2012年11月12日月曜日

アウトレイジ('10)      北野武



<「非日常」の極点である〈死〉に最近接する「狂気」と乖離した何か>



1  「物理的・心理的境界」の担保によるリアリティの敷居の突き抜け



〈死〉と隣接する極道の情感体系で生きる男のアンニュイ感が、海辺の廃家を基地にした「遊び」の世界のうちに浄化されることで得た、ギリギリの生命の残り火の炸裂のうちに表現された「ソナチネ」(1993年製作)が、北野武流バイオレンス映像の最高到達点であり、そこで提示された作り手自身の「生死観」が、「HANA-BI」(1997年製作)の中で完成形を極めたと考える私から見れば、はっきり言って、それ以降の北野武監督の一連の作品群には殆ど引き付けられる何ものも持ち得ない、というのが正直な感懐。

そこに、特定的に選択された主題に対する観念的・形而上学的なアプローチが堂々と展開されていた映像には、常に死を意識する映画作家である作り手自身の内側に、十全にコントロールし得ずに漂流する「狂気」と言っていい何かが張り付いていて、それが寡黙な映像を支配する推進力になっていたように思われる。

思えば彼は、〈生と死〉の境界を彷徨う大きな事故(1994年8月に起こした原付バイク事故)を私的に経験したことで、観念としての〈死〉のリアリティのインパクトに喉元を突き付けられたのだろうか。

 危ういラインを垣間見たに違いない、その大事故から復帰して3年余。

 〈生と死〉の境界を彷徨った末に、「キッズ・リターン」(1996年製作)に次いで2作目となる「HANA-BI」が、極めて形而上学的なテーマ性を持つ、真っ向勝負の映像なったことは必然的であっただろう。

しかし残念ながら、そこまでだった。

「完全なるエンターテインメント・ムービーだから、ヤクザ同士の権力闘争劇ではあるんだけど、アリとイモムシの戦いみたいに、客観的に観ても楽しいんだよ。人間だって思わないで観た方が面白いはずだから、そんな感じで観てほしいね」(『アウトレイジ』北野武監督単独インタビュー - シネマトゥデイ)

 これは、本作に寄せた北野武監督自身の言葉。

 興行成績ランキングで第4位を獲得した、本作の「アウトレイジ」が成功したコンテンツとなったのは、この作り手自身の言葉に収斂されるだろう。

本作は徹頭徹尾、外部交通が遮断され、封印された「箱庭」における、「異界の住人たち」の「殺戮ゲーム」だから、観る者との間に決して「分」を超えたり、超えられたりする不安のない「物理的・心理的境界」が形成されるが故に、「人間だって思わない」感覚で鑑賞することを保証し、その安心感がリアリティの敷居を呆気なく突き抜け、観る者の笑いのツボの射程に収まることで、存分に恐怖感を愉悦するエンターテインメント・ムービーとして成就した訳だ。  

然るに、そのエンターテインメント性の本質は、殺害シーンのユニークさで勝負するスプラッタームービーのカテゴリーに限りなく近接している何かでしかなく、そこに思いつきのようなアイデアらしきものが感じられても、決してそれは、初発のインパクトの強靭さを印象づける、特段に目新しい画像でも何でもなかったということ。

残念ながら、この把握に尽きるだろう。

 

 2  「非日常」の極点である〈死〉に最近接する「狂気」と乖離した何か



そんな本作を概要すれば、以下の文脈のうちに説明し得るだろうか。

 一般市民との外部交通を遮断し、「箱庭」と化したヤクザ組織の、劣化したヒエラルヒーによって露わになった権力関係の間隙を縫って生まれた、生死を賭けたサバイバルの壮絶なる「内ゲバ戦争」の、殆ど予約済みのストーリーラインが観る者に容易に把握されてしまう映画の興味が、「殺しのテクニック」という一点に絞られてしまうハンデをものともしないのか、劣化したヤクザ組織の醜悪な生態を執拗に描き出していく。

しかし、如何に「殺しのテクニック」のアイデアを連射したとしても、初発のインパクトが相対的に削り取られていく「限界効用逓減の法則」によって、観る方も次第に食傷気味になってしまうだろう。

少なくとも、私の場合はそうだった。

その斬新さが特段の価値を持つに値しない、「内ゲバ戦争」における「殺しのテクニック」への依存の強度が、予約済みのストーリーラインを補完する「武装性」を延長させても、劣化したヤクザ組織の醜悪な生態を描くに足るパワーには成り得ないのは必至である。

それは、「人間だって思わない」感覚で鑑賞することを求められたとしても、「異界の住人たち」の「内ゲバ戦争」に重点を置く物語それ自身の脆弱性によって、どうしても「半身群像劇」の粗雑さが眼についてしまうのだ。

たとえ本作のうちに、過剰な暴力に起因する「痛み」の描写を繋げていくことで、本作が暴力否定のメッセージ性を提示しているという、そこだけは譲れない「主題性」を掬い取ったと仮定しても、その「主題」を鮮明に浮き彫りにさせていくに足る、物語展開の相応のリアリティによって補完されない限り、そこで拾うことができるメッセージの脆弱性は覆い難いだろう。

どだい、鑑賞後10分したら忘れる類の娯楽映画から、深遠なメッセージを受け取ろうとすること自体がナンセンスなのだが、無論、これは私の偏頗(へんぱ)な物言いに過ぎない。

「殺しのテクニック」を連射するアイデアのみで作られたであろう「全身娯楽映画」に対して、木戸銭を回収できたと満足できる鑑賞者に、「なぜなぜ分析」を仕掛ける者の方が傲慢極まる振舞いであるに決まっているからだ。

 そこで私の結論。

続編の「アウトレイジビヨンド」(2012年製作)を未見なので、とりあえず、評論に結ぶに足る「正の強化刺激」が伝わってこなかった本作にのみ限定すれば、私の総括的な感懐を述べれば、以下の通り。

「娯楽映画」のカテゴリーという梯子の確保の是非とは無縁に、それでもなお内側から噴き上がってくる何か、即ち、「狂気」と呼べる何かを、本作から全く掬い取ることができなかったということに尽きる。

「狂気」とは、「非日常」の極点である〈死〉に最近接することで、感情を十全に制御し得ない内的状態と言っていい。

例えばそれは、双極性障害において、躁状態とうつ状態を繰り返す「急速交代型」の「ラピッドサイクラー」の状態に搦(から)め捕られた自我が、自殺未遂に振れやすい危うさを有する代わりに、ある種の創造的活動に昇華させていくことが可能であるように、「狂気」の破壊力は、同時に創造力の豊饒な源泉にも成り得るのである。

独断的に言えば、先述したように、「ソナチネ」や「HANA-BI」という独自の表現を繋いできた作り手の内側に、間断なく波打っていたであろう、心的状況の危うさを支配する「狂気」のような何かを、豪華な男優陣を集合させた本作から拾うことはできなかったのである。

私がそこで拾ったのは、「殺しのテクニック」をゲーム化する「箱庭」内部の醜悪な生態の物語の中で、北野映画初見参の達者な俳優たちによる演技合戦を見届けることなどで、「全身娯楽映画」としての本作を愉悦する以外にないというような、終始付きまとって離れなかった、心の置きどころのない違和感である。

だから、しばしば滑稽ではあるが、ゲーム化した「殺しのテクニック」の連射を見せつけられて、本篇半ばで飽きがきてしまうという、すっかり弛緩した気分が分娩されてしまったのである。

結局、本作は、北野武監督が、私のような無粋な鑑賞者を置き去りにしてでも、表現フィールドの間口を広げたかったという思いのうちに、百も承知で作り上げた万全なる娯楽映画として括るしかないのか。

(2012年11月)








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