tag:blogger.com,1999:blog-6013290833765392951.post8579576280993966547..comments2024-02-13T13:52:39.422+09:00Comments on 人生論的映画評論・続: 夜と霧('55) アラン・レネUnknownnoreply@blogger.comBlogger4125tag:blogger.com,1999:blog-6013290833765392951.post-74189135770338418522022-09-28T22:40:14.823+09:002022-09-28T22:40:14.823+09:00ご丁寧に御礼を下さりありがとうございました。ご丁寧に御礼を下さりありがとうございました。Yoshio Sasakihttps://www.blogger.com/profile/15976101306794689765noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6013290833765392951.post-73105020185291285892022-09-28T13:26:00.525+09:002022-09-28T13:26:00.525+09:00本日(令和04年9月28日)、返信頂いたことに気付きました。深く感謝申し上げます。頂いた文章を丁寧に...本日(令和04年9月28日)、返信頂いたことに気付きました。深く感謝申し上げます。頂いた文章を丁寧に繰り返し読み、自分の言葉に少しでも変換して現実世界と協働できるようになれたらと願っています。御返信重ねて御礼申し上げます。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6013290833765392951.post-82611729370075918082022-08-19T11:49:17.265+09:002022-08-19T11:49:17.265+09:00コメントに気が付かずに失礼しました。
匿名さんが提示していることを私なりに捉え、以下、持論を述べてみ...コメントに気が付かずに失礼しました。<br />匿名さんが提示していることを私なりに捉え、以下、持論を述べてみます。<br /><br />私がこの映画批評で書きたかったのは、私たちの自我の脆弱性です。<br />「良心」の正体も自我であると考えているので、この「良心」もまた、「システマチックな分業システム」に把握・包括されてしまったら、人為的に仮構された「絶対的な組織」のうちに容易に呑み込まれ、「権威と服従」の関係に捕捉される危うさを有するということ。<br />また、この関係の強度の中で、自らが担う「役割」を通して、しばしば「快楽」に浸ることを可能にするので、いつしか、件の者たちが「組織の真摯な実践者」を演じていく事態に無自覚になり、まして、「我々」という大きな記号性の一翼を担うことに疑義を感じることのない存在を具現化してしまうでしょう。<br />だからこそ、私たちの脆弱な自我を常に相対化して、洞察力・メタ認知能力を、少しでも強化する努力が求められていくということ。<br />それ以外にないと考えています。<br />しかし「快楽」に浸ることを可能にするのは、ラインハルト・ハイドリヒのようにサイコパス的人間でない限り、どこまでも、自らが担う「役割」の非合理性・悪徳性が充分に認知し得ていないからであり、それが「適切行動」であると感受している何かが個我の中で機能していないからです。<br />ユダヤ人の恋人を持つアイヒマンの場合、自らの事務的行為が「非適切行動」であると考えていた節があり、しかも直接、ホロコーストの場に立ち合っていないこともあって、必ずしも「快楽」のシャワーを被浴し続けていたとも思えないので、彼は裁判を通して、全て「権威と服従」を強いる組織が悪いという風に責任転嫁したのしょう。<br /><br />閑話休題。<br /><br />企業や行政が「ハラスメント撲滅宣言」を「絶対正義」として振りかざしてきたら、組織総体の関係の力学を検証する機関(第三者機関など)の立ち上げが切望されますが、事態は個別の案件なので、行為の検証は洞察力・メタ認知能力に依拠する部分が多いが故に、最終的には、思い込みに捉われないファクトフルネスを高める内的行程が要請されます。 <br />だから、悪の完全なる超克が困難であっても、その行為を「適切行動」と判断したら、それが常に「苦しい方の行動を選択」になるとは限りません。<br />獲得経済の時代から1万年のスパンしか経っていないにも拘らず、近代社会を早々に作り上げたことで残された「野生時代の感情」(注)との折り合いの難しさを有しつつ、私たち人間は、より倫理的行為の選択肢の幅を広げ、それを進化させてきた精神史だけは否定できません。<br />どれほど脆弱であっても、生存・適応の司令塔(生き延び戦略)としての私たちの自我は、時代が生む悪に対峙し、どれほど時間を要しても超克していくと、私は考えています。<br /><br />(注)野生時代であっても、テリトリーが侵害されたら、侵害者に対して、「警告」⇒「威嚇」⇒「意気消沈」⇒「謝罪」⇒「赦し」という道徳的行為が履行されていました。<br /><br />Yoshio Sasakihttps://www.blogger.com/profile/15976101306794689765noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6013290833765392951.post-30227082899161149652022-07-24T15:39:21.409+09:002022-07-24T15:39:21.409+09:00ハラスメント根絶宣言という名の絶対正義を現実のものとするよう"指示"されています...ハラスメント根絶宣言という名の絶対正義を現実のものとするよう"指示"されています。<br />”もやもや”がある時に、人生論的映画評論さんの頁・河合隼雄先生の頁に辿り着きます。<br />境界を分けるものは何か。非適切行動に向かう瞬間に私達=ヒトの頭(脳)は、快楽に浸っているのでしょうか?<br />非適切行動は快楽行動であり、適切行動は苦行と言うことと捉え、行動の選択の際、苦しい方の行動を選択することでしか、悪を超克できないのでしょうか?<br />Anonymousnoreply@blogger.com