2012年9月1日土曜日

ブラック・スワン('10)     ダーレン・アロノフスキー


<最高芸術の完成形が自死を予約させるアクチュアル・リアリティの凄み>



1  「過干渉」という名の「権力関係」の歪み



かつて、バレエダンサーだった一人の女がいる。

ソリストになれず、群舞の一人でしかなかった件の女は、それに起因するストレスが昂じたためなのか、女好きの振付師(?)と肉体関係を持ち、妊娠してしまった。

妊娠したことでバレエダンサーとしての夢が断たれた女は、その妊娠によって産まれた女児に対して、自分の果たせなかった夢を仮託する。

バレエダンサーの寿命の短さを考えても、その夢を断つのに相当の決断力を要するだろう、齢28のときだった。

かくて、夢を仮託された女児は、心ならずも頓挫した女が描く、見た眼には、馥郁(ふくいく)たる香りが立ち込める物語のイメージラインに沿って、特化された人生の軌道が定められていく。

母となった女が、今や、そこだけは譲れない者の如く、貪欲に追い求める欲望の稜線に我が子を同化・吸収する行程を通して、決定的に頓挫した己が夢を心地良く再生させてくれるイメージラインを強化させていく。

その女児もまた、バレエダンサーとしての道を歩んでいくのだ。

それ以外の選択肢は捨てられてしまっているからである。

その辺りをテーマにした物語の定番的パターンは、往々にして、「苦労の果ての感動譚」という予定調和のヒューマンドラマになりやすいが、この危うさに充ちた映画は、その類のカテゴリーに収斂し切れない、一見、ハリウッドお得意の「驚かしの技巧」の連射によって、観る者に恐怖感を愉悦してもらう、サービス満点のゴシックホラーとも思しき展開を繋いでいくのである。

「過干渉」という名の「権力関係」・母と娘
なぜなら、この危うさに充ちた映画は、その女児が既に思春期を物理的、且つ形式的に超え、今や、結婚適齢期とも言うべき年齢に達したヒロインの、一人称の心象世界の見えない冥闇(めいあん)を表現する内容になっているが故に、観る者の視覚に刺激的なカットの連射を捕捉させる、殆ど時間の隙を作らないスピーディーな神経戦を挑んでいくようなのだ。

映像が、このような展開を繋ぐに至ったのは、青春期に入ってもなお、自傷行為を止められないヒロインの心象風景が、白鳥と黒鳥を一人で踊り分ける、チャイコフスキーの有名なバレエ音楽・白鳥の湖」のプリマドンナの座を射止める技巧を有しながらも、王子を誘惑する悪魔の化身・黒鳥が放つ官能的表現力を持ち得ないばかりに、振付師のトマから、「全身官能的表現者」に化け切るという困難なテーマを要求されたことで、その要求を内化・具現する内的葛藤のプロセスが、自我分裂の危機にまで及ぶ凝縮した時間を露わにしていったからである。

然るに、青春期に入ってもなお、自傷行為を止められないヒロインにとって、自分の果たせぬ夢を娘に仮託した女=母にインスパイアされた道徳観の強制力は、既に、娘の成長を自己基準で測定し、その自己基準に即した物語を逸脱することが許されないというような、それ以外の選択肢を拾えない、狭隘な自我形成のボトルネックを顕在化させてしまっていた。

それはまさに、マインドコントロールと呼ぶ外にない養育環境の中で、自立の芽が摘み取られた挙句、「自主性の獲得」という発達課題がクリアされず、その内的状況がいつまでも先延ばしされたばかりか、〈性〉に集中的に表現される思春期以降の、甘美で蠱惑(こわく)的な情動世界の文脈が擯斥(ひんせき)され、娘の退行的自我の表層に、「欲望悪」という厄介な観念系の情報の束がラベリングされてしまったのである。

バレエダンサーだった件の女は、プリマドンナの座を射止める技巧を有した娘に、繰り返し、「愛している」と吐露するが、しかしそれは、自立心まで奪うことのない程度において、「過剰把握」に流れ込まない限り、愛情深く近接する「過保護」という概念の内に収斂される柔和な関係ではなかった。

子供の希望を限りなく許容することで、我が子に一定の満足感を保証しつつ、それが極端な我が儘に流れない程度において、無理のないコントロールを遂行し得る関係性を保持しているならば、適性サイズの「過保護」による近接感は、豊かな愛情を土台にした母子の基本的な信頼関係の構築に寄与するであろう。

「過干渉」という名の「権力関係」②
然るに、物語で提示された母子関係の本質を端的に言えば、「過干渉」という名の「権力関係」であったと言っていい。

子供の自我を作るのは母親である。

母親がいなかったら、母親に代わる大人が代行する。

この関係構造は、いつの時代でも、どこの国でも相当程度の普遍性を持つであろう。

この母子の関係もまた、母親が娘の自我を作り上げた。

しかし、限度を超える「過干渉」によって形成された娘の自我は、明らかに顕在化された強制力の縛りの中で、いつしか自己不全感を常態化させていた。

自我の空洞を埋めるに足る情動系の氾濫を、合理的に処理し切れないまま、内側深くに押し込める以外に術がなかったのである。

これが、思春期以前の、この母子関係の本質的様態であったと言えるだろう。

母親に対して反駁することが許されない自我は自在性と柔軟性を欠き、絶えず、物理的に近接する母親の視線を意識し、その視線に合わせる自己像を作り出していく。

これを、私は「良い子戦略」と呼ぶ。

「偽りの前進」とも呼ばれているものだ。

常に、母からの評価に過敏になり、この過敏さにエネルギーが必要以上に注入されるから、「自主性の獲得」という発達課題が先延ばしされることで、本来の生き生きした子供の無邪気さが削り取られていってしまうのである。

同様に、周囲から孤立しやすいパーソナリティに陥りやすいのは、結局、孤独な親の自我の不全感に起因する代償行為として、我が子に「良い子戦略」を駆使させる振舞いを必然化してしまうのである。

言ってみれば、「過干渉」とは、絶対的権力を持つ親による、我が子に対する継続的で、強制的な人格支配の様態であると言える。

だから当然、この関係は権力関係になる。

権力を行使する母親の懐深くに捕捉された娘の自我は、その母親の視線を先読みし、そこで仮構された〈状況〉に同化していくのだ。

プリマドンナとしての幸運を得た
この母と娘の厄介な権力関係が、プリマドンナとしての幸運に娘が最近接したとき、徐々に、そして確実に揺動し、その歪んだ関係の振れ方はダッチロールの様相を呈していく。

既に青春期に踏み込んでいた娘にとって、母親の強制的な縛りを、一定程度相対化できる腕力を手に入れていたからである。

然るに、その関係構造は、このような表層的な変容を具現しつつも、既にインスパイアされた娘の人格像には、どのように振舞っても簡単に無化し得ない、「欲望=悪」という観念系の文脈が張り付いてしまっていたから厄介なのだ。

この母子関係によって構築された、蜘蛛の巣のような粘着質のある包括的なバリアを、娘の希求する思いと決定的に矛盾すると感受したとき、娘の心象世界は、それまで内側深くに押し込めてきた一切の負の感情を、自ら意志で突き抜けない限り、何とか手に入れつつある相応のアイデンティティの確保すらも削り取られてしまうという、彼女なりの危機意識を抱懐するに至る。

この危うさに充ちた映画は、しばしば、観る者に、「愛しているよ」という母の習慣的言辞を、母の生来的な優しさと勘違いしてしまうような、ロジカルエラー(論理的過誤)を惹起させやすいギミックを駆使しつつ、偏頗(へんぱ)な様態を見せる、そんな母子の関係力学が物語を支配し切っていたのである。

娘の名はニナ、母の名はエリカ。

今まさに、内深くに抑圧してきた情動が激発的に噴き上げてきたニナは、母エリカのくすんだ蜘蛛の巣を解きほぐし、そこから全人格的に脱却しつつあったのである。

それを象徴する重要なシークエンスがある。

以下の稿でピックアップしてみよう。



 2  復元力の脆弱な〈状況〉が作り出す薄暮の暗み



 場所は、母子の自宅。

 「ルロワに迫られた?女好きで有名よ。心配だわ。毎晩のように稽古で遅くなるし、遊ばれないようにして」

〈状況〉は、「白鳥の湖」のプリマに抜擢されるチャンスを得て、過緊張の日々を送るニナの最近の動向を不安視する、母エリカの直截(ちょくさい)な言葉から開かれた。

ニナとトマ
ルロワとは、バレエ団のフランス人監督(振付師)トマのこと。

「大丈夫よ」とニナ。
「そう。私と同じ過ちは避けて」

前稿で言及したように、エリカの過ちとは、妊娠したことで28歳で引退を余議なくされた、遥か昔の、バレエダンサーとしての決定的な頓挫を指すものだが、このアドバイスは、帰宅の遅いニナの健康を気遣う母の愛情深き思いを印象づけるが、以下の会話の尖りによって、言葉の含意が読み取れるだろう。

「そうね」とニナ。
「妊娠は後悔していない。ママのキャリアのこと」
「キャリアって?」

娘を、一瞬睨む母。

母エリカは、ストレートに思いを吐き出していく。

「あなたのために諦めた」
「28歳の時よね」 
 「だから?」
 「ただの・・・」
 「ただの、何?」
 「別に。何でもない」

 既に、この母子関係には、こんな会話が日常化している事実が暗示されているのだ。

 そこには、青春期に踏み込んでいた娘に対して、母親の強制的な縛りが形式的に後退している風景が読み取れるが、しかしそれは、「過干渉」という名の「権力関係」の破綻を意味しない現実が抱える闇の深さを、却って露呈させるものであった。

 「肌はどう?」とエリカ。
 「大丈夫よ」とニナ。
 「傷つけてない?見せて」

この短い遣り取りの怖さは、観る者にストレートに肉薄してくる。

これは、ニナの自傷行為が、青春期に踏み込んでもなお延長されている事実を想起させるからだ。

だから、この日も厄介な事態を招来するに至る。

ニナとの「権力関係」をなお延長させんとする母エリカ
母の問いに答えないニナに、母は厳しく迫ったのである。

「脱いで!」
「嫌よ!」

 ニナもまた、「ここだけは譲れない」というものを持つ者の、相応の武装性を構築していた。

だから、容易に矯正し得ない歪んだ関係の不安定な交叉の中で、いつでも、復元力の脆弱な〈状況〉が作り出されてしまうのである。

このときも、それまでの負の連鎖をトレースするが、事態はもっと厄介な〈状況〉を開いてしまった。

薄暮の暗みの中枢を彷徨するかのような、このような爛れを顕在化させつつある関係の土手っ腹に第3者の闖入が出来したからである。

ここで、黒鳥の役を踊るに相応しい妖艶なキャラを有する新人のリリーが訪ねて来て、母エリカは、部屋にいる娘に告げることなく一方的に帰らせた。

こういうとき、いつでもこの母は、独断専行する振舞いを常態化させていた現実を端的に露呈するシーンであった。

そんな母の勝手な行動にニナは怒り、自ら、訪問者に会いに行く。

訪問者がリリーであることを知り、ニナは玄関の扉を閉め、母を遮断させた。

リリー
「うるさい親ね」とリリー。
「どうして、ここが分ったの?」とニナ。

事務所でニナの住所を聞いて来たことを伝えた後、リリーは、昼間にニナをからかったお詫びに、彼女を食事に誘ったのである。

「体を休めなさい」

これは、部屋の中から出て来た、母エリカの言葉。

娘思いの印象を観る者に与えるが、面識のない訪問者を一方的に帰らせる行為が、この女の「過干渉」の有りようを検証している。

引き止める母を振り切って、ニナはリリーと付き合うに至った。

その後のエピソードの概要を簡潔に説明すれば、以下の通り。

食事の場は、ナンパ目当ての男たちが蝟集(いしゅう)するナイトクラブ。

 そこで、ドラッグ入りのカクテルをニナに飲ませ、しこたま酩酊させ、ナンパ目当ての男とセックスさせるリリー。

リリーとニナ
 無論、リリーも存分に愉悦し、恐らく、いつものように遊びまくるのだ。

 酩酊状態で、帰宅したニナの傍らにリリーが随伴し、二人はレズ行為に耽っていく。

 ところが、翌朝、ニナが覚醒すると、一緒に寝ていたはずのリリーの存在が見当たらず、「白鳥の湖」の練習場に慌てて駆けつけたニナが視認したのは、黒鳥を踊るリリーの嵌り役の現場。

 昨夜の一件をリリーに問い質すニナに返ってきた反応は、リリーがニナとクラブで別れて、ナンパ目当ての男と一夜を共にしたというもの。

ニナのアパートでのレズ行為は、ニナの妄想だったのだ。

リリーとニナ
それは、ここから開かれる、ニナの妄想・幻覚の世界という、極限にまで達した不安感が抑圧された情動系の氾濫となって、物語のピークアウトに至るまで、ニナの激越な内的葛藤を映し出していく映像が、徹底した「痛覚」のリアリティという意味において、如何にも映画的手法の利得を活用して処理されていくのである。



3  「魔境」への潜入 ―― その危うい高強度の最終戦争への振れ具合



以上のシークエンスは、本作のターニングポイントと言っていい。

そこで表現されたものは、2点に絞られる。

一つは、「母に対する拒絶」であり、もう一つは、「魔境」への潜入である。

この二つは、同質のものである。

前者については、これまでの言及で明らかであるだろう。

ここでは、「魔境」への潜入について考えたい。

〈性〉や〈ドラッグ〉に象徴される一切の欲望系を、邪悪なものとして擯斥(ひんせき)してきたものが集合する、「魔境」とも呼ぶべき世界の中枢に、既に、「白鳥の湖」のプリマとして決定していたヒロインのニナが潜入し、そこで経験した出来事が妄想・幻覚の世界を開くに至ったのは、彼女にとって、今や、それ以外の選択肢を持ち得ない内的状況を露わにしていたからである。

当然、規範を逸脱する「魔境」への世界の潜入を、母エリカが許容する訳がない。

だから、母とのバトルを惹起する。

難度の高い課題設定を要求するトマのプレッシャー
しかしニナにとって、このとき、母を頑として拒絶しなければ、「自分を超えていけ」と不断に詰め寄るトマの、殆ど不可能とも思える、難度の高い課題設定のハードルを突破し得ないと考えたのだろう。

確かに彼女は、トマの設定した課題に対して、彼女なりに応えようと努力した。

初体験であるだろう、自慰行為への形式的な身体表現を結ぶニナ。

母との関係がそうであったように、シビアな〈状況〉に捕捉されながらも、少なくとも、定言的命令の強制力をもって、バレエに打ち込まされた幼児期の、それ以外の選択肢を拾えない、狭隘な自我形成のボトルネックとは切れて、自らの思い入れを包括する芸術表現のステージにおいてもなお、ニナの表現領域は、どこまでも、振付師トマとの職業フィールドにおける権力関係の支配力の、その峻命の如き課題をトレースする文脈の中で、単に外形的に身体化するレベルに留まっていた。

言うまでもなく、トマに与えられた難度の高い課題設定のハードルの突破は、「自分を超えていけ」という言葉に集約される、全人格的な変容なしに達成困難なものであった。

そのことを最も感受するニナが、「全身官能的表現者」に変容するには、その程度の表現レベルでは不可能であることを、彼女の知的行程の枠内で存分に知悉(ちしつ)していない訳がないのだ。

ニナとベス
そんな彼女の不安と苛立ちは、意に反して一方的に引退を余儀なくされ、そのディストレスのアウト・オブ・コントロールの果てに自殺未遂を起こした、かつてのプリマであるベスに内在する、「破壊的表現力」の後継者に化け切ることの困難さに立ち竦み、20数年間余にわたって形成されてきた、保守的な自己像との決定的乖離を痛感せざるを得なかった。

そんなシビアな〈状況〉の只中で出現したのが、ベスの後継者に相応しいと思わせるにたる、「全身官能的表現者」を自然裡に体現しているかのような、新人ソリストのリリーだった。

まさにリリーこそ、「魔境」の世界の住人だった。

「欲望=悪」という観念系の不毛な価値観で、錆びついた自己像の形式的な保持のみを延長させてきたニナから見れば、喫煙・飲酒、そして〈ドラッグ〉・〈性〉という、規範を大きく逸脱した日常性を繋ぐリリーの存在は、「魔境」の世界の住人としか考えられなかったのである。

「魔境」の世界の住人・リリー
「魔境」の世界の住人たるリリーに誘(いざな)われたこの夜、ナンパ目当ての男たちの世界の渦中に、ニナは潜入したのだ。

そのリリーが、自分のグラスにドラッグを注入する現場を目視しても、それを受容するニナがそこにいた。

抑圧された情動系を内側に貯留させながら、それを解き放てないニナの激越な内的葛藤を上手に解きほぐし、その推進力となった人物 ―― それがリリーだった。

この時点で、リリーの存在は、ニナの「偽りの前進」を破壊し得るに相応しい、頼もしくも、それ以外に拾えない唯一のキャラクターであったと言えるだろう。

そのリリーによって誘導された「魔境」の世界で、「全身官能的表現者」への変容を観念系でしか把握し得ないニナは、それまで抑圧してきたものの、最も中枢的な部分を解き放ったのである。

〈性〉の解放である。

ナンパした男とのセックスを、ドラッグの力を借りて遂行するニナの人格は、束の間弾け、「偽りの前進」を相対化し切る程の情動的な氾濫を現出させるに至った。

少なくとも、そう思い込んだ。

「魔境」の世界での情動的な氾濫の延長で、自らを誘導したリリーを自宅に招き、同性愛に耽溺する二人の若い女。

現象が内包する官能性への溶融感覚とどこか切れた、ザラザラした「魔境」の世界の排他的な占有の時間を、手ぶれのカメラが肉感的に捕捉し、視覚化していく。

この「魔境」の世界への潜入は、ニナが「白鳥の湖」の初演の前の出来事であったが故に、それ以外にない選択肢に流れゆく、自己破壊的な衝動性を剥き出しにした、追い詰められし総体の半ば確信的な自己投入だったと言っていい。

しかし、「魔境」の世界での情動的な氾濫の、その脱秩序の衝迫の強度に撃ち抜かれた時間がフェードアウトし、排他的な催眠の占有感覚が自壊したニナを待ち受けていた現実は、彩り鮮やかな斬新な企画に挑む公演前の白熱した練習場での風景だった。

公演前の白熱した練習場での風景
慌てて駆け付けたニナの視界に捕捉されたのは、プリマの代役でしかなかったリリーが、嬉々として練習に励み、そこだけが特化されたような異様なる光景の衝撃波。

憤懣やる方ない思いで、昨夜の一件をリリーに質すニナに返ってきた言葉は、クラブで出会った男と一夜を明かしたので、ニナのアパートには行っていないというリリーの反応だった。

同性愛に耽溺した自己破壊的な時間の記憶は、ニナの妄想だったのだ。

 この信じ難き出来事を契機に、ニナの幻覚・妄想の世界が開かれていく。

俗界との境界崩しの、非日常の世界を現出させるニナの内的葛藤のアナーキー性は、今や、自我を分裂させて、飽和点に達しつつあった〈状況〉の、その尖り切った切っ先から連射される恐怖からの逃げ場を確保するという、防衛機制の無意識的なバリアの構築を必至にしたのか。

 精神が疲弊し切った劣悪な条件下で、自我が抱える不安や恐怖感が加速的に昂じていくと、そこで貯留されたディストレスが幻覚・妄想の世界が現出すると考えられる。

 特定他者からのサポートを全く受けられず、孤立する魂が叫びを刻むとき、ニナの場合、もう、魂の逃げ場は、自我を分裂させるという方略しかなかったのだろう。

 そして、内側で貯留されたディストレスの中枢には、「白鳥の湖」のプリマに抜擢されたチャンスを、代役のリリーに奪われるのではないかという不安感が塒(とぐろ)を巻いていて、それが関数的に膨張していった果てに、一方の自我が、邪悪なる他方の自我を屠(ほふ)るに至るのだ。

 それなしに済まない辺りにまで、ナイーブな女の全人格的な葛藤の壮絶で、容易ならない事態に流れ込んでいったのは、難度の高い課題設定のハードルの突破が、それを可能にする能力の決定的な欠如を認知してもなお、本質的に「自己解放」という隠し込まれたメタテーマが、この厄介な行程のうちに包摂されていたからである。

 だから女は、飽和点に達しつつあった〈状況〉からの一時(いっとき)の逃げ場を確保しても、半ば無意識的に、その〈状況〉からの「確信的逃亡者」という自己像を拒絶したのだろう。

拒絶したら、「自己解放」という隠し込まれたメタテーマの遂行が、またしても先延ばしにされてしまうからだ。

先延ばしにされてしまうことで手に入れるその場凌ぎの安寧よりも、先延ばしを拒絶することで手に入れるだろう、「自己解放」という未知のゾーンへの全人格的投入の方が、たとえ、それによって生理的寿命を縮めるに至っても、〈状況〉からの「確信的逃亡者」の凄惨な自己像を延長させる卑屈さを超克し得るのである。

かくて、表層意識において、「魔境」の世界への誘導者である「全身官能的表現者」=リリーに象徴される敵対意識だけが突出して、遂にリターン不能の辺りにまで、ナイーブな女の全人格的な葛藤の壮絶で、容易ならない事態を惹起させるに至ったのである。

しかしそれは、ニナをして、「過干渉」という名の「権力関係」の袋小路に抑圧させた者との、最初にして高強度の最終戦争であった。



 4  繰り返し置き去りにされた女の悲哀 ―― まとめとして①



ここで、本作を総括してみたい。

本作から感受した私の問題意識の中枢は、どこまでも、「過干渉」という名の「権力関係」の有りよう以外ではない。

以下、その内実を複層的に要約してみる。

「母に対する拒絶」を身体化したニナにとって、拒絶することによって変容する自己像の獲得の片鱗は、彼女の中の内的葛藤の産物である。

それは、幻覚・妄想の世界の中でのアナーキーな氾濫という形で顕在化されていく。

リリー
彼女にとって、今やリリーの存在は、自分のプリマの座を狙う邪悪なる人格でしかなかった。

だから、彼女の幻覚・妄想の世界は、遂にリリーの殺害という、あってはならない激発的な外観を呈して発現されるに至った。

殺害したリリーの死体を素早く隠し込んだ後、「王宮の舞踏会」の欺瞞に満ちた幕が開かれて、「白鳥の湖」の第3幕のステージの中枢を占有し、ニナが演じる変換したプリマの、最も邪悪なる黒鳥がそこに立ち上げられたのである。

邪悪なる人格を殺害することで、真に邪悪なる黒鳥と化したニナは、難度の高い課題設定のハードルを一気に突破し切って、「全身官能的表現者」の破壊力を自然裡に体現するのだ。

新しいプリマの誕生を歓迎する、一世一代のニナのステージは万雷の拍手に迎えられ、今このとき、ピークアウトに達したのである。

リリーの殺害までもが妄想の産物であることを認知したニナが、「自分を超えていけ」という難度の高い課題設定のハードルを遂行するには、自らを決定的に甚振(いたぶ)り、全人格に屠ることによって、抑圧された情動系を解き放つという戦略しか存在しなかったのだろう。

万雷の拍手で迎えられるニナを、客席から涙交じりに視認する一人の女。

母エリカである。

この女のために人工的に仮構されてきた、「最も健全な自己像」を最終的に破壊するには、無意識の世界が誘導する幻覚・妄想という一種の逃げ場に潜り込み、そこで、既に顕在化させていた情動の氾濫を表現していく以外に方法がなかったのだ。

これは自死によってしか完結し得ない二つの大きなテーマ、即ち、「母に対する決定的拒絶」と、「全身官能的表現者」への破壊的行程を経由しての決定的跳躍という、最強のパフォーマーの身体化を具現し得る、最も危険な辺りにまで自らを追い込んだ者の映像的達成点であると言っていいかも知れない。

この映画は、人間の心の闇を如何に映像化するかという視座で構築されたと把握すれば、相当程度成就したと言えるだろう。

繰り返し言及したように、幻覚・妄想の世界の中でのアナーキーな氾濫という形で顕在化されていくヒロインの心的葛藤が、見事に再現されていると思えるからである。

閑話休題。

一貫して反省的に振れ得ない母エリカは、娘の激越な内的葛藤の本質に迫れないまま、その娘の最初にして最後の、且つ、最大のパフォーマンスを視界に収め嗚咽する。

何というアイロニーか。

とうに「私のニナ」という自己基準で結んだ幻想が剥落しているにも拘らず、最後まで「過干渉」という名の権力関係の脆弱な相貌を、心理的に繋ぐことを止められない女だけが置き去りにされたのである。

そんな女が、娘の最高のパフォーマンスに嗚咽する。

その心理には、特段の屈折がない。

母エリカは、心から感動したのである。

但し、この感動をもたらした根柢にあるのは、「自我関与効果」(インボルブメント効果)の心理であると言っていい。

「過干渉」という名の「権力関係」
即ち、自らが「愛情深く導き、支え、育ててきた結晶を『共有』するかの如く、その抜きん出たバレエの技巧が、娘の中で成功裏に昇華した」という心理である。

自らが娘の人格を作り上げてきたことの矜持が、その心理に張り付いているということだ。

人間は、このように、物事を自分に都合のいいように解釈し、充足する。

ここで見逃せないのは、この種の「自我関与効果」の心理に昇華された嫉妬感情である。

ニナの妊娠によって、自らが果たし得なかったと信じる「夢のプリマ」を、あろうことか、「自らの夢を奪った娘」が演じ切るチャンスを得たという現実を目の当たりにしたとき、「夢のプリマ」の自壊の残像だけがトラウマと化して、深い澱みを貯留させ、それを延長させ続けていたエリカの負の感情が、この日、明瞭に顕在化したのである。

エリカはバレエ団の振付師に、体調不良を理由に、娘の出演を断念する連絡を済ませていたのだ。

恐らく、娘ニナが、そのとき覚醒しなければ、この日の公演は、リリーがプリマの代役を務めて相応の成功を収めたであろう。

「過干渉」という名の「権力関係」④
明らかに、母エリカは、自らが果たし得なかったと信じる「夢のプリマ」となって、眩いばかりに輝く娘のパフォーマンスに対するネガティブなイメージを、心のどこかで抱懐していたはずである。

そんな女が、自分の制止を振り切って、公演に血相を変えて走って行った娘を、今や、強制的支配力によって留める何ものもなく、アパートの自室に置き去りにされたのだ。

置き去りにされた女は、気持のギアを切り替えて、初日の公演を観る観客の一人となって、先述したような心理に流れていったと考えられる。

こういう複雑な感情の手品を、人間は駆使することができるのである。

しかし、置き去りにされた女は、実は、肝心要のステージを見入る観客席の点景となって、そこで再び、娘の最強のパフォーマンスと、その結果、惹起した衝撃的な出来事に翻弄され、再び置き去りにされるに至ったということ ―― そういう文脈で読み取るべき心象風景であると思うのだ。

これは、「過干渉」という名の「権力関係」の歪みが、「過干渉」を受け続けた娘の情動のバックラッシュによって、繰り返し、置き去りにされた女の悲哀の映画であるとも言えるだろうか。



5 最高芸術の完成形が自死を予約させるアクチュアル・リアリティの凄み ―― まとめとして②



ここでは再び、ニナによる「リリー殺し」の幻覚・妄想の世界の心理の本質に言及しておきたい。

なぜ、ニナは、幻覚・妄想の世界で「リリー殺し」を遂行せねばならなかったのか。

それを心理学的に説明すれば、以下の文脈のうちに収斂されるのではないか。

即ち、「リリー殺し」の遂行は、ディストレスのアウト・オブ・コントロールの際(きわ)にまで、自らを追い込んでいくことで自我を分裂させていたニナが、遂に、「仮想敵」としてのリリーの「悪徳性」を炙り出し、その「悪徳性」を集合させた黒鳥=リリーの存在を屠り切らない限り、最も邪悪なる黒鳥を演じるニナという固有名詞のうちに、邪悪なる黒鳥が内包する「全身官能的表現者」の破壊力が憑依・吸収・溶融され得なかったということ ―― そういう文脈ではなかったのか。

何より、幻覚・妄想の世界の極点に、「全身官能的表現者」の破壊力を身体化し得るに足る程の、激しい憎悪の具体的な対象人格が必要だった。

その具体的な対象人格を屠り切るためにこそ、ニナは、幻覚・妄想の世界を仮構したとも考えられないだろうか。

恐らく、このような極限的な心理状況を仮構しない限り、ナイーブなニナには、「全身官能的表現者」の破壊力を身体化した、最強のパフォーマーに化け切ることは不可能だったに違いない。

だからこそと言うべきか、極限的な心理状況を仮構した果てに、「悪徳性」を集合させた黒鳥=リリーの存在性を象徴的に立ち上げ、それを屠り切ることで、一切が自己完結するのである。

そのとき、幻覚・妄想の世界の極点が弾けて、自壊していくだろう。

ニナによる「リリー殺し」を経て、最強のパフォーマーに化け切った瞬間に、幻覚・妄想の世界の極点もまた、アクチュアル・リアリティ(現勢的現実)の様態を晒しながら消えていく。

ナイーブなニナが「白鳥の湖」のプリマの役を引き受けて、その艱難(かんなん)なステージを成就させるには、黒鳥に体現させた悪魔を屠ってもなお自己解放し得ない絶望感のうちに、湖に身を投げる白鳥の悲劇をトレースするかのように、まさに、そこで具現された最高芸術の完成形が自死を必至とする宿命を予約させてしまったのである。

その辺りが、如何にも映画的=作画だが、人間の心の闇を映像化する手法として、私はこれを受容したい。

最初にして最後の、そして、最強のパフォーマンスを表現し切ること。

それは、自らの生命の代償なしに具現し得なかった。

最強のパフォーマンスを表現し切った女は、もう、「私のニナ」という枠内に収斂されない自立性を体現するのだ。

「完璧だわ」

これが、最強のパフォーマーが映像に残したダイイングメッセージ。

闇の世界を彷徨した挙句、遂にそこを突き抜けた女には、もう、何ものにも縛られない精神の自由を獲得したのである。

このラストカットの映画的なインパクトは、最強のパフォーマーに変容し切った女の、それ以外にないアクチュアル・リアリティを晒すことで括られていった。

ダーレン・アロノフスキー監督
人間の心の闇を映像化する果敢な作家精神の中に、たとえ、ハリウッド流の商業戦略がべったりと張り付いていたとしても、そこで構築された映像の挑発性は、狡猾なフェイクの技巧的産物という狭隘な批評を相対化するには充分だった。

私はそう思う。



 6  「過干渉」による歪んだ関係様態を破砕する女の壮絶な内的葛藤の物語 ―― まとめとして③



有無を言わせず、母エリカによって作られた権力関係は、娘ニナが青春期に踏み込むことで相対的に劣化していった。

然るに、粘着力の強度において、簡単に剥がし切れない程に作られたニナの自我が包含する道徳観には、初めから〈性〉に向かって自在に解放していく一切の出口が塞がれていた。

バレリーナが自らの表現域を狭隘化させることで失うものの価値を奪回するには、喉元まで喰い込んでくる閉塞感の重苦しさを払拭する以外になかった。

ニナの内側に抑圧されていた感情のマグマは、それを噴き上げ、突き抜けていく出口を求めて騒いでいたのだ。

彼女がプリマとしての最高の栄誉を手に入れる契機になった振付師トマの、唐突な異性的アプローチ(強引なキス)に対して、咄嗟に相手の舌を噛むという、衝動的に反応したニナの攻撃的防御行動は、黒鳥を演じる可能性を垣間見せるに充分な、抑圧されていた感情のマグマのほんの小さな噴き上げでもあった。

しかし、ニナはそれ以上進めない。

黒鳥を自然に演じられる新人バレリーナのリリーのように、蠱惑(こわく)的なフェロモンを放つイメージを執拗に要求されても、それもまた、幼児期以降、母との関係の中で演じ切っていた、「良い子戦略」=「偽りの前進」をトレースする形式的な学習の範疇を突き抜けられないのである。

娘ニナ
自らに与えられた難度の高い課題設定のハードルに対応する、「全身官能的表現者」としての能力の乖離は決定的だった。

そんな懊悩の渦中で、ニナは、この巨壁の如き難度の高い課題設定のハードルを克服するために、非自立的な「偽りの前進」で人格の表層を仮装していた、極めて保守的な自己像を突き抜け、未知のゾーンの闇の世界の奥深くにまで踏み込んでいく。

そのダークサイドな世界に、その身を預けようとすればするほど、それを憂慮する母とのコンフリクト(衝突)を激越に身体化させていくに至る。

母エリカ
「過干渉」によって形成された保守的な自己像と、それを打破せんとするマグマの感情の噴き上げが、同一の人格内に共存するとき、そこで惹起された矛盾に充ちた内的葛藤の様態は、延長された思春期レベルの発達課題の克服行程の、その風景のダイナミズムをも呑み込んで、「私のニナはどこにいったの」などという、とうに見透かされた類の欺瞞言辞で糊塗(こと)する母との、不可避なるコンフリクトのリアリティを顕在化させるに至るのだ。

その結果、新しく立ち上げんとする芯のある自己像が、それまでの保守的な自己像を食い千切り、それを養分にして、なおも難度の高い課題設定のハードルの中枢を、自らの健気な努力のみで跳び越えるには余りに無謀であり過ぎた。

それは、新しい自己像を求めるニナの内側の自我分裂の極限的様相であるが故に、幻覚・妄想の世界の現出という、非日常の危うい時間を常態化させてしまうのである。

その非日常の危うい時間が招来した分裂我の極点の凄まじい風景において、それ以外に辿り着けない、殆ど「予定調和」のラストカット。

既に詳細に言及してきたように、その激越な内的葛藤が極点にまで流れ込んでいったとき、そこに、見事に変容し切った女が、悪魔の化身である黒鳥の極彩色の不浄な彩りを内化・溶融した挙句、彼女にしか感受し得ない達成感の甘美な快楽のうちに果てていく。

「過干渉」という名の「権力関係」⑤
これは、「全身官能的表現者」に辿り着くことによってしか、母からの「過干渉」による歪んだ関係様態を根柢的に破砕する術を持ち得ない女の、命を賭けた壮絶な内的葛藤の、一種の心理学の実験映像的記録の一篇だった。

そのことで、難度の高い課題設定のハードルをクリアしていく女の、「内なる戦争」の全人格的な殉教の物語だったとも言えるだろう。

自分が自分の主人公になる。

この当然過ぎる営為が、これほど艱難(かんなん)さを極める現象はないと思わせるに足る、あまりに映画的な手法による切り取りが、精神分析の世界の闇を開示して、相当程度完成度の高い作品に仕上がっていたというのが、私の率直な感懐である。


(2012年8月)

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