の稿で言及していきたい。



 4  「他者の運命を支配する『絶対者』」への「人格転換」の物語の暴れ方



 園子温監督①
「映画はなんだか親子の愛とか男女の愛とか愛が大切みたいな映画ばかりで現実と剥離している。社会を見ないための映画、逃げ場としての映画館みたいになっているので、そんなことで今後生きていけるのかという危惧を感じる。現実を直視しないとダメになると思うので、こういう映画を撮っていかないといけない。ぬるい映画に飽きた日本の観客に、『僕はパンチの効いた映画を作っていますよ』とアピールしたかったんです」(『冷たい熱帯魚』園子温監督インタビュー・シネマジャーナル)

諸手を挙げて首肯したい、この園子温監督の思いに寄せて言えば、こういうことだろう。

観る者がアプリオリに予約した物語のラインを、「展開予想外し」の技法のうちに要所要所で反転させていくことによって、観る者が当然の如くイメージする観念系の一切を自壊させること。

そして、それを刺激的な画像の連射によって映像提示することで、「ぬるい映画に飽きた日本の観客に、『僕はパンチの効いた映画を作っていますよ』とアピールしたかった」ということ。

要するに、映画鑑賞において、要所要所に嵌め込まれた「約束事」に馴致し、それを当然の如く受容してきたことによって累加されてきた、嫌味なまでの「映画の嘘」が内包する虚飾と欺瞞性を剥ぎ取ることであると括れるだろう。

娘の前で妻を凌辱する社本
従って、そこで提示された過剰なまでに刺激的な画像の連射による「初発のインパクト」 ―― これが「完成形のエンタメ」としての映像に収斂されていったのである。

「狂気」なしには描き切れない作り手の挑発的メッセージは、心理学的リアリティを壊しても、そこで提示した「人格変容」を果たした主人公の「叛乱」によって、既成の映画鑑賞の緩々(ゆるゆる)系の情感濃度の深みに潜り込むことで、一定の確率で現出する救いなき人生のリアリズムの悍(おぞ)ましさに対して、それを克服するに足る免疫力を劣化させてきた者たちへの、毒素満点の切っ先鋭い攻撃的画像を突き付けてきたと読み解けるのだ。

毒素満点の切っ先鋭い攻撃的画像の、「攻勢終末点」(クラウゼヴィッツの『戦争論』において提唱された「攻撃の限界点」のこと)に待機していたのは、「人生っていうのは痛いんだよ!」という一言を、一貫して状況に翻弄され続けた果てに、「人格変容」を果たした主人公に叫ばせる、それ以外にない決め台詞の突き付けだったという訳だ。

しかし、フィニアス・ゲージ(注)の例で端的に証明されているように、記憶・思考・感情の中枢である大脳の前頭前野が破壊されることによって、「人格変容」と呼ぶべきものが惹起されるという科学的見地を無視することはできないだろう。

なぜなら、脳の司令塔としての前頭前野の発達こそが、人間と他の動物を決定的に峻別するが故に、「生得的解発機構」(本能)を持つ動物とそこだけは分れて、本能機能の代償として、私たちが自我と呼ぶ生命と安全の羅針盤が存在すると考えられるからだ。(岸田秀の把握を私は支持する)

ゲージの肖像写真(ウィキ)
フィニアス・ゲージの悲劇は、彼の自我が破壊されてしまったという科学的所見の問題に尽きるのである。

ここで、本作での社本の暴走について考えてみたい。

前述したように、社本の暴走が、人間の尊厳を冒された者の「狂気」の炸裂であったという把握には、全く問題がない。

私が気になったのは、「狂気」の炸裂のサポートなしに、極限状況に拉致されてしまった男の暴走を説明することが不可能でありながら、極端な「人格変容」を体現する社本の暴走の内的風景には、状況を支配して暴れ捲る、単なる情動の氾濫として構成化されていなかった点である。

と言うのは、その後の彼の暴走行為が、「狂気」に根ざす犯罪者の暴走という文脈で括れないのだ。

彼の自我は壊れていないどころか、今や、「狂気」の炸裂のサポートなしに、「確信犯」の不埒な稜線上で、封印してきた一切の情動を、このときを待機していた者が解き放つギミックを体現するようだった。

それは恰も、「確信犯」の「全身犯罪者」=「他者の運命を支配する『絶対者』」としての村田幸雄の「黄泉がえり」を彷彿とさせる何かだった。

自我が壊れていないからこそ、プラネタリウムの幻想に逃避していた人格を、180度変容させる別の人格=「状況の支配者」に化け切るという、およそあり得ないような描写を繋いでいったのである。

あれほど気が弱かった人間が、警察に向かって居丈高に指示し、村田の死体の解体を、彼の妻愛子に命令し、且つ、素行の悪い娘美津子を掠(さら)うようにして、村田の熱帯魚店から帰宅させ、愛する妻に食事を作ることを命じるという、完璧で過剰なる「父性」を身体化し切っていくのだ。

これら一連の確信犯的振舞いによって、「家庭崩壊」の原因を作った程に気弱な男が、「状況支配者」に化け切るほどの攻撃的な人格を、単に一過的な錯乱の範疇での暴走行為とは明瞭に切れて、完璧で過剰なる「父性」の極限的様態を継続的に繋いでいくという「人格変容」を体現してしまったのである。

社本の「人格転換」
要するに、これは「人格変容」と言うより、「他者の運命を支配する『絶対者』」としての村田幸雄への「人格転換」なのだ。

気弱な人間が、たとえ内深くに封印した「狂気」を抱えていたにしても、ある瞬間に、気の強い人格に変貌することなどあり得ないだろう。

だから、これは「人格転換」なのである。

これは、井坂聡監督によるメディア批判のシリアスドラマの傑作、「Focus」(1996年製作)の主人公の暴走ぶりと比較すれば瞭然とするだろう。

「Focus」は、単に気弱な「盗聴オタク」であった主人公の青年金村が、狡猾なメディアの取材の挑発に乗せられた挙句、偶発的に発生した殺人行為を契機に、一気に暴走していくというドラマだった。

しかし、金村の暴走の推進力は、殆ど自己統制困難の機能不全と化した自我の空隙を縫って、彼の中で封印されていた「狂気」が暴れ捲り、最後まで状況をコントロールし得ずに、メディア共々自壊していくのだ。

ここで重要な視座は、金村の「行動変容」には、それを惹起させるに足る心理圧の累加が前提となっていたので、彼の人格が全く別の人格に変容していくというギミックの技法の挿入など埒外だった。

だから「Focus」は、シリアスドラマの傑作に成り得たのである。

「Focus」より
主人公の金村の「行動変容」は、一貫して非確信犯的であり、「狂気」のサポートなしに暴走を繋げない脆弱性が露呈されていたのである。

このメディア批判のシリアスドラマの傑作と比較するとき、本作における主人公社本の「人格変換」というコミック的な設定を、敢えて大仰に映像提示した根拠は何だったのか。

その根拠を私なりに結論づければ、今やコモディティ化された映画コンテンツを執拗に吐き出してきた挙句、それを求める鑑賞者を満腹にさせてきたと信じる邦画界の、「愛」と「癒し」の予定調和の物語の底知れない欺瞞性を、決定的に破壊し切るというシンプルな基本モチーフが推進力となって、確信犯的な裸形の表現に結ばれたという解釈以外に考えられないのである。

そのために採った手法が、「展開予想外し」の技法であった。

これは、主人公の社本を見事なまでに演じ切った、吹越満のインタビューからも検証できるもの。   

 彼は語っている。

吹越満
「観る人の予測を順番に外して、最終的に全部外しちゃう映画ですよね。それもきちんと(笑)。だから、エンタメとして成立している」(吹越満インタビュー映画・エンタメガイド)

予定不調和の村田殺しを契機にした社本の暴走が、「家庭崩壊」の空隙が端緒となった、その家庭を決定的に破壊し切って自己完結するドラマの流れが、「展開予想外し」の技法のサポートによって成立している限り、この映画が心理学的リアリティによって検証しようとすること自体殆ど意味を持たない、突き抜けた「完成形のエンタメ」として受容する外にない一篇だったということなのか。

思うに、その戦略の内燃機関をフル稼働させたのは、全て既成の物語の文脈の破壊を狙った作り手の思惑の炸裂であるからだ。

 その一点に収斂される映像は、毒素満点の「完成形のエンタメ」として、封印し切れない「狂気」を炸裂させ、「深層崩壊」への着地点を定めたスポットで爆轟(ばくごう)する以外になかったのだろう。


(注)鉄の棒が頭蓋骨を貫通したことで、前頭葉の大部破損という大事故に遭いながらも生命を維持したが、温和な性格が一変し、粗暴な男に「人格変容」してしまったという実例。この事例から、前頭葉に人間の自我の基点が存在するという仮説も成り立つ。



 5  氾濫する映像の独走感・疾走感によって剥落された「自我関与」の稜線伸ばし



どうやらこの作り手は、自分の描きたいイメージの全てを映像化しないと気が済まない性格の監督らしい。

「作り手利得」の編集段階において、非本質的な部分を削ることを好まないように見えるのだ。

園子温監督②
作り手のイメージの中で浮かんだアイデアを、全て映像化すれば当然長尺なものになる。

だから、私の場合、死体の解体シーンを3度も見せつけられて殆ど食傷気味だった。

加えて、主人公を暴走に駆り立てていく契機になった、「全身犯罪者」の自己基準に則った説教をくどいほど描き出すシーンを見せつけられ、ここで私は、正直、物語の律動感を受容し、それをフォローしていく気分が萎えてしまったのである。

「全身犯罪者」の説教などは、恐らく、その3分の1程度の表現で充分補完できるものであったにも拘らず、「初発のインパクト」によって観る者に侵入してくる毒素は、それでなくとも、提示された映像の中で容易に読み取れる類いのものだっただけに、マシンガントークさながらに連射され、噴き上げていく言辞によって、状況を支配することで相手を威圧し、自分のフィールドに引き込む男の戦略は、最後まで、その暴力的様態を露呈させるカットの中でアナーキーに暴れ捲っているだけだった。

この作り手が、氾濫するイメージの洪水に愉悦するナルシストとまでは言わないが、研ぎ澄まされた思考回路によって、長尺なカットの贅肉を削り落すことで増幅するだろう、「完成形のエンタメ」基準の洗練された映像の構築性が、本作において受容し切れなかったことが残念でならなかった。

従って本作は、「間」の欠如に起因する氾濫する映像の独走感・疾走感によって、観る者の「自我関与」の機会を剥落させてしまうことで、私たちの思考の継続力を奪ってしまう瑕疵を分娩させてしまったのである。

何より、観る者の「自我関与」に誘導される問題意識が、適性サイズの「鑑賞者利得」による、「感受し、吟味し、味わう」という知的稜線の停滞現象が出来することの瑕疵は、決して「完成形のエンタメ」のギミックによって相殺される何かではないはずだ。

少なくとも、私にはそう思えたのである。

そして、もう一点。

物語展開の中で看過し難かったのは、ラストシーンにおける粗雑な構成である。

主人公から解体現場を教えられた刑事が、逸早く現場に行かねばならないのにも拘らず、本人確認の必要のない主人公の妻子を、警察車両に同乗させた描写である。

この設定は、あまりに見え透いていないか。

要するに、ラストシーンにおいて、主人公に決め台詞を言わさせることで、「展開予想外し」の技法によって長尺な映像閉じていく構図のアイデアのうちに、一貫して観る者を裏切り、置き去りにさせてきた作り手の狙いに嵌ったかのような、過剰なまでに刺激的な画像の連射による「初発のインパクト」抜群の物語を自己完結させるためには、警察車両に妻子を同乗させねばならなかったという狡猾さが、あまりに恣意的で見え透いている設定だったと言わざるを得ないのだ。

それは、スプラッター含みながら、シビアな問題提示を内包した、「完成形のエンタメ」という甘えの中に収斂できないエピソード挿入だった。

 それ故、「展開予想外し」の技法を確認してしまった現在、恐らく、二度と観る気が起こらないだろう。

それでなくとも、私には、「感受し、吟味し、味わう」という知的稜線を伸ばし切れない分りやす過ぎる映画との付き合いは、鑑賞後10分程度の賞味期限しかないようだから、もう、好みの問題としか言えないのである。

 但し、この作り手の確信犯的な基本モチーフを支持する思いには、全く変わりようがないことを書き添えておきたい。

(2012年12月)






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