2012年5月6日日曜日

ラストキング・オブ・スコットランド('06)          ケヴィン・マクドナルド


「悪魔」の「絶対的ルール」を分娩した根源に横臥する、ヨーロッパ人のアフリカ観へのルサンチマン>



1  「彷徨する青春」と「人食い大統領」との運命的な出会いの物語



本作は、「人食い大統領」という言葉に集中的に表現されているように、殆ど狂人とされるアフリカの独裁者の人物像を、良かれ悪しかれ、クーデターという名の圧倒的暴力によって権力を握った者の、半ば普遍的な爛れ方と脆弱性を、限りなく人間的に描き切った一篇だった。

それが奏功したか否かは意見の分れるところだが、少なくとも、本作の作り手は、このような振れ幅の大きい人物像にアプローチする手法として選択したのは、この人物の内面深くに潜り込むのではなく、多分に「青春彷徨篇」という感覚で、「人食い大統領」に最近接した軽薄だが、しかし単なる「世間知らず」でしかない、一人の平凡な白人青年の視線を通して、件の独裁者との相対的な距離感を保持しつつ描く構成技法であった。

因みに、ここで言う「青春彷徨篇」とは、「青春一人旅」のこと。

「青春一人旅」の本質は、「定着からの戦略的離脱」である。

無論、私の仮説である。

まさに、この軽薄だが、「ポストモダニズム」の風潮をも包括する、市民社会と資本主義を主特徴とし、個人主義的且つ、人間中心主義的な価値観を有する近代合理主義に根差した西欧文化に依拠するだろう、一人の平凡な「世間知らず」の白人青年は、あろうことか、アフリカという文化風土という、全く異質なる未知のゾーンの渦中に飛び込んでいったのだ。

そこに一縷(いちる)の使命感が内包されていたとは言え、それ以上に、この白人青年は、「青春一人旅」を存分に謳歌したかったのである。

然るに本作は、医師免許を取得したばかりの「世間知らず」の白人青年の能力の範疇では、とうてい収まり切れないアフリカの独裁者と最近接することで、異質なる未知のゾーンのパンフォーカスな風景が見せる政治文化風土に翻弄され、甚振(いたぶ)られた挙句、自壊する物語であったが、そこはハリウッド的な、予約された「奇跡の救出譚」を挿入するあざとさで括られた作品でもあった。

その意味で、本作は、アフリカの独裁者と最近接することで、束の間手に入れた享楽の日々を通して、いつしか、圧倒的暴力によって権力を握った者の魔術のトラップに搦(から)め捕られた「彷徨する青春」の、侵入するゾーンの選択を決定的に誤った果ての、「約束された受難の物語」であると言ってもいい。

しかし、ハリウッド的な、予約された「奇跡の救出譚」の挿入のあざとさによって、個人的には相当に不満があるものの、想像以上に良く仕上がっていた作品だった。

それは、アフリカの独裁者を演じた、フォレスト・ウィテカーの「超絶的演技」の範疇にのみ収斂されない逸品だったと評価したい。

少なくとも、これだけは言える。

本作の物語構成で何より重要なのは、「絶対悪」としての「アフリカの独裁者」に対峙する、「絶対善」としての「白人青年」という安直な構図を提示していなかったこと ―― 戦略的映像でもあっただろうが、この点は充分に評価に値するだろう。

身も蓋もない、勧善懲悪の二元論に流れなかったからだ。

それは、もう一人の主人公と言える、この「彷徨する青春」である白人青年に、観る者の不必要な感情移入を回避するための表現技法だったと思われる。

何しろ、この白人青年に至っては、「定着からの戦略的離脱」という軽薄な気分を推進力にして駆動するが故に、使命感を持って、現地で地道な医療活動を続ける医師の人妻に手を出そうとしたり、或いは、近接度を深めれば深める程、対象人格を強制的に支配するトラップの恐怖に慄(おのの)き、遂に「悪魔」的本性を顕在化させていく独裁者の暴力性に捕捉され、自壊していく振れ方の果てに、件の独裁者の妻を懐妊させたりというエピソードの持ち主なのだ。


アミンとニコラス
その白人青年の名は、ニコラス・ギャリガン。

イングランドへの反発心の強いスコットランド人青年である。

そんな白人青年の、特段に過剰とも思われない「青春彷徨篇」が包含する軽薄さは、ファーストシーンにおける地球儀回しのエピソードの中で拾われていた。

「青春一人旅」の対象エリアを決める地球儀回しの結果、カナダと出たので、もう一度やり直したが、これは、英連邦王国の一国であるカナダを嫌ったためである。

ニコラスには、スコットランド人という矜持(きょうじ)が、彼のアイデンティティの至要たる「不運」にも、この矜持が独裁者との近接を決定づけるに至るのだ。

この独裁者の名は、イディ・アミン。

言わずと知れた、1970年代に、多くの信じ難き話題を振り撒いたウガンダの独裁者である。

まさに本作は、「彷徨する青春」と「人食い大統領」との運命的な出会いと、それが惹起した忌まわしき物語であった。



2  「スコットランドの最後の王」を自負する男と、「イングランド」を嫌う男との情感が重なったとき



「あなたは、この仕事を選ぶタイプには見えない」


ニコラスとサラ

これは、ウガンダの僻村の診療所で、使命感を抱いて村民の治療に奔走するメリット医師の妻サラが、能天気丸出しのニコラスに放った言葉。

「新しい自分探しさ。楽しみながらね。少しの冒険と新たな自分を」

これ、ニコラスの率直な反応。

「欲張りね」

1960年代後半に流行したフラワーチャイルドの、観念系の跳躍感とは切れているものの、明らかに、「定着からの戦略的離脱」の空気を醸し出すスコットランド人青年に対して、サラは、こう嘆息する外になかった。

そんなスコットランド人青年が、まさにスコットランド人であるという矜持が、ウガンダの独裁者と近接する出来事が起こったのである。

「私の政権は言葉だけでなく、行動する。私は君らだ!」

このアミンの演説を、嬉々として聴き入るニコラス。

もう、それだけで彼の政治信条の希薄さが窺われるが、生来的に身に付けた西欧近代の異文化の感覚が、ニコラスの軽薄さを見えにくくさせた事態を生むに至るのだ。

カリスマ性を感じさせるアミンの演説を、嬉々として聴き入った帰路のこと。

アミンの乗った車が牛とクラッシュし、その際、アミンは捻挫をして、その怪我を治療したニコラスの迅速な対応と行動が、アミンを含む軍の警護の者たちを驚嘆させたのである。

「殺せ。苦しんでいる!」

路傍に倒れて悶絶している牛の鳴き声によって、治療に集中できないという理由も含めて、ニコラスは咄嗟にアミンの銃を手に取り、一撃で仕留めたのである。

それは、「安楽死」という概念が内化されている西欧社会の、家畜に対する倫理規範への異文化感覚の驚異であった。

ここで私は、ダルデンヌ兄弟の「イゴールの約束」(1996年製作)という秀作の中の、一つのエピソードを想起する。

夫の行方を捜すために、ブルキナファソからベルギーにやって来た妻が、主人公のイゴール少年の前で、鶏を殺し、その内臓を取り出した後、占いを始めたシーンである。

それは、アフリカの郷里の土着信仰の文化風土であった。

アフリカでは、今もなお「呪術」が大きな影響力を持っていて呪術医として分業する者も多いという現実がある。

中には、「アルビノの人肉食い」(注1)という黒魔術も存在するが、ブルキナファソの女性のように、家畜を殺しても、それを「呪術」というカテゴリーのうちに収斂させている事実が示唆するのは、「苦しんでいるから殺す」などという「安楽死」の概念が形成されていない、アフリカの土着信仰の文化風土である。

「ここでは、魔術師を選ぶ」

ウガンダの僻村の診療所に着いたばかりのニコラスが、メリットに言われたこの言葉こそ、まさに、「呪術」という名の医療に縋るアフリカ人の文化風土の根深さを示すものであった。

加えて、ニコラスがスコットランド人と知って、アミンは共感するのだ。

「一緒に、マウマウ団(注2を打ち破った勇敢な奴らだ」

アミンとニコラスの出会い
これが、「彷徨する青春」と「人食い大統領」との運命的な出会いとなって、程なくニコラスは、アミンの主治医となるに至ったのである。

この出会いのキーワードにあるのは、「スコットランドという、「イギリス」を構成する「国」への、拠って立つアイデンティティの矜持である。(注3

ここに、「ラストキング・オブ・スコットランド」という本作のタイトルの意味を含めた、イディ・アミンを演じたフォレスト・ウィテカー自身の言葉がある。

「彼には、スコットランドはイギリスの統治下で抑圧されてきたと感じていたんです。そこで彼は、ウガンダを同じ境地に見立て、抑圧から解放させる目的で、陳腐な文句ですが、自分が『スコットランドの最後の王だ』と言ったんでしょう」(シネマトゥデイ フォレスト・ウィッテカー・インタビューより)

自分が「スコットランドの最後の王」を自負する男と、「イングランド」を嫌う男との情感が重なって、この印象深いシーンが閉じられたとき、「彷徨する青春」に「定着からの戦略的離脱」を許さない物語が開かれるに至ったのである。


(注1)些か長いが、「ニューズウィーク日本版」に掲載された、「アルビノ狩り」の恐怖についてのレポートを引用したい。

天的な色素異常で肌が白くなる白皮症(アルビノ)は、なぜかアフリカ東部に患者が多い。世界的には約2万人に1人がアルビノなのに対して、アフリカ東部では約3000人に1人だといわれる。 アフリカ東部では07年頃から、アルビノを狙った誘拐・殺人事件が頻発している。タンザニアの呪術医たちがアルビノの人肉は『権力や幸福、健康をもたらす』と主張しているため、『薬』の材料として高値で取引されているからだ。これまでにタンザニアやブルンジ、ウガンダなどアフリカ東部で数百人が殺害されている。10月末には、タンザニア国境に近い隣国ブルンジの川で9歳のアルビノの少年の切断された遺体が発見された。タンザニアの警察当局によれば、両手足、性器、鼻、舌、耳がそろっていれば8万ドルという高値が付く。このため、一獲千金を目指して隣国のルワンダやブルンジまで『アルビノ狩り』に行く者が後を絶たない」(2010年11月11日 山田敏弘)

(注2)1950年代に、植民地支配に抵抗して、 ケニアで起こった反英民族主義的独立運動。

(注32011年5月のスコットランド議会選で、独立を掲げるSNP(スコットランド民族党)が単独過半数を獲得したことで、2014年秋に、英政府からの独立を問う住民投票を実施することになり、「究極の地方分権独立」の可能性に世界の耳目が集まっている。どうやら「地方分権独立」のウエーブは、「パラダイス鎖国」に潜り込んでいるかのような日本政界の、長きにわたる就眠を覚醒させるに足る現象だけでは済まなそうである。



3  張り巡らされた蜘蛛の巣に搦め捕られた男の「悪夢」



まもなく、ニコラスはアミンから、自分の主治医になって欲しいという要請があり、迷いながらも引き受けるに至る。

首都カンパラの大統領官邸に招かれたニコラスの生活は、大統領の主治医としての贅沢に満ちたものと化していく。

ニコラスの前では、愛嬌を振り撒くアミンの表情が激変する事態が惹起したのは、なお国内に潜伏する、前政権のオボテ派によるテロ未遂事件が起こったときだった。

ニコラスが運転する車がゲリラの襲撃を受け、同乗したアミンは、危機一髪のところを救い出されるに至り、ニコラスはアミンから、これまで以上に信頼されるようになった。

 しかし、自分のスケジュールが外部に漏洩していると決めつけたアミンは、身内に獅子身中の虫(裏切り者)がいると激怒し、以降、内通者狩りを駆動させるのである

 「アフリカは、“暴力には暴力”の土地だ。それで生きていく」

これは、英国高等弁務官のストーンに、ニコラスが放った言葉

 何かと自分に近接して来て、情報の共有を図ろうとするが、ニコラスイングランド嫌いの心情が、こんな挑発的な言葉に結ばれるのである

 まもなく、アミンの粛正加速する現実を目の当たりにしたニコラスは、あろうことか、素人判断によって、閣僚として誠実な仕事を黙々とこなす保険大臣のワッサワを、アミンに注進するに至る

今や、ニコラスもまた、国家機関の一翼を担うに足る不徳行為に走ってしまうのだ。

 しかし、その不要な一言が、ワッサワを窮地に陥れてしまった。

 ワッサワが処刑されたのである

 ところが、ワッサワの小声での会話の内実が、製薬会社との商談であった事実を知って、ニコラスは決定的な局面に立たされるに及ぶ。

贖罪感に駆られたスコットランドの白人青年から、「定着からの戦略的離脱」などという「青春彷徨篇」の軽量感は完全に剥落され、自分の置かれた状況のシビアな現実の重量感がリアルに覆い被さってくるのである

ニコラスの「青春一人旅」が終焉した瞬間だった。

アミンに帰郷を申し出たが、アミンが許容する訳がない。

 「君に必要なのは楽しむことだ」

アミンに、そう言われるのみ。


ニコラスとケイ
脱出への選択肢を奪われたニコラスは、アミンの第三夫人であるケイと性的関係を持ってしまう。

「彼は、本当の姿をあなたに隠してたのよ。ここから逃げなくては。彼は誰も信用しない」

ケイの言葉だ。

しかし、もう何もかも手遅れだった。

ニコラスの部屋が荒らされ、脱出への唯一の手立てであった、自分のパスポートも没収される始末。

英国高等弁務官ストーンに救いを求めても、けんもほろろに断られてしまう。

「脱出の切符は自分で買うんだ。君の仇名は、“アミンの白いサル”」

ストーンの反応だ

「脱出の切符は自分で買う」とは、毒殺の指示のこと。

英国もまた、暴走するアミンに早々と見切りをつけたのである

今や、暴走するのはアミンばかりではなかった。

ケイと性的関係を持ったニコラスは、ケイが懐妊した事実を知って仰天する。

どこまでも軽薄な男だが、「出口なし」の状況下にある男にとって、自暴自棄的に振る舞う行為の爛れ方は、それ以外にない悦楽の世界に潜り込む感情氾濫の突沸(とっぷつ)だったのだろう。

それは、「自己責任」の枠組みを突き抜ける何かでもあった。

ニコラスは堕胎手術の方略に縋るしかなかったが、結果的に徒労に終わったのも、「大統領の妻」に手を出した報いであったのか。

呪術が蔓延(はびこ)る、このような国では、完璧に堕胎手術を遂行する場所が存在しない事実すらも把握し得ない医師 ―― それが、「青春彷徨篇」の軽量感に任せて赤道直下の国にまで、「自分探し」の旅の稜線を伸ばした白人青年の裸形の様態だった。

結局、ケイの懐妊の情報はアミンの耳元に入り、そのケイも虐殺されてしまうのだ。

切断された腕と脚の惨殺死体を視認したニコラスは、アフリカの文化風土の根深さを無視し、唯一、絶対規範と考えたに違いない西欧合理主義によって安直に変換させてしまった傲慢さが、またししも、新たな死体を加えてしまったのである。

アミンの毒殺を決心したのは、このときだった。

頭痛薬を求めるアミンに、ニコラスは毒薬を手渡したのである


現在のエンテベ国際空港
折しも、イスラエル人を同乗させたエアバスA300が、PFLP-EO(パレスチナ解放人民戦線のの分派)にハイジャックされる事件が起こり、ウガンダのエンテベ空港に着陸したという情報が届く。

テロリストを支援するアミンに、同行を命じられたニコラスは、同じ車で空港へと向かうが、一向に毒薬に手をつけないアミンに神経を尖らせるばかり。

アミンの屈強なボディガードが、これを怪しみ、一人の少年に毒見させようとしたのを目視したニコラスは、この行為を遮断させることで彼の毒殺未遂が露呈し、当然の如く、激しいリンチを受ける。

逆さ吊りにされたニコラスの命は、今や風前の灯だった。

そんなニコラスの命を救った男がいる。

アミンの前主治医であったジュンジュである

「君は死んで当然だが、死んだら何もできない。命があれば、罪を贖うこともできるだろう。私は憎しみを見過ぎてしまった。この国を覆っている憎悪、あまりにひどい。アミンの実像を世界に知らせてくれ。人は信じる。君が白人だから」


ジュンジュ
 「君が白人だから」という言葉には、存分のアイロニーが含まれているが、このときのジュンジュの心境には、もう、それ以外にこの国を救う手立てがないと括った者の覚悟が眩く放たれていた。

その結果、ニコラスは、ハイジャックで解放された人質に紛れて、輸送機に乗ることに成功し、ウガンダの「悪魔」が張り巡らした蜘蛛の巣から解放されるに至ったのである

ニコラスの「悪夢」が終焉した瞬間だった。

ニコラスを救ったジュンジュの死を含めて、「悪夢」の終焉の代償が計り知れないほど甚大であった現実によって、ニコラスの「青春彷徨篇」の軽量感覚など、当然の如く、木っ端微塵(こっぱみじん)に吹き飛ばされてしまったばかりか、ここから開かれる贖罪の行程もまた、軽薄なる西欧青年の自我を甚振(いたぶ)ることなしに済まない未来をも予約してしまったのか。

一方、張り巡らした蜘蛛の巣から脱出した男を乗せた輸送機を、ウガンダの「悪魔」は深い沈黙の中で眺め続けていた。



4  権力者はなぜ「堕落」するのか ―― 心理学実験が教えるもの



「彼は軍隊(軍参謀総長時代の事)からの人気があり、当時の大統領オボテは、彼を退かせようとしていました。逆に英国やイスラエルそして西の各国は、この機会がオボテを退陣させるきっかけになると考えたんです。なぜならこのとき、アフリカ東部ケニア・タンザニア・ウガンダのリーダーが社会主義者で、それぞれの国が社会主義を形成しようともくろんでいると考えたからです。
 
 これが彼を権威に就かせ、オボテ大統領を退かさせ、後にこれが、ある意味自分を助けるための行動でもあったのです。実際彼自身、命を狙われていると思っていたんです。それから彼は、彼の力のできる限り国を救おうとしたんですが、彼は軍人であって政治家ではなかったのです。もっとも彼は農業改革を導入したり、現在でも施行されているウガンダの憲法の改正をしたり、ラジオ局を建てたり、演劇のプログラムを作ったり、全くなかったビジネスクラスを形成したりしたんです。彼は四苦八苦してたんです。ただ徐々に命が狙われているという被害妄想から恐怖に怯え始め、それが怒りに変わり、権力だけで支配した腐敗の状態になり、無秩序な悲劇を招くことになったのだと思います」(シネマトゥデイ フォレスト・ウィッテカー・インタビューより)


フォレスト・ウィテカー
 このフォレスト・ウィテカー自身の言葉の中で重要なのは、「英国やイスラエルそして西の各国は、この機会がオボテを退陣させるきっかけになると考えたんです」という指摘と、「彼は四苦八苦してたんです。ただ徐々に命が狙われているという被害妄想から恐怖に怯え始め、それが怒りに変わり、権力だけで支配した腐敗の状態になり、無秩序な悲劇を招くことになったのだと思います」という把握にある。

即ち、西欧諸国に担がれて、クーデターという名の圧倒的暴力によって権力を握った者が、その権力の保持に四苦八苦し、いつしか、自らへのテロの被害妄想に取り憑かれ、恐怖に怯える心理が、敵対勢力(ミルトン・オボテ一派)への憎悪に転嫁することで、完全に自制不能の無秩序な統治の様態を招来したということ。

それは、このような手法によって権力を握った者の、半ば普遍的な爛れ方と脆弱性を、余すところなく露呈させたという、極めて人間的な文脈である事実を検証するものだった。

何より由々しき事態は、圧倒的暴力によって権力を握ったか否かに拘らず、権力者にまで上り詰めた者の心理が、他者の状況や感情に対する共感性が低くなるという現実である。

 この指摘は、既に、ノースウエスタン大学等の心理学者によって、実験的に検証されている。

 例えば、幾つかの研究によれば、権力的な地位にある人は、他人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。

「権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした『多数意見』が実際の法律になっていくことだ。権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる」WIRED.jp Archives  2011年6月3日 [日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子])

私には、この指摘は、充分に合点が いくものだ。

更に、この報告は指摘する。

「男性の場合は、裏切り者が罰を受けるのを見て、腹側線条体および側坐核など、脳の報酬に関わる領域の活動量が増大・どうやらわれわれは、罰を受けるに値する人間が罰を受けることで、快感を得るようにできているらしい。ゲーム理論をシンプルに具現化したこの囚人のジレンマというゲームは、何千回と繰り返して行なわれた場合、『しっぺ返し』という基本戦略が最も効果を発揮することがわかっている。しっぺ返しのルールは驚くほど単純だ。相手が出方を変えない限り、囚人は互いに協調する(自白しない)。ただし、相手が出方を変えてきたら、それと同じことを相手にやり返す(略)これによって、裏切りは確実に間違った選択肢となり、裏切ればしっぺ返しをくうことを人々は知る」(前掲引用文より)

ましてや、クーデターという名の圧倒的暴力によって権力を握った者なら尚の事、疑心暗鬼を再生産する冥闇(めいあん)の闇に搦(から)め捕られていく、粘液状のドロドロの悪循環を回避し得ないに違いない。

自らへのテロの被害妄想に取り憑かれ、恐怖に怯(おび)える心理が、敵対勢力(オボテ派)への憎悪に転嫁することで、完全に自制不能の無秩序な統治の様態を招来するのは、心理学的文脈から言えば、殆ど例外なく必至であるだろう。



5  自らの能力を超えた状況をコントロールし得ない権力者の、深い冥闇の闇の深層心理



ここで、本作を考えてみよう。

共産主義政権を嫌う英国が、オボテ政権を倒すために担ぎ上げた男こそ、出生地不詳で、ヘビー級チャンピオンの履歴を持ち、オボテ政権下で軍参謀総長だったイディ・アミンだった。

英国にとって、アミンの起用は政治力というよりも、そのカリスマ性を利用した、その場凌ぎの応急処置であったと思われる。

その経緯を認知しているからこそ、アミンの内側には、常に反英感情が塒とぐろを巻いていたのだろう。

そんな状況下にあって、ニコラスの視線を通して描かれるアミン像の、多くのエピソードの中で最も重要なのは、ニコラスが運転する車に乗ったアミンが襲撃されるシーンである。

この事件が、オボテ派のテロであることが判然としても、アミンの中で沸々と起こってきた感情、それは自分のスケジュールを敵側に内通した「裏切り者」がいるという結論だった。

それは、それまでユーモア含みに描かれていたアミンの「もう一つの相貌」が、決定的に変容する瞬間だった。

どこまでもニコラスの視線を通して描かれるアミン像には、このような「もう一つの相貌」が入り込む余地がなかったが、それは「自分探しの旅」を延長させる軽薄な白人青年の状況把握力が脆弱であったに過ぎないとも言える。

しかし、映像が敢えて、このエピソードを挿入したのは、この一件によって、アミンが独裁者としての本性を剥き出しにするシーンの連射が開かれたという把握があるからだろう。

この辺りから、多くの独裁者がそうであるように、アミンもまた、猜疑心が強い男に極端に振れていき、その延長線上に、「内通する裏切り者を殺せ」という、暴力によって権力を掌握した者の心理的文脈が必然化されるのである。

権力者として君臨する「絶対特権」を掌握したアミンもまた、権力者の「堕落の心理学」のトラップに嵌っていき、他者への自然な共感感情は削ぎ落とされていく。

同時に、「囚人のジレンマ」という「ゲームの理論」をなぞるように、裏切ればしっぺ返しを喰うことを認知させるための残酷な仕打ちを常態化させていくのだ。

オボテ派のテロに怯え、慄(おのの)くアミン。

アミンの怯えの心理は、既に、腹痛を放屁で治したというユーモア譚のうちに、本人の口から吐露されていたエピソードが想起されるだろう。

オボテ派に毒を盛られたと独り合点まったのである。

テロの恐怖に怯える独裁者の心理は、主観の暴走を惹起させやすいのだ。

アミンが爾来、「裏切り者」と断定した、自分の内閣の閣僚をも抹殺するという状況を招来したのは、アミンの内側に巣食っている恐怖感情の発露でもあった。

だから大抵、こういうとき、このような状況下に置かれた権力者は大量虐殺を繰り返す。

その文脈で考えれば、アミンだけを狂人扱いして、自分と一線を画する多くの権力者の発想は、仮に自分がそのような状況に置かれた際に、同じ誤謬を繰り返す危うさを初めから否定してしまっているのである。

その辺りが、自らの能力を超えた状況をコントロールし得ない権力者の、深い冥闇(めいあん)の闇の深層心理を言い当てている。

ここでは、暴力によって権力を握った者が、テロに遭う確率が極めて高い事実を把握せねばならないだろう。

因みに、暗殺未遂のギネス・ナンバーワンが、フィデル・カストロの638回という事実が公表されている。

その大半が米中央情報局(CIA)によるもので、病気療養のため議長職を暫定委譲して、一線を退いた2006年までに暗殺計画があったという事実を、共同通信が配信しているのだ。(2011年12月)


フィデル・カストロ
それでも、2012年4月の時点で、権力(国家評議会議長=国家元首)を5歳年下の実弟ラウルに譲ったとは言え、今なお健在でいるフィデル・カストロ(2012年4月現在で85歳)の例は、殆ど例外中の例外である。

私利私欲とは無縁な人格イメージによって、他国の独裁者たちとは一線を画されているが、それも、ソ連という強力な後ろ楯があったればこそと言っていいだろう。

また、少年時代から真面目な性格で、成人後も温厚な人柄であったと言われるポル・ポトが、カンボジアを「キリング・フィールド」の地に変えたのは、そこにイデオロギーという極めて厄介なボトルネックが張り付いていたからだが、それとは無縁に、不特定他者への猜疑心が消えない内なる恐怖心との折り合いの悪さこそが、自らの能力を超えた状況をコントロールし得ない権力者の、深い冥闇(めいあん)の闇の深層心理を検証するとも言えないか。

前二者と違って、強力な後ろ楯どころか、イデオロギーという観念系のバックボーンを有しているとは思えないアミンの相貌は、テロの恐怖に怯える非日常の日常化の、その日々を綱渡りのように繋ぐ危うさと切れない心象風景において、恐らく、カストロのような胆力を持ち得ない者の脆弱性そのものだった。

要するに、イデオロギーという観念系のバックボーンも、強力な後ろ楯を持ち得なれば、恐怖感に歯止めがかからないということである。

胆力による自己防衛機制には臨界点があるのだ。

私の定義によると、胆力とは「恐怖支配力」のことである。

この「恐怖支配力」による自我の武装は、簡単に人格内化される類のものではない。

まして、数多の権力者は、酒池肉林(しゅちにくりん)とは言わないまでも、その孤独の心情の捌け口に、権力者として君臨する「絶対特権」を利して、己が生活を華美にさせる振る舞いに流されていきやすいのである。

他者への自然な共感感情削ぎ落とされていくに伴って、いつしか確実に、且つ加速的に、「裸の王様」の世界に堕ちていく運命は免れないのだ。

プール付きの邸宅に住み、夜な夜な、饗宴を催すイディ・アミンもまた、その例に洩れなかった。

権力者の爛れ方と脆弱性の典型例の一つが、イディ・アミンだったという訳だ。

権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する。


ジョン・アクトン
やはり、ここでも、19世紀のイギリスの歴史家であった、ジョン・アクトン卿の格言は普遍性を持ち得たということか。



6  「悪魔」の「絶対的ルール」を分娩した根源に横臥する、ヨーロッパ人のアフリカ観へのルサンチマン



「自分探し」としての「青春彷徨篇」の軽量感覚を推進力にして駆動させてきた、スコットランド人青年ニコラスの場合はどうか。

観る者は、彼のあまりの非武装ぶりに驚きを禁じ得ないだろうが、アラン・パーカー監督の「ミッドナイト・エクスプレス」(1978年製作)でも描かれていたように、まるでゲームのようなドラッグ・トリップと違(たが)わないほどの世界漫遊に、安易に他国の文化風土を無視した感のある若者たちの傍若無人振りが、恰も、反体制を気取る意匠であるかの如く暴れ回っていた時代があったのだ。

世界漫遊を傍若無人に愉悦する、60年代の若者たちのカウンターカルチャー(対抗文化)が、ほんの少し延長された時代に、本作のニコラス青年も呼吸を繋いでいたことを忘れてはならないだろう。

あまりの非武装さ故に、異文化との「大クラッシュ」によって、自我を破壊される危機にまで及んだビリー・ヘイズ(「ミッドナイト・エクスプレス」の主人公のアメリカ人)とは切れて、このニコラスには、「自分探し」の旅の中に「一縷の使命感」が内包されていた分だけマシな方である。

それでも、豊かな医師の家系に生まれた彼が、恐らく、殆ど苦労なく医大を卒業したとき、このような環境下に置かれた少なくない青年がそうであるように、彼もまた、単に、「父の後継者」となるという選択肢によって縛られ、「予約されたハッピーライフ」という人生軌道に流れるだけの生き方への拒絶感を身体化させたかったのだろう。

だから彼は、「自分探し」の旅を駆動させていったに違いない。

ところが、彼が選んだ目的地は、「異文化クラッシュ」をマキシマムに感受させるに足る、赤道直下の政情不安な国家であったこと―― これが、彼の運命を決定づけたのである。

然るに、相も変わらず、この青年には、「青春彷徨篇」の軽量感覚が張り付いているから厄介だった。

ウガンダに到着早々、さっさと、下半身の処理をする小さなエピソードが挿入されていたが、まさに、そのエピソードのうちに、彼の「青春一人旅」の軽量感覚の本質が凝縮されていたと言える。

今や、特段に驚かされる類のものではないが、「異文化クラッシュ」をマキシマムに感受させる国に降り立ちながら、彼にはアフリカの政情はもとより、その文化風土すらも理解できていないのだ。

そんな青年と出会った「初頭効果」(第一印象効果)の切れ味に驚嘆した、立ち上げまもない、「出来立て」の独裁者のトラップに嵌められ、まるで蜘蛛の巣に引っかかった小虫のように搦(から)め捕られていく怖さについて、全く認知できていない「世間知らず」=チャイルディッシュぶり。

例の、牛とのクラッシュ事故によって、現地人を驚嘆させた、彼の西欧合理主義の発想について、彼自身が全く自覚できていなかったということ。

その辺りに、彼の振れ方の軽量感覚が内包する危うさがあった。

更に言えば、この映画で重要なのは、どこまでも、ニコラスの視線を通して描かれていることだ。

だから、その視線のフィルターを通して映し出されるアミンの相貌について、この映画は、アミンの人格が抱えた複雑な側面の一部のみを、観る者に映像提示してくるのである。

そんな青年が、ようやくアミンの人格が抱えた、「悪魔的な相貌」と出会ったときには、この国の経済が疲弊し、英国の植民地時代に入植したインド系移民の追放、オボテ派によるテロ分子の掃討や「裏切り者」への粛清などという、物騒な事態が惹起されていたのである。

そこに至らなければ、認知し得ないほどのニコラスの内側には、状況の変化を察知し、機敏に洞察するに足る、明瞭な政治信条に関わる問題意識が全く張り付いていないことを検証するものだろう。

そして、遂に決定的な事態がやってくる。

主観で判断した「裏切り者」を、アミンに内通する件(くだり)である。

既に、アミンの「悪魔的な相貌」の支配力のうちに捕捉されていたニコラスの自我は、権力者のトラップに嵌められ、すっかり蜜の味を愉悦する時間の中枢に潜り込んでしまっていて、もう、自らの能力で事態をコントロールし得なくなっていた。

自暴自棄になていくニコラスの自我の崩れは、それを防ぐに足る思想的基盤が欠如している分だけ、爛れの様態を顕在化させていくのである。

追い詰められた果てに、ニコラスが選択した防衛手段はアミンへの毒殺。

しかし今や、身内にすら武装解除を解かない、アミンの用心深さという障壁を突き抜けられず、呆気なく未遂に終わり、他の「裏切り者」がそうであったように、ニコラスもまた、嬲(なぶ)り殺しに遭う運命を免れなかった。

「“アフリカに行って、僕は白人。お前は現地人”っていうゲームをしようと。我々はゲームじゃない。人間だ」

これが、そのときニコラスに放ったアミンの痛罵である。

この辺りに、本作の基幹メッセージが集約されていると見るのは間違いないだろう。

人類発祥の大陸でありながら、本来の全貌を知らなかっただけに過ぎないのに(注4)、「暗黒大陸」と揶揄され、文明から取り残されたと決めつける傲岸不遜(ごうがんふそん)な発想の延長線上に、キリスト教という「光」を与えることで、そこに住む人々の無知蒙昧さを解き放つという名目で、この大陸を分割(注5)し、植民地化してきた西欧列強の暴力的支配の内実は、今でも、そこに眠る資源の争い(注6)となって延長されている事実を忘れてはならない。

アミンの痛罵は、凶暴極まりないアミンという独裁者ですら、政治利用することを躊躇しない、西欧のアフリカ政策に対する根柢的な弾劾でもあった。

その弾劾の矢面に立たされたのが、そんな西欧の歴史に無頓着で、「自分探しの旅」を繋ぐだけの白人青年であったことは、限りなく、アイロニーに満ちた映像的提示であったと言える。

「あなたは子供だ。そのことが余計怖い」

これは、断崖に立たされたニコラスが、窮鼠猫(きゅうそねこ)を噛む心境下で放った、最後の抵抗言辞である。

しかし、「子供」なのはアミンではなく、寧ろ、ニコラス自身なのだ。

「過剰武装」に流れたとはいえ、良かれ悪しかれ、不断に防衛機制を働かせているアミンと異なって、この白人青年は、まるで非武装そのものなのだ。


実際のイディ・アミン
このような非武装の軽量感を、「ゲーム」と呼んで弾劾するアミンの方が、遥かに説得力があると言えるだろう。

「私の村では、もしも長老の妻を寝取った者がいれば、そいつを木に吊るす。それも皮膚だけでな。痛さのあまり叫ぶたびにな、悪魔が盗人の体から抜けていく。悪魔が抜け出るのに、3日3晩かかることがある」

ここで言う、「悪魔」=アミンであると言っていい

しかし、この「悪魔」は、自分の妻を寝取った者へのペナルティによって、痛さのあまり叫んでも、手ずから、「盗人の体から抜けていく」ことはない。

ペナルティに有効期間を設定しないのだ。

裏切り者」への報酬は悶死以外にないのだ。

この恐怖の力学によって、対象人格の自我を破壊する。

この恐怖を抜けるには、「悪魔」が張り巡らされた蜘蛛の巣からの脱出を図る以外にない。

しかし、「過剰武装」の「悪魔」の蜘蛛の巣からの脱出には、人身御供(ひとみごくう)を必要としてしまうのだ。

ニコラスもまた、この「悪魔」の「絶対的ルール」から免れ得なかった。

「悪魔」の「絶対的ルール」を分娩した根源に、ヨーロッパ人のアフリカ観へのルサンチマン(怨念)が横臥(おうが)しているのである。

結局、この物語は、このような白人青年の軽量感覚によって繋いだ旅に集約される、ヨーロッパ人のアフリカ観へのアンチテーゼの一篇とも言えるのではないか。

そう思われるのだ。


(注4)8世紀から11世紀にかけて、中継貿易の基地として繁栄した黒人王国である「ガーナ王国」があり、12世紀から19世紀末に至るまで、ナイジェリア南部に「ベニン王国」が存在し、15世紀には黄金時代を迎える王国として君臨。更に、13世紀以降、金の交易で栄えた有名な「マリ帝国」があった。15世紀半から16世紀にかけて、スーダン地域を支配した黒人王国の「ソンガイ帝国」も知られている。

(注5)1884年のベルリン会議で、コンゴ植民地化に端を発する、西欧列強による「アフリカ分割」のルールが決定された。この会議以後、西欧列強のアフリカ分割が本格化したという歴史はあまりに有名である。

(注6)近年、世界中の資源を漁る中国に対して、「資源パラノイア」という新造語が生まれている。



(2012年5月)



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